ゆりかご揺れて

八木☆健太郎

風が吹くように

 風は吹くように僕らは出会った。


「よ~し、かつ丼かつ丼~っと。」

 昨日の晩からお昼はかつ丼と決めていた。会社のそばの定食屋。いつもできてる行列は今日は少し短めで、この分ならあと5分くらいで席に着けそうだ。短いお昼休みの5分10分は大きな時間だ。

 店に入り二人席の片方に座ると、

「お兄さん、相席いいかい?」

 との女将さんの声に続き、女の子が入ってきた。

「えぇ、どうぞ。」

「お邪魔いたします・・・。」

 若いスーツを身にまとった彼女が、硬い表情で座った。

 出されたおしぼりで手をふきながら、

「あぁ、かつ丼ね。」

 と女将に告げると、

「あ、私もっ。・・・私も、かつ丼を。」

 と彼女も続いた。

「あぁい、かつ丼ふたつねぇ。」

(いや、「ふたつ」でなくて「ひとつずつ」なんだけどなぁ・・・。)

 見ると彼女はまだ硬い顔をして、ジッと一点を見つめている。こんな顔をして食べてもきっと美味しくはないだろう。

「あの、ココへはよく来るの?」

 相席のよしみで声をかけると、

「へっ?・・・あっ、はいっ。あぁ、いえ・・・初めてです。」

「ふふっ。」

 思わぬ慌てぶりに、つい笑ってしまった。

「あっ、あの、私・・・またなんか、変なこと言いました?」

「あぁ、いやぁごめんごめん。ほらぁ、女の子がひとりでかつ丼食べに来るなんて珍しいなぁって思ってね。」

「え?・・・あぁっ、そ、そうですよねぇ。やっぱり、あの、女子がひとりでかつ丼なんて、変です・・・よねぇ?」

「いやぁ、そんな『変』ということはないけど・・・あんまり、無いことかなぁと。」

「あぁ、やっぱりぃ・・・。」

 肩を落とし、うつむいてしまった。

「あの・・・。」

「私・・・これから、午後から大事なプレゼンがあるんです。それで、あの、初めてこんな仕事任されたもんだから、朝からアタフタしてたら部長に『あそこ行ってかつ丼食ってこい、ゲン担ぎだぁ』って言われて・・・。」

「あぁ、そうなんだ。」

「・・・はい。」

 初々しく、瑞々しく、微笑ましい。

「じゃぁ、しっかり食べないとねっ。ほら『腹が減ってはなんとやら』って言うでしょ?」

「え、は、はいっ。」

 顔を上げた彼女の表情は、少し柔らかくなっていた。クリっとした目が、実に愛らしい。

「あぁい、お待たせぇ。」

 かつ丼ふたつと伝票が運ばれてきた。伝票にはしっかり「かつ丼 2」と書かれてる。

(いやぁだから、ひとつずつなんだけど・・・まぁいいか。)

