2・電話

 夕暮れ時、店を出た朝矢は、歩道橋の上で携帯電話とにらめっこをしていた。


 朝矢は迷っていた。


 ただ迷って携帯画面を眺めている。


 その画面には父という言葉が映し出されていた。


 どうしようか。


 いうべきなのか。


 言わないべきなのか。


 歩道橋の上。その下では車が行きかっている。


 沈みかけた太陽が朝矢の背中を照らしている。


 向こう側には雨雲が浮かんでいる。


 今日は夜雨が降ると言っていたなあと朝矢はぼんやりと考えていた。


 人々が朝矢の前を通り過ぎていく。


 どうしようか。


 いつになく迷う。思わず、自分の頭を掻いて、うめき声をあげた。


 そして、ボタンを押す。


 しばらく呼び出し音が鳴り響いた。


『はい』


 父の声だ。久しぶりきいた父の声。


『朝矢か。ようやく連絡してきたか。そっちいってから、いっちょん電話せんでなんしよっとや』


「せからしかねえ。せっかく電話してやったとけ、その言い方なかやろうもん」


『そういうな。おいも心配しとったとよ。母さんも、いつも元気しとるかっていいよらすとよ』


「母さん元気?」


『ああ、元気ばい』


「そうか」


 どうしようか。


 言おうか 


 言うまいか 


 朝矢の中で葛藤する。


 六年前、行方不明になった兄。 


 その兄が自分の前に姿を現した。生きていた。もしも、そのことを父に告げたら、驚くだろう。喜ぶにちがいない。


「親父……」


『どげんした? なんか用があったとやろう?』


「あのさ。親父」


 それ以上の言葉が出なかった。


 あの時の父の顔がよぎったからだ。


 いつもニコニコしている陽気な父の見たことのない青ざめた顔とその隣でただ不安そうな顔をする義理の母の姿があった。やがて、「おまえもいなくなるな」と泣きながら朝矢を抱きしめたことを思い出す。


「なんでもねえよ」


 言えない。


 どうしても言えない。


 兄は生きていた。


 けれど、帰ってくるという保証はないからだ。


『朝矢?』


「あっ、そうだ。もうすぐ命日だろう」


『ああ、そうだ』


「去年は帰らんやったけど、今年は帰ってくるけん」


『大丈夫なのか?大学は?』


「大丈夫。その日は授業かないはずやっけん」


 そういいながらも果たして、授業がない日だったのか考えた。


『別に命日の日でなくてもよかと思う。そんなこと気にするような子じゃなかけん』


「そうだな。でも、一度帰ってくるけん。それに、ちょっと、会いたい人がおるし」


『あいたい人?』


「ああ、元気しとるやろう? 行慈のばあちゃん」


『オトさん。元気、元気』


「そんならいい。日が決まったらまた電話するけん」

『わかった』


 朝矢は電話を切った。そのまま、夕日を眺める。赤い夕陽。向こうに立ち込める雲。


 あの方角は確か、新宿だったはずだ。


 朝矢は携帯をポケットに入れると歩き出した。


 そして、日が暮れ、雨が降り始めた。



  

 

 

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