赤いドア伝説

岳石祭人

第1話 「赤いドア」


 その男性は疲れ切っていた。

 この世の何もかもが、

 自分の人生そのものが、

 嫌で、

 耐え難いものになっていた。

 自分が生きているということが、これから先も生き続けなければならないということが、

 堪らない苦痛になっていた。


 夕暮れ時だった。


 男性は大通りの雑踏の一部でいることがたまらなく嫌で、目に入った小路に飛び込むように入っていった。

 巨大な高層ビルの奥へ行くと、みすぼらしい二階、三階建ての古いビルが集まる区画に至った。

 男性はなんだかほっとする思いがした。昭和にどっぷり浸った世代でもあるまいに、知りもしないノスタルジーに浸った。

 こうしたビルたちが主役の頃はもっと、”生きている”実感を持って生活できていたんだろうな、

 と、憧れを抱いた。

 今生きているのは…、

 辛いだけなんだよ……。

 胸が湿っぽく締め付けられるように痛み、目頭が熱くなったとき、

 横手の垢が染みついたようなレンガ塀に、


 真っ赤なドアがあった。


 男性は建物を見上げた。

 塀と思ったのは一階部分が赤煉瓦の、二階三階は薄汚れたグリーンの、古い時代のモダンな雑居ビルのようだった。

 現在入っている会社の看板などは見当たらない。辺りが薄暗くなってきた中、二階三階のガラスの格子戸に灯りも見えず、一階のレンガの壁に赤いドア以外窓もない。

 赤いドア。

 不思議な赤色だった。

 絵の具を浸した真っ赤な水が、そのまま起き上がったような、そんなみずみずしさ、生っぽさを感じさせる赤色だった。

 ビルの名前を示す看板も表札もない。

 中に、入れるだろうか?

 生きることに疲れ切った男性は、何となく心安らぐ古い町の中で、そのノスタルジーの凝縮したたたずまいのこのビルの中に、このドアの向こうに、何かとても素晴らしい世界があるような、童話じみた期待を持った。

 現実逃避なのだろうが、男性はとにかく、今のままの自分でいることが耐えられなかった。

 丸いドアノブに手を掛け、ひねると、回った。

 小さな驚きを感じながらドアを開いた男性は、

 差し出された白く美しい手に招かれるまま、

 中に入っていき、

 ドアを閉めた。

 男性が消えてドアが閉まってしまうと、不思議なことが起こった。

 確かに開いて男性を中に招き入れたはずのドアが、二次元の絵となって、カラカラに乾燥して巻き上がると、壁からはがれ落ち、丸まって道路に転がった。

 絵のはがれ落ちた背後の壁に入り口らしき物はなく、どうやらこちらは角に建ったビルの横手か裏手に当たるようだ。

 まるでイリュージョンのように、

 確かにドアに入ったはずの男性がどこに消えてしまったのか、

 男性はそれっきりこちらの世界に戻ってくることはなかった。

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