「さぁ、じゃぁいただきます。」

 と手を合わせると、

「はい、いただきます。」

 と彼女も続いた。


 サラリーマンのお昼は短い。

「はぁ~、うまかったぁ。」

 僕が食べ終わると、

「ふ~、ごちそうさまぁ~。」

 ほぼ同時に彼女も食べ終わった。

「君・・・食べるの、速いね。」

「え、えぇ。その辺は鍛えてますから。」

 その表情は明るかった。これなら午後のプレゼンは大丈夫だろう。

「はい、じゃぁここは僕が。ごちそうさま~。」

 と伝票を持ってレジへ向かうと、

「いえ、いけません。ちゃんと私の分は払います。」

「いいのいいの、ここは出させて。」

 たまたま相席しただけの彼女を、なんだか応援したい気持ちになった。

 千円札を二枚出してお釣りを400円もらう。

「いやぁ、でも・・・。」

「いいの。その代わり、君は午後のプレゼンをしっかり頑張ること。」

「・・・。」

「いい?」

「・・・はい。」

「声が小さいっ。」

「は、はいっ。」

「はい、よろしい。」

 そのまま会社へ戻ろうとすると、

「あぁ、せめてお名刺を・・・。」

 と彼女がカバンをゴソゴソしだした。こちらも慌てて名刺を準備してしまうのは、サラリーマンの条件反射というものだろう。

 受け取った名刺を見て、

「あら・・・。」

「あっ、同じ会社だったんですね。」

 オフィスビルの2フロアに陣取った我が社の、彼女は上のフロア僕は下のフロアの所属だった。

「あの、横山さん・・・。」

 渡した名詞で名前を確認しながら彼女が、

「あの、本当にごちそうさまでした。」

「うぅん、いいのいいのっ。」

 自然と並んで会社へ戻る格好になった。

「それにしても知らなかったなぁ、我が社にそんなゲン担ぎがあったなんて。」

「え?そうなんですか?」

「うん。少なくともウチには無い。」

「そ、それじゃぁ、ウチの部署だけなんですかねぇ?」

「そうかもね。まぁ、ウチの会社は部署ごとの交流がほとんどないし、フロアが違うと尚更ねぇ。」

「あぁ、そうですねぇ。もしかしたら、ウチの部長の個人的なものかもしれませんしね。」

 会社まではゆっくり歩いても5分とかからない。

「それじゃぁ、がんばってね。午後のプレゼン。」

「ふふっ、はいっ。」


 残業を終えエレベーターを降りると、

「あぁ、横山さんっ。」

 彼女が・・・『伊藤みどり』という嘘みたいな名前の彼女が待っていた。

「あ、昼間の・・・。」

「はいっ。あの、横山さんのおかげで、プレゼン上手くいきました。」

「あらぁ、それは良かったぁ。手応えあった?」

「はいっ。本当にありがとうございましたっ。」

 あらためて深く頭を下げる彼女。

「いやいや、そんな大袈裟な。僕は大したことしてないから。」

「いえっ、あの・・・おかげでプレゼンに集中できましたので。」

 クリっとした目がこちらを見上げてくる。

「うん、それなら良かった。あっねぇ、まさかとは思うけど、それを言う為にこんな時間まで待ってたの?」

「は、はい。あの、直接デスクへ伺っても良かったんですけど・・・。あの、変な勘違いされるのも、困るでしょうし・・・。」

「ん?『変な勘違い』って?」

(ちょっと意地悪なことを訊いたかな?)

「え・・・あの・・・。」

 返事をする代わりに、彼女のおなかが鳴った。

「あっ、やだっ私ったら。」

「ふふふっ。じゃぁ、プレゼンが上手くいったご褒美に何か食べに行きますか。」

「え?・・・いいんですか?」

「駅前の牛丼屋だよ?」

「はいっ。」

 昼間の硬い表情が嘘かのように、彼女の笑顔がはじけた。


駅までの徒歩7分の道。

思い返せば、これが僕たちの最初のデートだった。


 三日ほどたった昼休み。

 いつものようにランチのため下りていくと、ビルを出たところで彼女が待っていた。

「横山さん。あの、お昼一緒にいいですか?」

「あぁうん、いいけど・・・。君、またひとり?」

「そ、それは・・・。横山さんだって、ひとのこと言えません。」

 痛いところを突かれてしまった。

「ふははっ、それもそうだ。で、どこにする?」

「あの、この前のことろに・・・。」

「うん、じゃぁあそこにしよう。」

「はいっ。」

 この日は15分ほど待っての入店になった。席に着きおしぼりが届いたところで、

「僕は、かつ丼。」

 と注文すると、

「私もっ。」

 と彼女も続いた。

「あぁい、かつ丼ふたつねぇ。」

 おしぼりで手を拭きながら彼女を問いただす。

「で、どういう風の吹き回し?僕をランチに誘うなんて。」

「それは、あのぉ・・・。」

 水を一口飲んで、

「今日の夜、空いてますか?」

 なんて訊いてきた。

「ん?空いてるは空いてるけど・・・え?なに、デートの誘い?」

「あっ、いえ・・・はい・・・。結果的にそうなってしまうんですが・・・。あの、私、今日映画を見に行こうと思ってたんですが、あの、間違ってペアチケットを取ってしまいまして・・・。」

 とスマホの画面を見せてきた。スマホひとつで何でもできる良い時代。

「それで、あの、友達にもいろいろ声をかけたんですが、昨日の今日じゃ誰も都合がつかなくって・・・あの、もし横山さんが良ければ、一緒に行ってもらえないかなぁ・・・と、思いまして。」

「あ~そういうことなら、構わないけど。その前に、もう少し粘って友達誘ってみたら?それでも見つからなかったら、その時は一緒に行ってあげるよ。」

「ホント?良かった~。じゃぁ一応もう一度当たってみて、夕方にでもまたお話ししますね。」

「うん。ねぇ、それでどういう映画なの?」

「あ~、これですよ。」

 再びスマホの画面。

(こ、これって思いっきり最近流行りの『キラキラ映画』じゃないか。)

