邂逅

 押入れの床板を剥がすと湿った土とカビの不快な臭いが鼻をいた。背後から射し込む室内灯が、床下に無様ぶざまな格好で横たわった物体をっすらと照らし出す。どこからか迷い込んで腐って干乾び死骸となった巨大なドブネズミが、慇懃いんぎんな調子で私に話し掛けてきた。


「あなた、そこのあなた。どちらへおいでで?」


 ドブネズミの眼窩がんかにもはや目玉は無く、漆黒の闇のような穴がぽっかりと開いているだけだ。身体中をおおう体毛も、かつてあったであろう色艶いろつやが失われ、使い古されたバサバサの毛筆を思わせる汚らしいものに変化している。


「独りになれる場所へ行くのさ」


「その場所とはどこでございましょう?」


 どこと言われても困ってしまう。私は具体的にどことは決めていなかった。


「どこだって構わないんだ。ただ独りになれさえすればいいのさ」


 わずかでも沈黙が流れると、そこで世界が消失してしまったかのような錯覚さえ覚える。


「お言葉ではございますが、具体的な場所をお決めにならずに、どこでも良いから独りになれる場所へ行ってしまおうとするのは、利口な霊長類様の行動としてはちと軽はずみではございませんか?」


 ドブネズミの分際で何を分かったような口を利くんだと私は思った。ドブネズミの分際で。


「お前の知ったことではないだろう」


「はい、左様でございます。出過ぎた真似をして申し訳ございません」


 そこまで馬鹿丁寧に謝られると何ともばつが悪い。少し言い過ぎたかもしれないとまで思ってしまう。それによく考えてみれば、ドブネズミの言い分も至極しごくもっともな事ではある。私はどこへ向かおうというのだろう。


「なに、そこまで平身低頭することでもない。私も気が立っていたのだ」


 しかし死骸に向かって平身低頭とは妙な具合だ。頭を左に向けて地面に横たわっている死骸が、それ以上の姿勢を取ることなど無理な話なのだ。


「ありがとうございます」


 どうやらずいぶんとドブネズミの奴を萎縮させてしまったらしい。その声は震え、恐る恐るといった感が手に取るように分かる。


「おい、ドブネズミ。ところでどうしてお前は私の家の床下なんかで死骸になっているんだ」


 脅すつもりで訊いたのではない。ふとそんな疑問が脳裡をよぎったのだ。


「よくぞ訊いて下さいました」


 突然ドブネズミの口調がき活きとしたものに変わった。


「実のところ、いつかこの話を誰かに聞いて頂こうと、その機会が訪れるのを今か今かと心待ちにしていたのでございます」


「これまでに誰にも話してないのかい」


 もしかしたら自分がその話を聞ける最初の者になれるのではないか、と私の心は淡い期待を膨らませつつあった。


「いえ、一度だけではございますが、その辺をっていた百足ムカデに聞かせたことがございます」


 私は残念に思った。どんな話であれ、他の者が知らない話をいの一番で聞けるというのは、日常生活においてちょっとした贅沢に違いないのだ。そこでは話者と聞き手による一対一の緊密な関係が結ばれ、誰もが知らない秘密を共有するという非日常を体験できる。しかしそれはどこかの百足によってすでに奪われてしまった。


「まぁいいよ。聞いてやろうじゃないか」


 そこでドブネズミは一瞬だけ、ほんの一瞬だけ躊躇ちゅうちょしたように見えた。


「実は私、生前は雄のドブネズミでございました。私たちドブネズミは通常群れを形成して生活するのでございます。しかし、私は一匹の雌のドブネズミを追っているうちに、あなた様の住居であるこの縁の下へと迷い込んでしまった次第でございます。おかげで私は自分の巣に帰ることができなくなってしまいました」


 まったくもって愚かしい話だ。雌ネズミを追ってこんなところへ迷い込み、挙げ句の果てには干乾びて死んでしまったというのか。


「私たちドブネズミには行動圏というものがありまして、本来ならばそこから出ることはないのでございます。一時の気の迷いとはいえ、私も愚かなことをしたなと思ったものでございます」


「それで、その雌ネズミとはどうしたんだい」


「はい、私たちドブネズミとて生き物でございますから、他の動物たちや人間様と同じく、子孫を残すために生殖行動を行います」


 話の流れでいくならば、めでたく繁殖ができたということで話が落ち着くのだろう。


「ところで、カバキコマチグモという蜘蛛をご存知でございますか?」


 なぜ突然ここで蜘蛛の話など始めるのだろうか、と私はいぶかしく思ってドブネズミをにらんだ。


「さぁ、知らないね。知らないし興味も無い。私が知っているのは女郎蜘蛛と地蜘蛛くらいなものだ。それよりもさっさと話の続きを始めたらどうだい」


 私が冷たく言い放つとドブネズミは困惑気味に説明を始めた。


「私も話を進めたいのはやまやまなのでございますが、その前に予備知識として是非あなた様に知っておいてもらいたいと思いまして」


「つまり話を進めるうえで、どうしても必要な知識というわけかい」


「左様でございます」


 それならば聞くしかあるまい。回りくどい言い方をするドブネズミだ。


「このカバキコマチグモの雌は、産卵を終えて卵が孵化ふかした後、その身を子供たちにきょうするのでございます」


「供する? よくわからないな」


 母親が子供を大事にするのは世のことわりと言っても過言ではないだろう。


「もっとはっきり言ったらどうなんだい」


 なかなか口を開かないドブネズミに痺れを切らした私は、苛立いらだちを隠さず少し大きな声で詰問した。ドブネズミは横たえた身体を一度ぶるっと震わせたように見えた。


「えぇ、供すると申しますのはつまり、子供たちにその身を食物として与えるのでございます。子供たちは生きた母親の身体をバリバリと食べてしまうのでございます」


 生きた母親を食う? そんなおぞましい行動を取る蜘蛛がいるのか。刹那、私はえも言われぬ恐怖が背筋を駆け抜けていくのを感じた。この床下は何かがおかしい。


「ここで話を本筋に戻させて頂きます。例の雌のドブネズミと私は、めでたく子孫を残すことに成功致しました。生まれた子供は11匹でございました。ところが──」


 もう私にはわかってしまった。


「ところがでございます。この縁の下へ迷い込んだ私たちは、今度は外へ出ることができなくなってしまったのでございます。子供たちは腹を空かせておりました。ここでは私たち13匹の食糧は満足に手に入らなかったのでございます」


 おかしいのだ。一匹しか死骸がないのは。


「私と雌のドブネズミも、それは本当に腹が減っていたのでございます」


「お前、自分の子供たちを……」


 もう二度とドブネズミは話し出さないのではないか、そう思えるほどの長い沈黙が流れた。


「お察しの通りでございます。それだけではございません。私は雌のドブネズミまで……」


「お前は、お前はなぜそのような行動を取ったのだ」


 私とドブネズミの間には再び長い沈黙が流れた。


「私は」


 一切の臓物を失った身体の内側で、くぐもった声を響かせてドブネズミはこう続けた。


「独りになりたかったのでございます」


 黴臭さになれてしまった私の鼻先に、吹き抜けた風が別な異臭を運んできた。

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鼠考 混沌加速装置 @Chaos-Accelerator

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