シンテンナイ・トーク

 亜紗美は実家の松戸から登戸の賃貸マンションに戻り、服を着替えて新百合ヶ丘へと向かった。遠野と会う予定のカフェには、約束の時間よりも十五分ほど早く着いた。夕方だからか、店内にはスーパーのビニール袋を足下に置いた中年女性や、ノートを広げて何やら熱心に書き込んでいる学生などの姿が多い。


「アイス・ラテ。エム・サイズ」


「かしこまりましたぁ。エム・アイス・ラテ、お願いしまぁす。なんと、三百八十円になります」


「なんと?」


 おかしな接頭語に亜紗美が顔を上げると、亜紗美よりも少し年下らしい女性店員が、ニコニコしながらこちらを見ていた。亜紗美は「になります」という接客言葉に常日頃から疑問を抱いていたが、その上をいく「なんと」という表現に引っ張られてどうでもよくなってしまった。


 入り口から近い窓際のテーブルに空席を見つけ、店内を正面にして亜紗美は腰を下ろした。席に着くと亜紗美は遠野のことではなく、実家の卒業アルバムで見た相原瑠璃の顔を思い返した。同窓会で思い出しつつあった当時の事件が、写真を見たことによってわずかながら亜紗美の脳裡のうりに蘇った。


 あれは亜紗美が中学一年か二年のことだ。その事件は瑠璃の顔写真とともに、新聞の地方欄に小さく取り上げられていた。市内の中学生、自殺、と。いじめが原因だったとも書かれていたようだが、遺書は残されていなかったらしい。


 亜紗美が瑠璃のことを考えていると、スーツ姿の男が店内に入ってきた。男はカウンターへ直行して注文を済ませると、手で何かを振り払うようにしながら、せわしなく視線を彷徨さまよわせ始めた。遠野だ。そのうち気づくだろうと思い、亜紗美は特に合図も何もしなかった。


「合図くらいしてくれてもいいだろ?」


 やがて亜紗美に気づいた遠野は、向かい側に座りながらそんな軽口を叩いた。遠野と無駄な会話をする気が亜紗美には無い。遠野の言葉を無視して、亜紗美は単刀直入に用件を伝えた。


「訊きたいことがあるの」


「あぁ、そう言ってたよな」


 亜紗美が遠野に訊くべきことは、ハヤシが言っていた「あの事」についてとケメ子の居場所だ。この二つはどこかで繋がっている、と亜紗美はほとんど確信に近い印象を抱いていた。


「アンタ、どこ見てんの」


 遠野がジッと自分の胸の辺りを見ていることに気づいて亜紗美が指摘した。まったく男ってやつは、と亜紗美は思わずにはいられない。小さくても膨らみがあればいいのか、とも。


「どこって……勘違いするなよ! おれは別に」


 亜紗美が冷めた目で遠野を見ていると、彼はそこで言葉を切って、さっきもしていたように手を振って何かを払いだした。


「どうでもいいけど。何やってんの?」


「ハエが」


「シャワーくらい浴びたら」


 いくら身なりを整えようとも、シャワーを浴びないのなら意味が無い。やはり見た目だけにこだわっている男か、と同窓会で遠野に会った時と同じ感想を亜紗美は持った。


「浴びてきたばかりだ。スーツかな? もしかしたらまだビョウインシュウが」


「ビョウインシュウ?」


 亜紗美は一瞬、遠野がどこかの中国人の名前でも言ったのかと思った。


「そうなんだ。目が覚めたら病院のベッ」


 言葉の途中で遠野は黙り込んでしまった。病院って、こいつ、頭に異常でもあるのか? と、亜紗美は遠野があまりにも挙動不審なのでなかば本気で考えた。


「私が訊きたいことは二つ。まず、同窓会でハヤシが言っていた『あの事』とは何なのか。それから、ケメ子はどこに行ってしまったのか」


 イチイチ遠野の言動にかまっていたら話が進まないと思った亜紗美は、簡潔に質問をぶつけた。


「あの事?」


「そう。ハヤシが血相変えて戻ってきた時に言ってたでしょ? 『あの事を知っているのはおれとお前』がどうとか。それにケメ子とチエって子の名前も出てた。もしケメ子がいなくなったことが、ハヤシの言ってた『あの事』ってのに関係があるのなら、私も知る必要があると思うの。そこを探ればあの子が単に家出しただけなのか、それとも何らかの事件……」