「あぁい、かつ丼ふたつお待ち~。」

「おぉ、来た来た。はい、じゃぁいただきます。」

「はい、いただきます。」

 ちゃんと手を合わせ、彼女が嬉しそうにかつ丼を食べ始めた。


 午後も4時を過ぎた頃、僕のPCにメールが届いた。彼女からの社内メールだ。

『やはり誰もつかまらなので、一緒に行ってください。』

『了解。社内メールの私用は禁止だよ。』

『では終業後に下で。それなら横山さんのケータイ教えてください。』

『了解。あとでね。』


 ノー残業デーのこの日は、みな定時に終業となる。

 満杯のエレベーターから吐き出されるように降りると、

「横山さぁん。」

 と後ろから彼女の声がした。

「あれ?一緒のに乗ってたの?」

「へへっ、そうみたいですね。」

 髪を後ろでまとめている。

「じゃぁ、行きましょうか。」

「はい。あぁ、ちょっと急ぎましょう。あまり余裕が無いんです。」

「あぁ、そうなの?」

 腹ごしらえをする間もなく映画館へ向かい、ポップコーンを買って中に入る。席は中段の真ん中寄り、いわゆる『カップルシート』というやつだ。

(な、なんで彼女はこんな席を取ってしまったんだろう。)

「す、すません横山さん。こんな席に・・・。」

「うん。結構、恥ずかしいね。」

「・・・はい。」


 座り心地は悪くない。

 映画が始まり、今をときめく若手の女優さんやアイドルたちが『青春』を謳歌している。正直僕には彼らの名前は分からないし、荒唐無稽なストーリーも理解に苦しむものだが・・・。それを隣でキラキラした目で見ている彼女を、とても可愛らしいと思った。


「あ~、スッキリしたぁ。」

 映画館を出るなり、彼女は意外な感想を述べた。

「スッキリ?」

「はいっ。だって、あんなバカバカしい話見てると、ムシャクシャしたことみんな吹っ飛んじゃうじゃないですかっ。」

(あんなにキラキラした目で見てたのに・・・。)

「はははっ。ねぇ、君は・・・。」

 と言いかけて、

「あのっ、横山さん?」

 彼女が言葉を遮った。

「あの・・・『君』じゃなくて、名前で、呼んでもらえませんか?あの、できたら『みどり』・・・って。」

「えっ・・・あ・・・ん。」

「ダメ・・・ですか?」

「いや、あの・・・い、いいの?」

「はい・・・横山さんさえ、良ければ。」

「・・・う、うん。」

「・・・。」

「あの・・・、み、みどり。」

「・・・はい。」

 クリっとした目が僕を見つめている。

「みどり。」

「ふふっ、はいっ。」

「あ、じゃぁ君は・・・いやぁ、みどりは、僕のことなんて呼んでくれるの?」

「え?よ、横山・・・さん。」

「ん?僕には名前で呼ばしといて、『横山さん』じゃぁ、少し距離を感じるなぁ。」

「あ、あぁっ、そうですよ・・・ねぇ。あぁ、ん、じゃぁ『純一さん』で。」

「ん~それじゃぁ、あんまり変わんないよ。」

「あぁ、そうですね。じゃぁ・・・じゅん・・・じゅんいち・・・じゅん・・・ん・・・。あっ『じゅんいっちゃん』っ!」

「『じゅんいっちゃん』っ!?」

「ダっ、ダメ・・・ですか?」

「はははっ。ううん、いいよ。君の・・・みどりの呼びたいように呼んでくれて。」

「ふふふっ、はいっ。」

「あ~それと、もう敬語は無しにしよう。」

「え・・・?」

「ふたりきりの時は・・・ね。」

「・・・はいっ。」


 日曜日。デートの約束はしていたが「時間と場所は当日発表しま~す。」なんて彼女が言うもんだから、僕としては何の準備のしようもない。

『11時に銀座の大きな時計の前で』

 彼女からの簡潔なメール。

『了解 大きな時計の前でね』

(銀座かぁ・・・財布を膨らませておくべきだったかなぁ。)


 時間より早く着いて、彼女を待つ。周りにも同じように待ち合わせの人がいて、時計を見ながらソワソワしている。

(待つのもデートのうち・・・かな?)

