4・男の名は……
知らない男だ。
年は二十代後半ぐらいで身長は175㎝ぐらいだろう。
長くて赤みかかった髪をうなじのところで結んでいる。服装はラフな白いシャツとジーンズ。
いかにも優男といった雰囲気のある人物だった。
その人物が黒い傘で洋子を雨から守っていたのだ。
「そんなところでボーっとしていると風邪ひくよ」
見た目と同じで声も柔らかく親しみを覚える。
「あの……」
「別に僕はなにかしようとしないよ」
そんなことはなんとなくわかる。優男のようだが、それなりに礼儀はわきまえていそうな感じがするからだ。
いや、ただ洋子がそうあってほしいと思っただけなのかもしれない。
もしかしたら、よからぬことを考えている可能性もあった。けれど、この優男のたれ目をみていると、逃げようという気持ちさえも起こらなかった。
なにか自分を包み込んでくれそうな優しい雨が降り注いでいるような感覚がする。
それを感じた瞬間、洋子の頬に暖かいものが伝わるのを感じた。
しずくが落ちる。
ほほを伝って顎を通り、地面へと流れていく。
洋子は俯いた。
「あれ? どうしたの? 君。大丈夫かい」
彼は顔を覗かせた。
「おいおい。なにやっているんだ? お前」
そのとき、別の方向から声が聞こえてきた。
「いやあ。この子が濡れていたものでねえ」
どこかで聞いたことのある声だ。しかもごく最近。
陽子が顔を上げると、さっき店に訪れていた刑事さんがいた。
ほんの少し前に逢ったはずの刑事だとはすぐにわかったのだが、どうも雰囲気が違う。
その理由もすぐにわかった。
店であったときは髪を上げて固めていたのに今は下ろしている。サングラスもかけておらず、その目の瞳の色に洋子は違和感を覚えた。
刑事さんが長髪の男の襟をつかんでいたのだ。傘が地面に落ちる。
雨はすでに止んでいる。通り雨だったらしい。
洋子の身体は濡れているが、もう水が落ちてくることはない。
雲が晴れて、空には三日月と星々が光を放っている。
人々の群れもあふれている。
「お前、まさか女子高生に手をだしたりはしていないだろうな」
刑事さんは疑いの眼で長髪の男を見ている。
「そんなことするわけないよ。僕はそんな男に見えるかい」
「いいや、お前ならやりかねん。この前も巣鴨で口説いていただろう?」
「口説いていないよ。おばあちゃんとスルメ食べていただけだよ」
そんな会話をしている。
「あのお……」
洋子の声で刑事さんたちが振り返る。
刑事の眼はまっすぐに洋子を見た。
「よく見たら、さっきのお嬢ちゃんか」
「知り合いかい?」
「お前……。とぼけるのも大概にしろ」
「いやあ。僕は知らないよ。え? もしかして、例の彼女?」
洋子は首を傾げる。
「ああ。香川洋子さん。被害者の妹だよ」
「ああ。例の連続殺人……。ということは、依頼人だね」
「はい?」
依頼人?
どういうことなのだろうか。
この人に私はなにか依頼したのか。
初めて会うというのにどういうことなのかと疑問に思っているうちに思い当たることがあった。
「あっ……。もしかして……」
「そうだよ。はじめまして、僕が“かぐら骨董店”の店長・神楽冬馬です」
彼がそう答える横で刑事さんが「そっちの名じゃないだろ」とつぶやいた。
神楽冬馬?
どこかで聞いたことのある名前だ。
いったいだれだったのだろう。
「あっ、ごめん。こっちはペンネームだった」
ペンネーム?
「僕、作家もしているんだ」
作家?
洋子はようやく思い出した。
「もしかして、『放浪陰陽師』の神楽冬馬?」
「はい。読んでくれているのかい?」
「いいえ。友達が……」
彼はがくんと頭を下に向ける。
「おいおい。桃志郎……」
「ううう。あれはサイコー作品なのにいい。読んでくれていない人がいようとはあ。僕ってそんなに才能ないのかなあ」
「わざとらしい。好みは人それぞれだ。それにそっちじゃない。あっちだろう」
「そうだったね」
すぐに開き直る。
というよりも本気でいじけていたわけではないようだ。
あれ?
名前違う?
当たり前だ。
ペンネームといっていたではないか。
「まあ、とにかく洋服濡れているね。せっかくだから、うちに来なよ。すぐそこだから」
そう言われて、自分のいる場所にようやく気付いた。
三鷹だ。
いつの間にか、自分は夕方訪れたばかりの通りにいた。
しかも見たことのあるレトロな店がすぐそこに見えている。
いつのまにここへ来たのだろうか。
いつ電車に乗ったのか。
まったく記憶にない。
「まあ。あいにくうちのエースは出払っているけどね。まあ、いっか。話はもう聞いているし……」
「お前のエースは多忙だな。どれくらい仕事おしつけているんだ」
「人聞きの悪い。ちゃんと分担しているよ。それに今回の件は君の部署からの依頼だよ」
「まさか、例の事件か」
「うん。知らなかった?」
「依頼はしたが、エースがでるほどのことでもないだろう」
「そうだけど、今回はルーキー君に経験させようと思ってね」
「ルーキー? またナツキが拾ってきたのか?」
「うん。ナツキもずいぶんと気に入っているみたいだよ。ようやく練習相手ができたってよろこんでいた」
そういいながら、野球のピッチングの仕草をした。
「そっちかよ」
「それだけじゃないに決まっているじゃないの。だって、ナツキが選んだから」
そうやってニッコリ笑う桃志朗と呼ばれた男に、刑事はため息を漏らしている。
だれのことをいっているのだろうか。まったく見当もつかない。
「それよりも入りなさい。着替えはあるから遠慮しないで……」
「はあ」
洋子は進められるまま、再び骨董店の中へ入っていった。
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