事故
そして、バスの車中。英俊は窓側。長倉は通路側の席に座った。近くに陣取った深馬が、浮かれついでに英俊にちょっかいを掛けようとするが、手前に陣取るは『仲良し二人組』に任命された、『眠れるオーク』長倉。
深馬は、長倉に睨まれるリスクを感覚的に知っている。長倉はクラス総がかりで苛めても気にしないだろう。暴力で訴えても怯まないだろう。いや、鍛え抜かれた柔道経験者に暴力で威圧なんて出来っこない。
『強者には手出しはしない』深馬にはそういった狡さだけは完ぺきだった。だから、長倉と言うマジノ線を乗り越えて、英俊にちょっかいを掛けてくることはなかった。
ところが一時間ほど経った頃、長倉は突然立ち上がるとバスの後部へと移動した。このバスは『小』専用ながらトイレが付いていた。彼は用を足しに行ったのだ。
この機を逃すわけない。大穴が開いた防衛ラインに、深馬が侵入してきた。その時、英俊はアニメソングを聴きながら、漫画を読んでいた。皆と楽しむことも出来ない。隣の長倉は敵ではないが、友でもない。所在が無ければ日常を楽しむしかない。
しかし、そこにサディスティックな笑みを浮かべた深馬が日常を食い破ってきた。彼の隣には深馬の彼女である、
粟國は、クラスでも目立った美人だった。そして本人も十二分に自覚していた。教師に指導されない程度に化粧をし、髪を茶色に染めていた。大きな瞳は念入りなアイメイクによって、更に魅力的に映った。
ただ、性格は最悪だった。クラスと接点の無い英俊にすら、その悪評が轟き渡っていた。ただ、クラスの男子では影響力のある深馬の彼女、という一点だけで、彼女は取り巻きを引き連れ、女皇帝のごとく振る舞っていた。彼女に逆らえる奴はいなかった。
「南條ぉ、おめーさ、林間学校に行くって言うのに、こんな所までマンガ読んでんのかよ」深馬が毒蛇のような眼でこちらを見る。
(ほっといてくれよ。かんけーねーだろ)
英俊は心の中で思った。だが、声に発する事が出来ない。何で俺は言い返せないんだ。自分に自信が無いからか。強さが無いからか。
「……」結局、蛇に睨まれたカエルのように黙りこくる。
その時、深馬の腕がさっと伸びると、英俊の持っている漫画を取り上げた。驚くほどの素早さだった。
「や、やめろよ」思わず声がでる。
「え?なに?『勇者なボクとエルフな姫騎士の大冒険』?! ぎゃははははお前、バスの中で何読んでんだよ!」深馬が大将の首を取ったかのように、大声で叫ぶ。もちろん、他のクラスメイトに聞こえるようにだ。
「なに、この女。南條、こんなん読んでるんだ……変態じゃん。キモイわ」開いたページを覗き込んだ粟國が露骨に不快そうな顔をする。
この手の漫画ありがちな女性キャラ。騎士とは名ばかりの露出狂のような鎧に身を纏ったエルフの姫騎士。それが見開きで描かれているページを、粟國が凝視している。
頭に血が上った。怒りでは無い。恥辱とパニックだ。
(終わった。何もかも終わった。なんで。なんでだよ。俺は何も悪いことしてないのに。何で放っておいてくれないんだ)
「おわっ、お前危ない奴だと思ってたけど、やっぱこんなん読んでたのかよ」
「犯罪者予備軍」
漫画は深馬の手を離れ、取り巻き達の手に渡る。取り巻きは口々に好き放題罵倒してくる。……強がってはいるが……いや、自覚しているからこそ、強がっている『ふり』をしている英俊の十代の繊細な心はズタズタに傷付いた。その時、初めて自分の中に生まれた感情を自覚した。
(なんだお前ら……ふざけやがって……悔しい。深馬……調子に乗るなよ……調子に乗るなよ……)
憤怒の感情だった。今まで抑えていた、気が付かない振りをしていた感情だった。
(舐めるなよ。俺だって……俺だって……)
相手を傷付けてもいい。自分の尊厳を犯す奴は排除する。そういった純度の高い怒りを覚えたのは、生まれて初めてと言っても良かった。
「おいっ! そこっ! 何やってるんだっ! 席に付け!」騒ぎに気が付いた担任の教師が怒鳴って来る。
「あー、せんせー違うんすよー……これには理由があっ……」深馬が軽薄な声で答えたようとした時だった。
バスが猛烈な勢いで急ブレーキを掛けた。英俊は前の座席の背もたれに顔面を激しくぶつけた。一瞬、意識を飛ばされそうになりながら、視界の端にいた深馬と粟國が、瞬間移動でもするかのように忽然と姿を消すのが見えた。
(立っていたから、前に飛ばされたのか)
バスは停まれず、巨大な車体を持て余すかのように後部を振った。身体に遠心力が掛かる。いわゆる『ケツを振った』状態だ。
車内からはクラスメートの悲鳴が上がる。その時、バスの後部が何かにぶつかる音がすると車体が横倒しになり始めた。
英俊は夢中で窓から外を見る。眼前は崖だ。バランスを崩した車体は英俊の側を下にして、横転しながら崖下に転落しようとしていた。
突然、自分の身体に凄まじい衝撃を感じる。通路の向こう側に座っていた女子生徒が、こちらに滑り落ちてぶつかって来たのだ。クラスで目立たない大人しい性格の
バスは完全にバランスを崩した。向こう側の座席の荷物や生徒が次々と降って来る。英俊の身体に当たる。痛みは感じなかった。それよりも降って来る人間や荷物で、自分の身体が埋もれてたちまち息が出来なくなり、下敷きになった圧迫感と恐怖感で心が満たされた。
次の瞬間、身体が突如浮かび上がるような感覚に襲われた。声だせる生徒からは凄まじい叫びと悲鳴が発せられる。バスが崖下に転落しはじめたのだ。
そのころには英俊は意識を失っていた。
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