おぼえている繋がり

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おぼえている繋がり



「――あ」


 その、零れるようなたった一言が、ぼくたちを結び付けた。

 あの日ぼくの勇気がすこしでも足りなかったら。風向きが違ってぼくの呟きがきみに聞こえなかったら。きみが振り返る勇気を持っていなかったのなら。

 ほんの些細な違いで、人と人とは、出会ったり、出会わなかったりする。

 だから、たぶんあの一夏の思い出は、とんでもなく下らなくてどうってことないぼくたちのエピソードは、それでもひとつの奇跡なのだ。


 *


 ゆうくんと初めて交わした言葉がなんだったか、覚えていない。

 フジキとも、大輝とも、初めて顔を合わせたのがいつだったのかもわからない。

 もちろん小学一年生の入学式なんだろう、そこで初めて出会って、少しずつ名前を覚えていったのに違いない。それなのに、いまではその過程のひとつひとつがぼんやりと入道雲の向こうに消えてしまったみたいに、うまく思い出せない。

 そういう関係を幼馴染って呼ぶのよ、と母さんは言っていた。ぼくの周りにはいままで、幼馴染しかいなかった。

 だから、転校生って、いちいち不思議だ。

 その子は十一歳の姿で僕のまえに現れたから、初めての印象も、自己紹介も、最初に交わした言葉すら、全部覚えている。

「野村、美和です」

 クラス中のまんまるの目のすべてが、彼女に向けられていた。

 美和ちゃんは、りんごみたいなほっぺをさらに赤くしていて、七五三で初めて着飾った妹によく似ていた。すごい上がってるな、とぼくは笑っちゃいそうになったけれど、なんとかこらえた。

 美和ちゃんはそれから数日、一週間、一ヶ月……あまり誰とも仲良くなっていないようだった。妹に似てる女の子がひとりぼっち、と思うと気にはなったけれど、ぼくのほうにも事情があって、話しかけることはできなかった。

 事情、というほどに大したものじゃない――ただ、五年生になってからというもの、男女混合で遊ぶ回数は急激に少なくなっていた。

女の子たちはなにか違う生きものに変化しているような感じがした。男の子たちはどこかぐんと手足が伸びて、これまた別の方向へ向かっている感じがする。なかなか伸び切らない自分の手足をもどかしく感じながらも、ぼくも着々と年に数センチずつは身長を伸ばしていた。

 まぁ、美和ちゃんは大人しい子だし、単に一人が好きなのかもしれない。

 そう自分を納得させるための言い訳を見つけてからは、それほど気にかけることもなくなっていた――そのはずなのに。


 むかしから、「ウォーリー」や「ミッケ!」で遊ぶのが好きだった。ゲームをぜんぜん買ってくれない母さんは、本の体裁を保っていればその中身を問わずお金を出してくれたので、「ミッケ!」を始めとするゲーム本にぼくはのめりこんだ。ページいっぱいのおもちゃ箱のなかに、指示されたとおりに兵隊やヒヨコの姿を探すのは面白かった。去年の夏休み、ぼくは同級生たちのリッチなゲーム機を横目に、ポケモンの代わりに赤のシマシマの男を探していた。

 だから、かもしれない。彼女をすぐに見つけることができたのも。

「あ、」

 一瞬だけ「あ」がこぼれ出た。……ものの、そこから先が出てこない。なんて言えばいいんだろう?

 美和ちゃんはなぜか、公園の隅の茂みの前でうずくまっていた。

 気分が悪いのだろうか、と思ったけれど、振り返ったその頬の赤みを見るに、体調に問題はなさそうだ。緑色のスカートと黒のカーディガン、まるで女の子の迷彩服みたいだ。どうしてその子をおんなじクラスの美和ちゃんだとすぐに見分けられたのか、今では不思議なぐらいだった。

「えーっと、おぼえてる? 光希、だけど」

 美和ちゃんは、その瞳をまんまるにした。

 うわー、やっちゃった。とぼくは思った。ひょっとして泣き出すんじゃないかと思ったのだ。

「ほら、美和ちゃんとおなじクラスで、たぶん席は隣になったことないんだけど」

 そう言うと、美和ちゃんは少し困ったように首を傾けた。

 いや、ぼくの自己紹介なんて、この際どうだっていい。それなのに、なにかを話さなくてはならないような気持ちに突然なったのだ。

 美和ちゃん、その瞳の奥になにかが見えたような気がした。もちろん気のせいに決まってる。でも赤いほっぺをした、いつも静かでほとんど声を聞いたこともないこの女の子が、とつぜん猫みたいな黄色く丸い瞳を持ったような気がしたのだ。