 視線を外して喋っていた亜紗美は、深刻な顔で何事かをブツブツと呟いている遠野を見て言葉を切った。


「って、聞いてんの? おい、遠野護。アンタ、様子がおかしすぎるよ」


 こいつ本当に大丈夫か? と亜紗美は気味が悪くなってきた。


「え? あ、わりぃ。何だか、色んなことが起きてて……」


「それはこっちの話」


 亜紗美は大袈裟おおげさにため息をついた。ケメ子が人を殺そうとしたり、かと思ったら急に行方をくらませたり。それだけじゃない。謎の『あの事』とケメ子が関係している疑惑まで持ち上がっているのだ。わざわざ実家へ行ってこんな奇妙な男の連絡先を調べて会ったりまでして、一体私は何をやっているのだろうと、亜紗美は散々な気分になってきた。


「あっ。あのおばさん」


「今度はなに」


 さっきまでは私の胸を見ていたくせに、お次はおばさんに興味を持ったのか、と亜紗美はあきれと怒りを半々に織り交ぜた視線で遠野をにらんだ。


「いや、何でもない……」


 そしてまた遠野は黙り込んでしまった。遠野のこの調子ではまともな話はできないだろうと、亜紗美は追求をあきらめつつあった。遠野がダメならまだハヤシもいるし、チエという子を探る手もあると亜紗美は考えていた。



 結局、亜紗美は遠野との会話からは何も得ることができなかった。あの後も遠野は、事あるごとに黙ったり言いよどんだり、手を振り回してハエを払ったりするだけで、亜紗美の話を聞いているのかどうかすら怪しかった。遠野はただ、ケメ子の居場所なんて知らないと言っただけである。


 何の進展もなかったわりに時間だけは経っていたようで、亜紗美が席を立とうとした時にはすでに時刻は七時半に近かった。


「もう帰るわ。アンタと話しててもこれ以上は意味無さそうだし」


「そう、か。駅まで送るよ」


 亜紗美が別にかまわないと言ったのを無視して、遠野は一緒に席を立った。遠野がいやらしい考えを持ってそう言ったのであろうことを、亜紗美は敏感に感じ取っていた。


 カフェを出て駅の方向へ二人で歩いていると、急に遠野が声を上げて立ち止まった。


「あっ!」


 無視して歩き去ろうかとも思ったが、亜紗美はつい足を止めて振り返ってしまった。


「アサミ、うちに来ないか?」


 どういう思考回路でそんなセリフが導き出されるのかと、亜紗美は汚らしいものでも見る目つきで遠野を睨みつけた。貴重な休みを下らない男と会うことで無駄に使ってしまい、亜紗美のイライラはピークに達する寸前だった。


「見せたいものがあるんだ」


 大方その見せたいものというやつは、アンタの股間にぶら下がってるものじゃないのか、と亜紗美はもう少しで口を滑らせそうになった。一発やろうぜ、とでも言うつもりか?


「おれのアパート、このす」


 無防備に近づいてきた遠野の顔面に向けて、亜紗美は間合いを詰めてキレのいい掌底しょうていを放った。しかし実際に当てはせず、亜紗美は遠野の鼻先ギリギリのところで止めた。遠野には何が起きたのかわからなかったようで、突き出された亜紗美の手のひらをぼうっと見ているだけだった。


「そんな隙だらけの構えじゃさ、鼻面はなづらだけじゃなくてアンタの愚息ぐそくも簡単に粉砕されるよ」


 亜紗美は手を下ろすと、そう言いながら視線を遠野の顔から仁王立ちとなっている股間へと移した。


「次は容赦なくアンタの未来を奪うから」


 言うなり亜紗美はきびすを返して、遠野をその場に残し駅へと歩き去った。

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