店内

 松田の案内で着いたのは若者がやたらと目立つ繁華な町。俺がこの町によく来ていたのは十年以上も前のことだ。


「なぁ、若者にじって似つかわしくない連中が多くないか?」


 よく見ると若者たちの間に、俺と同年代か少し上といった年恰好のスーツ姿が確認できる。


「何言ってんすか、先輩。自分もその連中の一人っすよ」


 通行人の流れに沿って五分ほど歩き、レストランが集中する通りへと出る。ずいぶんこの町には来ていなかったはずなのに、あまり様変わりした印象は受けない。歩道には若者が溢れ、車道をひっきりなしに車が行きい、洗練されたデザインの建物が並ぶ。


 町はあの頃のままで、自分だけが老いてしまったような、そんな錯覚を覚えてみじめな気分になった。


「ここっすよ」


 暗鬱あんうつな気分になりかけていた俺は、松田の声でふと我に返って彼の顔を見た後、右手にあるみすぼらしい雑居ビルを見上げた。いつの間にか繁華な通りを越えて、人気の無い寂しい裏通りに入っていた。


「こんなところにあるのか」


 雑誌やテレビで取り上げられているというので、もうちょっと賑やかな雰囲気の場所にあるものだと勝手に思い込んでいた。老舗しにせというものが果たして母乳バーなるものにあるのかは知らないけれど、もしあるのだとしたらここがそうであってもおかしくないたたずまいだ。


「見た感じ汚いっすけど、自分の行き付けなんすよ」


 松田にうながされるまま地下へと続く階段を下りる。もともとバーだった店舗を改修したのかもしれない。


 一枚板でできた木製のぶ厚いドアを、躊躇ちゅうちょ無く松田が手前に引く。背の低い松田の頭越しにのぞく店内は、照度の抑えられた暖色系の照明がともり、お洒落というよりは怪しい瘴気しょうきがこもっているかのようだ。


 あまり広くない店内には客も店員の姿も見当たらない。ガランとしていて営業中かどうかもわからないといった感じだ。正面にはカウンターが左右に延びており、その手前に六席ほどの丸テーブルと椅子がてんでバラバラに配置されている。


 BGMの類はかかっておらず、シンとした中にくぐもった人の声らしきものと、何かがぶつかるような音が空耳のように聞こえるだけだ。外の騒音だろうか?


「カウンターにしましょう」


 俺たちは中央右寄りの丸椅子に腰掛けた。不安定で高さも微妙にズレている気がする椅子は何とも座り心地が悪い。客の回転を良くするための工夫かもしれないと深読みしてみる。


「先輩はどれにします?」


 気付けば松田はすでに真剣な眼差まなざしでメニューをにらんでいる。


「俺は牛乳が苦手なんだよ」


「このおよんで何言ってんすか。それに牛乳じゃないっすよ。ボニューだから人乳じんにゅうっすよ」


 人乳という言葉に気味の悪さを感じながら、近くにあったメニューへと手をのばす。思った以上に種類が多いようで、カテゴリー分けがされた下に、さらにいくつもの名称が並んでいる。


 <ブレンド>、<フレイバード>、<プレミアム>、<リミテッド>の順に料金が高く設定されている。


「よくわからないんだが」


「あぁ、そうっすよね。じゃあ東大卒の自分がわかりやすく説明しますよ」


 この松田という男は何かにつけて「東大卒」を強調するクセがある。しかし彼の言う東大は「東京大学」を指すのではなく、「東北大学付属工業専門夜間学校」のことだ。間違いではないけれど、元来の「東大卒」という意味にはそくさない。


「いいっすか。<ブレンド>はここにも書いてありますけど、年代別と出身地別のボニューを混ぜたもんです。これはあれっすね、大抵どこの店に行っても飲めるヤツっす。いわばスタンダード。次の<フレイバード>はボニューに特別な味が付いてんすよ。ほら」