 人と仲良くしなさい、仲間外れにするのはやめなさい、悪いことをしてはいけません。

 お母さんの「しつけ」の言葉が、録画しておいたテレビを再生するみたいに、お母さんの表情と一緒にぼくの頭のなかで再生された。よし、ちゃんと話しかけよう。

 そう思ってぼくが口を開くまえに、美和ちゃんは立ち上がった。スカートをぱんぱんとはたきながら、ぼくに向き直る。

「岡本くん……だよね?」

 え、とぼくが驚く番だった。苗字で呼ばれたことなんて、初めてのことだったのだ。

「あの、光希でいいよ」

「光希くん、って呼ぶってこと?」

「うん。ぼく勝手に、『美和ちゃん』って呼んでたし」

 と、言ってしまってから、それこそが問題だったのかもしれないとぼくは思った。

 つまり、美和ちゃんは、ぼくが突然話しかけたこと自体にではなくて、ぼくが『美和ちゃん』と話しかけたことにびっくりしたんじゃないか、ってことだ。

「ごめん、野村さん」

「ううん。嫌ってわけじゃないんだけど、みんな、『野村さん』って呼ぶから……」

 そうだっけ、とぼくはここ数か月の教室の様子を思い出してみる。

 そもそも美和ちゃんのことを一番多く呼ぶのは担任の田中先生だ。先生はぼくのことも『岡本くん』と呼ぶし、美和ちゃんのことも『野村さん』と呼んでいる。

 でも、生徒同士ではみんな下の名前で呼び合っている。

 ……いや、さいきんはちょっと、男女間では苗字で呼び合うこともあるんだけれど。

 美和ちゃんはたしか、都会のほうから転校してきたはずだ。

 ひょっとして下の名前で呼び合うなんてことなかったんだろうか、とぼくは思ったりした。

「あの……っ、でも、美和、でいいよ。それでほんとうに大丈夫」

「うん、わかった。ところで美和ちゃん、ここで何してたの?」

「ここに昨日まで猫がいたんだけど、いなくなっちゃったみたい。岡本くんは?」

 あ、ぼくのことは苗字で呼ぶのか……と思ったけれど、何度も『光希でいいよ』と伝えるのも変なかんじがするので、とりあえずこのまま続けてみることにした。

「猫かー。結構このへん、いるんだけど、『地域猫』ってやつなんだよね。昨日は雨だったし、もしかしたら誰かの家に入ってるのかも」

「そうなんだ。それなら良いんだけど……」

 美和ちゃんはすこし心配そうに首を傾けて、もう一度茂みを見た。

 そのあと、ぼくのほうを一度だけ見て、またうつむいてしまう。このままだと特になにも話すことがなかった。

 五秒がたった。十秒がたった。

 いつ、美和ちゃんが、「それじゃあね」と行ってしまってもおかしくはなかった。茂みを見つめ続ける横顔、その首にわずかにかかる髪の毛の束。その姿が教室の中でいつも空を見ている美和ちゃんの姿に重なった。――いつも、どうしようと思っていたんだっけ。

「あのさ」

 気づいたらぼくは話しかけていた。美和ちゃんがこっちを向いた。なにを言おう、どうしよう? 焦りの言葉が浮かぶたびに、どくんと胸が跳ねるようだった。

「えっと、その、猫心配だからさ、探しに行かない?」

「探しに? あの猫を?」

 ぼくのドギマギに反して、美和ちゃんはたいして驚く様子も見せずに、すんなりと頷く。

「うん、ありがとう。そうしよっか。ミケ猫で、最近少し太ってたんだ」

 そう言ってから、美和ちゃんは初めて、ほんの少しだけ微笑んでみせた。


  ◇


 とはいえ、なにからどう始めていいのかわからない。ぼくはもちろん、美和ちゃんだって、猫を探した経験なんてないのだ。

 昔、電柱に尋ね犬のポスターが貼ってあったのを思い出す。もしも見つからなかったら、ああいう方法を試してみるのもいいかもしれない。

「うーん、そんなに遠くにはいかないと思うんだけど」

 美和ちゃんが困ったように首をかしげる。ぼくもその意見には賛成だった。毎日同じ公園にいた猫が、突然遠くに行くとも考えづらい。

「その子、名前はなんていうんだっけ?」

 ぼくはふと思いついてそう聞いた。名前を呼びながら探したほうが、向こうから出てきてくれる可能性も高まる。

 美和ちゃんは、困ったように首を傾げた。

「うん、ほんとにね、付けとけばよかったなあ、なんて思うんだけど……」

 あ、ないんだ。

 たしかに、自分ちで飼ってる猫でもないんだし、勝手に名前を付けるのもちょっと変な感じがするかもしれない。

「次会えたらさ、名前、付けたほうがいいね」

「……そうかなあ?」

「きっとそうだよ。呼んでもらえたほうがさ、猫もたぶん、嬉しいとおもう」

「飼ってるわけじゃないし……」

「そうだけど。でも、猫だって友達なんだからさ、名前も呼ばないのって、なんか変じゃん?」

 美和ちゃんは、先生がするみたいに、おかしそうに苦笑いした。

「なんか、岡本くんって、すごいしっかりしてるよね。お兄さんみたい」

「お、お兄さん?」

 お兄さん、なんて、同級生から言われたのは初めてだった。なんだか新鮮な気持ちになる。

 家ではよく言われるのだ。もうお兄ちゃんなんだから、一人で留守番できるわね、今日の晩御飯は電子レンジで温められるわよね――母さんは最近いっそう忙しくなって、日が落ちた後、すっかり外が暗くなってからじゃないと家に帰ってこない。

