逃走
ラハナーの心に(この場所から逃げ出せるかもしれない)という、悪魔の囁きが忍び込んだ時、彼は即座にその考えを捨てようとした。
まだ、皆は必死に戦っている。騎士団も撤退してないようだ。分断された討伐隊はなんとか合流しようと皆が力を合わせている。
そんな中、自分だけが逃げ出す…?
(馬鹿な…流石にそんな事はできっこない。それに”こちらの逃走を見逃す”ってのはあくまでも、俺の”勘”にすぎない。たまたまオークの戦線に、綻びらしきものが見えているだけに過ぎないのかもしれない)
…ラハナーは、”逃走”と言う考えを頭から捨てようと首を振った。そうだ、そんな事を考えている場合ではない。今はオークを打倒して合流することが、一番大切な事だ。
(…だけど)
ラハナーは戦いに集中できなかった。戦いのさなか、ラハナーは再び思いを巡らせる。
(今日一日、余りにも色々な事がありすぎた…楽勝だと思っていた戦いが、こんな状態になり、死にそうな目に遭ったり…助かったと思ったら…今度という今度こそ、俺の命の
戦いの女神アイギナは気まぐれだ。”男は頑固。女はいつだって気まぐれ” 仲間といつも冗談を叩いていたラハナーだが、今日と言う日に、その言葉をここまで痛感したことはなかった。
結局、”神にまで昇華したところで、女ってのは気まぐれ”なんだろう。ほんの短い間でラハナーと討伐隊は、アイギナによって幾度となく振り回された。ラハナーは疲れていた。心底疲れていた。少し前に燃え立つような戦意が湧き上がっていたのが嘘のようだった。
ラハナーは前を見る。気が付くと自分は集団の真ん中くらいの位置まで下がっていた。一番命の長らえられる場所。だがその命は他の兵士と同じように、じきにオーク達によって消されてしまうんだろう…
(…『一体どうしてこうなった。どうしてどうしてこうなった』)
ラハナーの心の中に、突然幼少時によく歌った童謡の一節が流れ出した。暗い暗喩を含んだ、昔から伝わる、ありがちな少しダークな童謡だ。
一体どうしてこうなった。どうしてどうしてこうなった。
台所を見てごらん
四角い窓を見てごらん
飛び込む馬車を見てごらん
御者は骸骨
不吉な笑みを浮かべてる
お前をさらって連れていく
悪い事はしていないよ
だけどお前をさらって連れていく
闇の世界へ連れていく
耳を澄ませど聞こえない
声を出しても響かない
暗い
どうしてどうしてこうなった
一体どうしてこうなった
昔、祖母に教えてもらった不吉な歌詞と低い音階の童謡。祖母の歌う歌声は酷くしゃがれて重々しく、それが童謡を一層不気味なものにしていた。幼少時のラハナーは、その童謡が余りにも怖く、留守番の時などは、例え昼間でも
今、成人したラハナーに、黒馬に曳かれニヤニヤ笑いを浮かべた、骸骨の御者を乗せた馬車が近づいてくる気がした。いや、もうすぐ傍まで来てるんだろうか?
思わず、
(それでも、だいぶくたびれてきたな。でもまだ使えるだろう。街に帰ったら防具屋の…いや、アイツはすぐに新品を売りつけようとしてくるから…やっぱり革職人のボジェク爺さんの所で手入れして貰うか…)
そこまで考えた時、”自分の命がもうすぐ
(そうか…もうじき俺は死ぬんだ。手袋の心配なんてしなくて良いんだ。…俺は…俺はどうせ、蘇生魔法での復活なんて無いだろうし…勇敢な兵士が死後呼ばれるっていう”称賛されし戦士の間”にも行けないだろう。行くのは
ラハナーはそこまで考えると、何とも言えない気持ちになった。二十一歳。恋人は居たが最近別れた。結婚はしばらく遠のいてしまった、しがない農家の息子。 時々、王国軍に呼ばれて訓練と戦争に参加する平凡な農夫兼歩兵だった。この王国に生まれ、この歳まで生きて…
そして、オークにぶちのめされて死ぬ。
ラハナーは悲しかった。泣きたくなるような気持ちで、汚れた皮手袋をじっと見た。その時、乾いた手袋に、”ぽつん”と一滴の水滴が付いた。水滴は皮の表面を焦げ茶色に染めながら、ゆっくりと
(…え?)
ラハナーは自分が泣いたのだと思った。いや、違う。泣きそうになってはいたが泣いてはいない。咄嗟に顔を上げ、空を見上げた。
(雨だ)
例の黒馬の馬車に乗った死神が喜びそうな、ひどく暗い空と黒雲が、ラハナーの上空を覆っている。その雲間から大粒の雨が降ってきた。雨は段々と勢いを増してくる。
顔に掛かる水滴から避けるために顔を下げた。顔を下げた時、ふと横目で隣にいる兵の顔が目に入った。ラハナーが知らない顔。違う分隊の兵だろう。彼はラハナーと同じく使い古された粗末な装備と武器を身に着けている。
彼は、彼の仲間二~三人と固まって立っていた。そして、彼らは緊張した顔で谷の出口を窺っている。…そうか、彼らも気が付いたのだ。そこだけオークの配置が妙に少ない事に。
ラハナーは、彼らから目が離せなかった。彼らも先ほどのラハナーと同じ心境なんだろう。心の中で何かと闘っているような表情をしている。
…その時、彼らの一人がラハナーの視線に気が付き、こちらに目を向けた。目と目が合う。ラハナーは敢えて視線を外さなかった。
思考を乗せた視線と視線が絡みあう。一瞬の間、二人は視線で会話をした。意思の確認を。
彼は緊張で引き攣った顔をしている。目玉が眼窩から飛び出しそうだ。間違いない。ラハナーは確信した。彼も退路がある事に気が付き、そして”脱出”の誘惑と戦っている。
ラハナーは、彼の顔を見ながらかすかに頷いてみせた。そして首を動かし、谷の出口へと顔を向けた。そして、もう一度彼の顔を見てから、先ほどより大きく頷いた。
彼の喉が動いた。生唾を飲み込んだんだ。そして、ラハナーに向かって軽く頷き返す。彼とラハナーの声無き会話は、彼の仲間にも伝わったらしい。こちらを凝視している。
(やるか…?)ラハナーは心の中で問い掛ける。
(行くなら…一緒だぞ?)相手の心の声がはっきり聞こえた。
(大丈夫だ。俺はもうこんな所にいるのはコリゴリだ…心配するな。裏切ったりしない)ラハナーは心の中でそう答えると、彼が先ほどしたように口中の唾を飲み込むと、右脚を谷の出口に向けると、一歩大きく踏み出した。
(分かった…”せーのっ”だぞ?)ラハナーは再び心の中で問い掛ける。
またもや通じたようだ。彼も決意を秘めた顔でラハナーに向かって頷き返す。そして、同じように爪先を、谷の出口に向けた。それを見た彼の仲間も身体の向きを変える。
ラハナーは一つ息を大きく吸い込んだ。
(せぇーーーーのッ!)
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