バックヤードで舞台を降りても

笠原たすき

# 1

 迷惑メールに困ってるからアドレス変えます、なんてどんな被害妄想かと思っていたけれど、いざ自分の身に降りかかってみると、それはそれは困ったものだった。メールアプリを開くと、入金報告やら、不在着信やら"Facedook"の通知やら、何を信じていいのか分からなくなるようなメールで画面が埋め尽くされてしまうのだ。


 近いうちにアドレスを変えようと思いながら、つい先延ばしにしてしまっていたが、何も予定のない休日、ようやくゆっくり時間を取ることができた。


 アドレス変更自体は簡単だった。あとは、誰にメールを送るかだ。


 電話帳のアイコンはどこだっけ。スマホの小さい画面の中を探してしまうくらい使う機会のないアイコンを開き、画面をスクロールする。


 中学のときの友だち。高校の部活の同級生。大学の必修科目のクラスメイト。2年前まで勤めていた保険会社の同期。元カレその1。元カレその2。


 ……は、送らなくていいだろう。


 いや、アドレス変更を機に、たまにはメールを送ってみたい気もする。でも、私なんかからメールが来たところで、相手も引くに決まってる。ずっと連絡も取っていないのに。それに、何通かメーラーデーモンから返事が来るのは簡単に予想がつく。


 何より、今はLINEもあるし、連絡を取ろうとすれば他に手段はある。


 そんな訳で、まずは職場のコンビニのオーナーと店長、そしてバイトのみんなにメールを送る。


 あとは、家族と、大学のゼミで関わりの深かった数人に送って、それで充分かな。


 電話帳をざっとスクロールして、大事な人が抜けていないか一応確認する。その中に、懐かしい名前を見つけたような気がして、あわてて画面を上に遡る。


 志波瑞穂しばみずほ


 そういえば、そんな可愛い名前だってこと、忘れていた。みんなも私も、いつも“志波ちゃん”と呼んでいたから。“し”じゃなくて“ば”の方にアクセントがある呼び方。


 志波ちゃんは、大学の演劇サークルの中でいちばんよく話す人だった。普段の稽古以外にも、一緒に舞台を観に行くこともあった。


 とは言っても、志波ちゃんにとっていちばん仲のいい人が私だという意味ではない。志波ちゃんは、明るくて誰に対しても分け隔てなく接してくれる人だ。だから、私なんかでも安心して接することができたのだ。


 サークルの人たちは、今でもLINEのグループがあるし、あえてメールしなくても大丈夫だと思っていた。けど、志波ちゃんにだけはアドレスを送っておこう。


 メールを送ってしまうと、することもなくベッドに突っ伏した。部屋の掃除は終わってしまったし、夕飯まで何も用事がない。


 いや、本当は通信教育のテキストが机に積み重なっているが、今はなんとなく開く気がおきない。何をするともなくTwitterを開き、横になったままタイムラインをぼんやりと遡る。


 そうしていると、しばらく静かにしていたエアコンが、音を立てて動き始めた。室内に広がるひんやりした空気。


 私は思わずくしゃみをした。


 暑がりでない方だとはいえ、連日の猛暑に、昼間のエアコンは必須だった、はずなのに。


 エアコンを消して、窓を開ける。


 庭でツクツクボウシが鳴いている。


 風に乗って、列車の汽笛が聞こえてくる。近所にある遊園地のアトラクションの音だ。残り少ない夏休み、今日も遊園地は賑わっていることだろう。


 夏が来てからは、朝は浮き輪やらプールバッグやらを持った子どもたちと、帰りは夜まで遊び倒した若者たちと、反対方向に進んでいく毎日だった。そんな彼らを目にするたび、私も今年こそは夏らしいことをしようと心に決めるのだった。


 けれども、休みになると毎日の決心を忘れてしまう。昼前に目覚め、昼食を食べて、最低限の家事を終えると、クーラーの効いた部屋で寝転び、スマホの画面をぼんやりと見つめ、まどろんでいるうちに夕方になっている……。


 そんなことをしているうちに、気づけば何もしないまま、夏を消費してしまっていたようだ。


 ◆


 その夜。居間で夕食を食べ終えて部屋に戻ると、メールの通知が入っていた。


《了解しました! 皐月さつきちゃんお久しぶり! 突然だけど、皐月ちゃんくすのきアキラ好き……》


 志波ちゃんからだ。皐月ちゃんという呼び方が懐かしい。職場ではいつも“中村なかむらさん”か“中村”としか呼ばれないから。


 予想外の返信に、少しわくわくしながらメールを開く。


《……楠アキラ好きだったよね?? ちょうど今度の土曜の17時から下北沢で公演があるんだけど、一緒に行く人が行けなくなっちゃって、もしよかったら皐月ちゃんも一緒にどうかなって思って》


 わくわくが増すのを感じた。


 楠アキラというのは、志波ちゃんがファンだった舞台俳優だ。そして、志波ちゃんに誘われて演劇サークルの何人かで舞台を観に行ってからは、私まで彼の端正な顔立ちと演技力に惚れ込んでしまった。


 それ以来、志波ちゃんは彼が出る舞台を観に行くとき、毎回私に声を掛けてくれるようになった。といっても、なかなか予定が合わなかったり、せっかく予定が合っても私が体調を悪くしてしまったりして、その後2人で行けたのは、たった1回だけ。けれど、私がそんな調子でも、志波ちゃんは卒業前まで当たり前のようにお誘いメールをくれたのだった。


 さすがに卒業後となると、そんなお誘いが来ることもなく、私もそんな俳優さんのことなんて忘れていた。“一緒に行く人が”っていうのを見ると、志波ちゃんも今は他に誘ってる人がいるんだろう。


 それなのに、卒業してから3年以上経っても、志波ちゃんがあの頃のように声を掛けてくれたことが嬉しかった。


 すぐさま鞄からシフト表を取り出す。その日はちょうど、13時までのシフトだ。1、2時間残業しても、余裕で行ける時間だ。


 さっそくOKの返信をして、志波ちゃんからの返信を待った。


 ただ、あまりに久しぶりすぎて、どうして突然私にメールをくれたのか疑問も残る。卒業後も集まっているメンバーはいるみたいだけど、私は卒業した年に一度顔を出したきりで、しばらく顔を合わせていない。たまたまアドレス変更メールを見て、思い出してくれただけ、かな?


 志波ちゃんに限ってそんなことはない。そう思いながら、次の選挙はまだ先だよね、とか考えてしまった。

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