「あ、いたっ。じゅんいっちゃん、お待たせしました。」

 約束の3分前に到着した彼女は、幾分華やかな格好をしている。

「みどりって、普段はこういう感じなんだ。」

「ん?あぁ、せっかく銀座に出るんだからって、おめかしして来ちゃった。ふふっ、どう?」

「うん・・・かわいい。」

 緑色のイヤリングがよく似合っている。

「ふふっ、ありがと。あ~、そういうじゅんいっちゃんは・・・ん~、ちょっと地味。」

「んっ、仕方ないでしょう、一張羅なんだから。で、どこ行くの?」

「あぁ、私ね、ボールペンが欲しいの。」

「ボールペン?」

「あ~なに?その『ボールペンなんてコンビニでも買えるじゃないか』みたいな顔はぁ。」

「あれ、バレた?」

「も~バレバレですぅ。ふふふっ。私ね、一生モノのが欲しいんだ。」

「ん?『一生モノ』ったって、使い切っちゃったら終わりでしょ?」

「も~、使い切っても芯を替えればまた使えるでしょ?」

「あぁ、そうか・・・。」

「そう、そうやってず~っと使うの。」

(ボールペンなんて使い捨てるもんだと思ってた。)

「で、わざわざ銀座まで?」

「うん。だって一生モノを買うなら・・・ねぇ、やっぱり銀座でしょ?」

「そういうもん?」

「うんっ、そういうもん。さっ、行きましょ。」

「あ、うん。」


 老舗の大きな文具店でボールペンを吟味する。その彼女の表情は、とても真剣だ。

(きっと、こういう顔して仕事してるんだろうなぁ。)

「よ~しっ、コレっ。これに決~めたっと。」

 たっぷり1時間かけて『一生モノ』の一本にたどり着いたようだ。

「じゅんいっちゃん、お会計して来ちゃうからちょっと待っててね。」

「あぁ、うん。」

 会計を済ませた彼女が、嬉しそうに戻ってきた。

「ふふっ、お待たせぇ。」

「良いのが買えた?」

「うんっ。ちょっと高かったけど・・・うん、一生使うんだからね。」

 と大事そうにカバンにしまった。

「ふふっ、それにしても、よかったボールペンで。」

「ん、なぁに?」

「いやぁ、『銀座で』って見た時は『この子はお金のかかる子かも・・・』なんて思ったんだけど・・・。」

「むぅ、私がそんな女に見えますか?」

 不機嫌な表情をして見せる彼女。

「いやほらぁ、『人は見かけによらない』って言うからさぁ。」

「も~。私は、そんな女じゃないよ。」

「・・・うん。よ~く分かった。」

「ふふっ、それならよろしい。」

 腕組みのポーズとクリっとした目が不釣り合いで妙に可愛い。

「あっ、ねぇじゅんいっちゃんは何か買いたいものないの?せっかく銀座まで来たんだからさぁ。」

「あ~、特にこれと言って・・・あぁ、じゃぁワイシャツの2,3枚も仕入れていこうかな?」

「ワイシャツ?あ、じゃぁ私が見繕ってあげようか?」

「いやぁ『見繕う』ったって、ただの白いシャツだよ?」

「ふ~ん・・・。あっ、じゃぁネクタイなんかはどう?」

「あぁ、僕は・・・ネクタイ、しないから。」

「え?あぁ、そう言われると、ネクタイしてるとこ見たことないねぇ。あっ、まさか、自分じゃ結べないとか?」

「うぅ、うんまぁ、それもあるけど。なんかさ、首元でギュ~ってされてるみたいでイヤなんだ。」

「へ~、やっぱりあれって苦しいの?」

「うん、結構・・・苦しい。」

「ふ~ん、男の人って大変ね。」

「うん。だから『えぇい、やめた~。』って、み~んな処分しちゃった。」

「あははっ、思い切っちゃったねぇ。」

「うん、使わないものを持っててもしょうがなからね。」

「ふふっ。ねぇ『思い出の一本』とか無かったの?」

「『思い出の一本』?」

「うん。例えば・・・彼女からのプレゼント、とか。」

「はははっ、無い無い無い。そんなことしてくれる人いなかったもん。」

「ふ~ん・・・ふふっ、よかった。」

「ん?」

「あ、ううん。ねぇっ、それよりご飯食べに行こうっ。私おなか空いちゃった。」

「あぁ、そうだね。何にしようか。」


 せっかく銀座まで来たのだからと、有名な洋食屋でハンバーグということになった。

「ねぇ、じゅんいっちゃん。」

 ついつい声が小さくなる。

「美味しいけど・・・なんか、緊張するね。」

「う、うん。僕たちには、まだ早かったみたいだね。」

 まぁ、これも経験ということで・・・。


 ワイシャツ選びに、彼女が妙に積極的だ。

「ワイシャツなんてどれも一緒だと思うけど・・・。」

「ダ~メっ。襟の形とか大きさで随分印象が変わるんだからぁ。」

「え、そうなの?」

「うん、ノーネクタイなら尚更ねっ。それにほら、素材の違いで肌触りも違うでしょ?」

「あぁ、確かに・・・こっちの方が着心地が良さそうだ。」

「ねっ、『どれも一緒』じゃないでしょ?」

「うん。でも、みどり・・・結構、いい値段だよ。」

「そりゃぁ、銀座ですもの。」

「そ、そうだね・・・。」

(品も良いが、値段もよい。これじゃぁ、2,3枚・・・は厳しいな。)