◇ロイヤル・ハニー・ホワイト

◇ミルキー・トリプル・チョコレート

◇マホガニー・カラメル・ラッシュ

◇ベジ・マイスター・スペシャル

◇フルーツ・ド・クラスター

◇アマゾネス・ホット・チリ

◇茶の心


「ボニュー提供者に特定の食物を中心に食べてもらうんすよ。するとあら不思議! ボニューにほんのりと味が付くらしいんすよね」


 松田の言う母乳提供者とはつまり、現在子育てに奮闘中の母親のことに違いない。顔の見えない彼女たちのことを考え、自分の子供に対してはどうしているのだろうと疑問が浮かんだ。


「んで、<プレミアム>は高級って意味なんすけど、主に有名人や財界人、それから高学歴保持者から搾乳さくにゅうしたものっす」


「搾乳……」


 ここで別な疑問が浮かんだ俺は、松田にそれをぶつけてみることにした。


「でも、そのなんだ、提供された母乳がその本人のものとどうやって判断するんだ? 全く別な人の母乳かもしれないじゃないか」


 俺が質問するや否や松田は「そうくると思った」と言って、例のホヒヒという人間とは思えない笑いを漏らした。


「先輩みたいな疑り深い人のために、店側もちゃんと対策を講じてるんすよ」


 言いながら松田は自分のポケットを探り、タブレットを取り出して素早く画面を操作してから俺に向けた。


「これ、この店のホームページに掲載されているボニュー提供者のプロフと動画っす」


 画面をスクロールしていくと詳細な自己紹介文の後に、提供者本人と思われる女性が子供へ授乳するシーンと搾乳するシーンの短い動画が掲載されていた。


「残すは<リミテッド>っすね。こいつは」


「松田様、御講釈ごこうしゃくはその辺にされて、そろそろ御注文はいかがですか?」


 頭上から突然降ってきた声に驚いた俺は、椅子から転げ落ちそうになった。いつからそこにいたのか、松田の話に聞き入っていた私は、カウンター向こうに立つヒョロリとした男に全く気付かなかった。


「マスター! ビックリさせないでくれよぉ。あ、先輩、この人がこの店のマスターっす」


 紹介された男は黙ったまま軽く会釈のようなものをした。頬がこけて筋張った顔をしており、鋭く細い目の中にある瞳だけがギラギラと強い光りを放っている。


「松田様、失礼ですがそちらの方は?」


「あぁ、会社の先輩で今の上司なんだ」


 マスターはチラッと俺を見て何事かをつぶやき、すぐにまた松田の方へと視線を戻した。


「左様で御座いますか」


「いつもお世話になってるからさ」


「……わかりました。今回だけは特例とさせて頂きましょう」


「あ、そっか。ゴメン、マスター」


 二人のやり取りが何を意味するのか俺にはさっぱりわからない。ただ直感的に、俺は招かれざる客なのではないかとは思った。


「御注文は」


「俺、リミテッドね。そうだ、先輩。<リミテッド>は限定品なんで、いつもあるとは限らないんすよ。それに全く違うものなんすよ、毎回。って、どの飲み物もすぐ入れ替わっちゃうんすけど。やっぱボニューが出る時期って限られてるじゃないっすか。でもたまに、<リバイバル>っていって、昔のボニューが戻ってくることもあるんすけどね」


 ハッキリ言って俺の頭は混乱していた。松田の話を聞いていただけで何を注文するかは全く決めていなかったのだ。


 急いでメニューに目を走らせていると、左下に小さく<ミックス>と書かれているのに気付いた。どうやら自分の手で隠してしまっていたようだ。


「この<ミックス>ってのは……」


「<リミテッド>と<ミックス>で御座ございますね。かしこまりました」


 ──<ブレンド>と何が違うんだ? と訊こうとしたのだけれど、マスターはサッサと奥へと引っ込んでしまった。


「先輩……つうっすね」


「通も何も、俺は何も知らない。それで何がミックスなんだ?」


 ホヒヒ、ホヒヒと笑うだけで、松田は俺の質問には答えようとしない。ブレンドもミックスも混ぜるという意味ではなかったか? 他の乳製品とのミックス、いや、<プレミアム>と<リミテッド>のミックスかもしれない。

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