「妹がいるわけじゃないんだけどなあ」

「でも、凄いしっかりしてるなあって。もしかして、名前を呼ぶのが大事だって思ってるから、美和ちゃん、って呼んでくれたの?」

 顔がぽっと熱くなるのを感じた。いや、そういうわけじゃないんだけど……。

 でもまあ、やっぱり『人間同士』なら、友達なら、名前を呼ぶのが当然――ではあるだろう。

「そういうわけじゃないんだけど。同じクラスの子は、みんな名前で呼んでるでしょ?」

「それは、みんななんていうか、お互いに前から知ってるっていうか……」

「『幼馴染』?」

 ぱちくり、と美和ちゃんが目を瞬かせた。

「そう、そうかも……うん、ずっと前からぜんぶ知ってる、ってかんじだから」

「ああ、たしかにね。でも、全員が全員、お互いにすっごく友達同士ってわけじゃないよ。こうやって一緒に猫を探したことのないクラスメイト、いっぱいいるし」

「そりゃ、普通はないんじゃない?」

「……。そうかも」

 ぼくは笑う。つられて、美和ちゃんも笑った。

 なんだか、ひょっとしたら明日以降も、美和ちゃんに話しかけられるかもしれないな、という気がした。すぐに仲良くなることはなくても、「おはよう」は言えるだろうし、その挨拶のついでに、短い話をすることもできるだろう。

「今度さ、猫を見つけて、名前をつけて、それでもしまた見失ったらさ、」

 ぼくは少しだけ、勇気を出そうと思った。この一言で、なにかを変えられるかもしれない。

「つぎもまた、『冒険』しようよ。今度はちゃんと名前を呼びながら探すんだ。夏でもいいし、冬でもいい」

「『冒険』?」

「そ。なんか、小説とかアニメみたいで、恰好よくない?」

 そういうのに憧れていたのかもしれない、と思う。主人公はだれかと出会う。ふたりはなにかを変えるために冒険する。一夏で、ふたりはなにかを変えてしまう。

「……って、子どもっぽいかもしれないけどね」

 ふるふる、と美和ちゃんはぼくの言葉に首を振った。そして考え込むように少しだけうつむく。――と、そのときだった。

 美和ちゃんの返事をさえぎるみたいにして、前の草垣ががさりと動いた。

「――あ!」

 いた! と、美和ちゃんがちいさな歓声をあげた。

 ぼくはゆっくりと茂みに近づく。猫はすやすやと、暖かな陽だまりのなかで眠っていた。そのふさふさの頭に、美和ちゃんが柔らかく手のひらを押し当てる。

「……なんだ、ちょっとお散歩に行ってただけだったんだね」

「ね。しばらく待ってれば、公園にも帰って来たんだろうな」

 なんだか拍子抜けしたような気持ちだった。ぼくたちの冒険がなくても、子猫はきっと無事だった。もちろんいいことなんだけれど、『冒険』なんて言い方で、二人勇み歩いていたのが、ちょっとばかみたいだ。

「ごめんね、付き合わせちゃって」

 美和ちゃんが猫を撫でながら、困ったようにそう言う。でも、暫く一緒にいただけだけど、ぼくにはその笑顔が、『嬉しい時のこまった笑顔』だと分かった。

「よかった。……ごめんね、ほんと」

 大丈夫、と言いたくなった。大丈夫、ぜんぜん大丈夫なんだよって。

 でも、それを言葉にすることが、十一のぼくには難しかった。そのまま美和ちゃんの手を取って、ぼくはただ一度、頷いた。美和ちゃんも同じように頷き返した。


 美和ちゃんに初めて話しかけた言葉を、ぼくは覚えている。

 初めて話した日にここで子猫を見つけたことも、きっとずっと覚えている。

 幼馴染じゃなくて、ちゃんと自分の意志で、美和ちゃんを『美和ちゃん』と呼び続けてみたことを、ぼくは覚えている。

 だから、大丈夫。「なんとなく」じゃなくて、お互いにしっかりと覚えているつながりで、ぼくたちは明日からも互いに声をかけあえる。


<終>

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おぼえている繋がり mee @ryuko

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