「ねぇ、じゃぁ『ここ一番』の為に『とびきりの1枚』を買うってのはどう?」

「ん?『ここ一番』?」

「うん。ほらぁ、男の人にはいろいろあるでしょ?大事な商談とか・・・ねぇ?」

「あぁ、そうだね・・・。」

「ねっ?そんな時にいつものヨレヨレじゃぁ、足元見られちゃうわよ。」

「うん・・・え?そんなにヨレヨレだった?」

「ん~そりゃぁ・・・ココに並んでるのに比べたら、ね。」

「そ、そう・・・だね。うん、じゃぁ良いのを1枚買ってこうかな。」

 ワイシャツ1枚の為に、わざわざ店員さんが採寸してくれる。これが『銀座』のやり方か。どうやらいつも買ってるサイズは、ジャストフィットではなかったようだ。

(どうりでヨレヨレに見えるわけだ・・・。)

「ねぇ、じゅんいっちゃん、これステキ。」

「あ、うん、いいね。あぁ・・・でも、やっぱり、なかなか簡単にはいかない値段だねぇ。」

「も~、ここまで来てそんなこと言わないの。ほらっ男は度胸っ!」

「え?『男は愛嬌』じゃなかったっけ?」

「ん?ん~・・・うん、どっちも大事っ!」

「ふははっ。うん、そうだね。よ~しっ、じゃぁこれにしようっ。」

「ふふっ、お買い上げありがとうございま~す。」

「もう、みどりぃ~。」

「へへっ。」


 たった1枚のワイシャツを、丈夫そうな紙袋に入れてくれた。

「ねぇ、みどりは・・・こういう『良いワイシャツ』を、普段から着てるような人がいいの?」

「ん?なぁに?」

「だから・・・、安物のヨレヨレのシャツを着てるような奴は、嫌い?」

「ん?そんなこと・・・ううん。むしろ逆、かな?」

「逆?」

「うん。なんか・・・そういう高いのを普段着にしてるって・・・ちょっと、引いちゃう。」

「そう・・・なの?」

「うん。あっ、ねぇじゅんいっちゃんだったらどう?もし今日、私がブランド物で全身決めてきてたら?」

「あぁ・・・だいぶ、ガッカリするね。」

「でしょ?ふふっ、よかった。」

「よかった?」

「うんっ。ねぇ、甘いもの食べに行かない?」

「あぁ、いいねぇ。あ、あまり緊張しなさそうなところ・・・ね。」

「ふふふっ、うんっ。」

 笑顔の横で緑色のイヤリングが揺れた。


 ノー残業デーでもないのに定時で帰れる日は、少し得をした気になる。

 空いてるエレベーターで下りていくと、外は雨だった。

「あぁ、やっぱり降って来たかぁ。」

 天気予報では『夜には雨』ということだった。

 カバンの中に常備している折り畳みの傘を出していると、入口のところに困った顔をしている彼女の姿が見えた。

「みどり。」

 そばに寄って声をかけると、

「あぁっ、じゅんいっちゃん良いところにっ。も~私ったら、今日傘忘れちゃって・・・。」

 恥ずかしそうに笑って見せた。そんな彼女に、

「もぉ、ダメじゃないかぁ。サラリーマンたるもの折り畳み傘のひとつやふたつカバンに入れておかなきゃ。」

 なんて先輩風を吹かせていると、

「ホント?じゃぁひとつ貸してっ。」

 と返してきた。

「へ?コレひとつしかないけど?」

「え~、いま『ふたつある』みたいなこと言ったぁ。」

「そ、それは 『言葉のあや』ってヤツでさぁ・・・ん~よいしょっ。」

 と傘を開き、

「で、どうする?入ってく?」

 と訊くと、

「うんっ、入ってくっ!」

 一番の笑顔で彼女が応えてくれた。


 小さい傘に肩を寄せ合い、駅まで歩く4回目のデート。

「ねぇ、じゅんいっちゃん・・・。」

「・・・ん?」

 小雨に紛れて、僕たちは初めてのキスをした。

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