第2話 ゼロ・デイ
鞄に教科書を詰め、立ち上がる。
と、背後にいた生徒が震えあがった。
「す、すまん。あの、ちょっと、タオルが飛んで」
「そうか」
ヒョイと、開け放たれた窓の桟に引っかかっていたタオルを取り、その生徒に渡してやる。
「気を付けろよ」
落ちると危ない。
「はははいいっ!」
しかし生徒は青い顔で直立不動になって返事をし、他のクラスメイトは固唾を呑んでこちらを窺っている。
篁文は溜め息をこらえて、教室を出た。
途端に教室の中は、ホッとした空気に満ちる。
「バカ、背後に立つなよ。消されたらどうするんだよ」
「いや、流石に凄腕の殺し屋でも、ここで殺らないだろ」
「条件反射って事もあるだろ」
「……ねえ。本当に殺し屋の噂って本当なの?」
1人が懐疑的な声をあげた。
「夜になぜか走ってたらしいぜ、壁を乗り越えて。きっと、仕事を終えて現場を離れる所だったんじゃねえ?」
「でも、死体発見のニュースは無いわよね?」
「死体処理は係が別なんだよ、多分」
「あの鋭い目付き、一切謎の私生活、先生すら敬語になってしまう威圧感。成績がやたらいいのも運動神経がいいのも、まさかの事態に備えてるせいに違いないぜ」
「いかついヤクザが綾瀬に頭を下げて挨拶してるところ、見たぞ、俺」
緊張が走る。
「前にチンピラが切れてナイフを出した時、居合わせた綾瀬が素手で取り押さえて『くだらないまねをしやがって』って睨んでビビらせるの、見ただろ。去年の春の遠足の時」
「チンピラ如き素人、素手で十分って事だよな」
「だったら警察に――」
「バカ!報復されるぞ!?証拠がないんだから」
「それに、綾瀬は法で裁けない奴を殺る、警察からの依頼を請け負う殺し屋らしい」
「そうなのか」
「ああ。だから警察も見て見ぬふりなんだよ」
生徒達は戦慄していた。都市伝説というよりただの与太話でしかないが、現実に目の前にある威圧感やら目撃談やらが、そうに違いないと信じ込ませているらしい。
「結賀、よく話しかけられるよな」
「結賀は綾瀬の女なんだよ、きっと」
通りかかって話をドアの外で聞いた女生徒が、無言でニヤリと笑う。
小柄で、小動物を思わせるような活発さで、好奇心に溢れている。友達は普通にいるし、友達付き合いも普通にしている。ついでに成績は真ん中くらい。運動神経はあんまり良くない。
紗希はこっそりとそこを離れると、ロッカーに急いだ。急げばまだいるはずだ。
「あ、いた」
その声に、上履きから靴に履き替えていた篁文が顔を上げる。
しかし、それを打ち消して余りあるのが、鋭すぎる目付き、声を聞かない日も珍しくないほどに無口で不愛想、人付き合いを一切しない孤高の存在感で、周りには近寄りがたいような拒絶するような空気をまとわせている。
その上夜中におかしなところで走っていたなどという目撃談があり、いつしか「殺し屋みたいな雰囲気」が「あいつは殺し屋をやっている」という噂に変わり、都市伝説のように生徒にそう囁かれ、恐れられていた。
「一緒に帰ろ!」
「ああ」
紗希は嬉々として、ロッカーを開け、上履きと靴を履き替え、扉を閉めて鍵をかけると、篁文と並んで歩き出した。
混んだロッカールームも、自然と進路が開いていく。
友人と目が合ったが、声はかけず、そっと強張った顔で手を振って来るだけだ。いつも、
「殺し屋と付き合うなんてやめた方がいい」
と言って来る。自分から話しかけるなんて命知らずなまねはしないし、そばに篁文がいる時は、恐れて近寄って来ない。
勿論の事ながら、篁文は殺し屋ではない。警察が、法で裁けない人間の殺人依頼をするなど、あるわけもない。目付きが鋭いのは近視が入っているからだし、無口で不愛想なのは友達がいないのと、勝手に周りが怯えるのもあって無理に友達を作らなくてもいいかと、友達付き合いも面倒だと放っているからだ。友達というのは、放課後に遊びに行ったりするものだ。家事のほとんどを受け持っている篁文にすれば、そんな暇はない。ましてや、祖父から教わった古武道の稽古と中学の頃から始めたパルクールという趣味、勉強の時間を削る気もないので、友達付き合いは煩わしいのだ。
それがまた、誤解を強めているのだった。
紗希は篁文の隣の家に住む幼馴染で、噂の原因も真実も全部知っている。知っていて、誤解を解く気もない。それは、周りの誤解が解けると、きっと女子が篁文にアタックを開始すると分かっているからだ。
高スペックなのは全員知っているが、アタックを阻んでいるのは、殺し屋の噂だけだ。
「機嫌がいいな。何かあったか」
篁文が紗希の鼻歌とヘタクソなスキップもどきに気付いて訊く。
「別に何も無いよ?んふふ」
しかし心の中ではさっきのセリフがリフレインしていた。「結賀は綾瀬の女」。
「スーパーに寄るの?」
「ああ。牛乳と食パンと大根とシップを買って帰る」
言いながら歩いていると、不意に、眩暈のようなものに襲われる。
篁文は、貧血かと一瞬思ったが、隣の紗希も同じようにフラフラとした様子で、篁文の腕に掴まっていた。
「何だ?有毒ガスか何かか?ここを離れるぞ」
「う、うん。気持ち悪い……」
足を踏み出す前に、景色が派手に歪み、ブレ、揺れる。その向こうに、驚いた顔でこちらを見る生徒達や通行人達が見えた。
という事は、ガスではないのか?
篁文は思ったが、次の瞬間には、体の力が抜け、眩暈がますますひどくなって、どこかに吸い込まれるような感覚と共に、意識を失った。
目を開けると、白い天井が見えた。起きてみると、病室のような部屋のベッドに寝かされていた。
「夢?」
ドアが開いて、人が入って来る。
何か、わからない言葉で話しかけて来た。
「化け物は夢じゃなかったのか」
篁文は小さく嘆息した。
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