BAR
混沌加速装置
社内
「先輩、飲み行きましょうよ!」
部下から上がってきた企画書の最終チェックを終わらせて、帰宅する支度を整えているところへ声が掛かった。彼は俺が受け持つプロジェクトのメンバーで、二年前に入社したばかりの松田という若者だ。
「飲みに行くって、まさかお前……」
「あ、違いますよ先輩。もちろん酒じゃないっす。やだなぁ」
それもそうか。今の日本で酒を飲もうなんて人間はいないだろう。社会に出たばかりの松田には、茶髪にしたりピアスをつけていたりという、まだまだ若者特有のチャラチャラした部分が残っている。そのせいでつい彼を疑ってしまった。
2017年頃から始まった禁煙ブームは少しずつ加熱し、2020年には公共の施設および敷地内での完全分煙が義務化され、2024年に出された国内でのタバコの製造・販売および喫煙を違法とする法案が、若年層からの圧倒的な支持を得てあっという間に可決となった。
時期を同じくしてタバコを違法と定めた国は、早い時期から完全禁煙に対する意識の高かったオーストラリアを始め、東ヨーロッパの数ヶ国とカナダの一部の州、それからコーカサス地方のグルジアだ。
おかげでタバコ産業に従事していた、多くの人々が路頭に迷うこととなってしまった。
そう、始まりは禁煙ブームだったのだ。
「酒なんてここ三年、いや今年で四年目っすね。四年飲んでないっす。もうそんなに経つのかぁ」
松田は最後に
愛煙家たちはアルコールとギャンブルに
当然この
そしてついに政治家たちは、国民の意思を無視した強引なやり方で、理不尽でしかない法律を打ち立てたのだ。
日本国国内での飲料用アルコール類(日本酒、ビール、発泡酒、焼酎、ウイスキー、ワイン、その他アルコール飲料全般)の製造・販売および服用を、個人法人を問わずここに禁ずる。
こうして収拾のつかない事態を苦肉の策で封じたのだ。しかし、この法律への国民の反応は実に様々だった。さらなる暴徒を生むのではないかという警察当局の懸念に反し、過激分子は極少数に留まった。
犯罪が深刻に増加していたことで、国民の大多数はすでに
「それじゃあ何を飲みに行くんだ? コーヒーで乾杯か?」
もちろん、本気で言ったわけじゃない。言った後で何を言っているんだと即座に後悔した。
「先輩、それ全然笑えないっすよ」
「悪かったな、冗談も言えないオヤジで。それで、何を飲むって?」
ホヒヒ、と妙な笑いを漏らした後、松田はもったいつけるような上目遣いでこう言った。
「ボニュー」
ボニュー? 言葉の響きから北欧辺りにありそうな、お洒落な飲み物を想像してみる。しかし、
「何だそれは?」
「とぼけてんすか? 先輩だって飲んだことあるじゃないっすかぁ」
「無いよ。そんなもの。そもそも聞いたことすらない」
「ボニューっすよ。ボ・ニュー」
そう言って松田は両方の手のひらを開いて上に向け、自分の胸の辺りに当てて上体を反らせた。
「ボ……母乳?」
「ほらやっぱり。知ってるじゃないっすか」
「お前の変なアクセントのせいだ」
だいたい松田の身振りと母乳は合っていないと思う。
「とにかく、
そういえば、と俺は数年前の記憶を探り出す。飲酒が禁止になった頃にもチラッと聞いたことがある気がする。新手の風俗だとばかり思っていたけれど、松田の口振りから察するにどうも違うようだ。
「それはあれか? 風俗ではないのか」
「せんぱ~い、それ、オヤジの考え方っすよぉ」
「いいんだよ。オヤジであることには違いないんだ」
ここ最近になって雑誌やテレビの情報番組で、頻繁に取り上げられるようになったのだと松田は言う。
ところが、それに目をつけたのが元アルコール業界で、次々と新しい事業計画を打ち出して実行に移していったそうだ。有名企業まで参入し、今や幅広い層の客をターゲットにした、巨大マーケットに成長しているのだという。
「ってことで行きましょう!」
「行きましょうって」
「何すか? 先輩ビビッてんすか? 平成っすねぇ~」
歳を取ってから新しい物事を敬遠するようになった。ただ面倒になっただけかもしれない。
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