悲しいくらいに健やかな朝

@higo_mitsuru

第1話

「続いてのニュースです。先月から流行している新型ウイルスによって、全国の学校で学級閉鎖や休校が相次いでおります。症状はインフルエンザに非常に似ており、また感染力が非常に強いため、外出は控え、手洗い・うがい等の予防を行いましょう。」

細身で整った顔立ちの新人女性アナウンサーが、初々しい声で原稿を読み上げている。病欠したアナウンサーのピンチヒッターとしての仕事が続いているのか、最近顔をよく見るようになった気がする。

制服のブラウスに袖を通しながら見る朝のニュース。私のクラスは辛うじて平常運転だ。

空席の目立つ電車に揺られ、人影のまばらになった通学路を急ぎ足で登校。

驚くほどスムーズな点呼。隣の席でいつもうるさい七海は今日も欠席。授業からの解放へは三日間リーチがかかったままだ。

「誰か1人移ってくれないかな」不謹慎な世間話を聞き流しながら購買のパンをかじる。食欲が旺盛なことを珍しく褒められるこの非常事態、普段憚られてできないことを存分に楽しんでいた。

---その時までは。

「は?」

私の前の席で携帯の画面をスクロールしていた茜が、一瞬固まる。困惑はすぐに笑いに変わり、誰かに話したくて仕方のない様子が伺えた。

「なんかあったの?」

「いや、なんかさ、今流行ってるインフルみたいなアレ、

"元デブ"には絶対かかんないんだってさ。

そんなわけなくない?」


私はうまく言葉が出ず、曖昧な返事をした、と思う。それくらい衝撃的だった。

というのも、今まさに呑気にパンをかじりながら非日常を謳歌している私こそがその"元デブ"だったからだ。

今の私の体重を優に超えていたその時のことを、私は学校の誰にも話していない。電車を乗り継いで遠くの高校に通っている理由も、私がデブだったことを知られないためだ。


太った責任は私、太った理由は食べすぎ。あまりにも普通。その普通さが余計に私を苦しめた。同業のませた子たちに教わった買い食いが、もともと太りやすい私の身体にダイレクトに響いたのだ。初めのうちは私の太りっぷりを諫めていた家族も、次第にそれを諦めていった。私に入れ知恵をした当人たちも素知らぬふりで活動を続けていた。買い食いを阻止するために減らされたお小遣いは中学に上がると元に戻った。身体は膨張していった。

太ってからタレントの仕事はほとんど消えたが、一度だけ数字に目が眩んだ大人にテレビに出されたことがあった。許した親も親だが、また光を浴びられると信じた私も悪かった。話を持ちかけたのは、私が太る前、CM出演等を斡旋していた事務所の女だった。番組の内容は、私がダイエットに取り組んで、当時発足したアイドルグループのオーディション合格を目指すというものだった。「痩せなくてもいいから、必死な感じでやって。」子役の頃に培った演技力をつぎ込んで、私は復活を夢見る少女を演じ切った。オーディションには落ちた。顔の肉が減ったせいか、あの肥満児が私だと見抜いた子は未だにいない。

ダイエットを始めたのは親が離婚した14歳の冬。親権は父に移った。経済状況を完全に夫に依存していた母は、勝ち目がないとわかると私を酷く罵った。

「私はね、この子を女優にしたくて、今まで頑張って育ててたのよ。それがなによ、その醜い身体は。どうせあんた、そうやってどんどん太りながら生きてくのよ。豚みたいに誰かに飼われながらね。」

彼女が欲しがっていた「理想の娘」であることが1番の報復だと思った。次の年の春、Sサイズの制服に身を包んで入学式の看板の前で撮った写真を母のアパートに送った。それ以来は一切連絡をとっていない。父と夕飯を食べに街に出た帰り、偶然居合わせたことがあったが、向こうから息を切らして歩いて来る、健康な人の2人分はありそうな巨大な影を母だと初めて認識したのは、父が私の手を強く引いて、縁もなさそうなセレクトショップに入った時だった。


高校に入ると芸能の勉強を再開した。久々にウォーキングのレッスンに顔を出した時、当時の顔見知りが誰もいないことに焦りを覚えて、前より幾分か気合を入れて臨むことを決心した。先生も違う人になっていた。「過度な重さがかかっていたせいで骨格が歪んでいます、直していきましょう。」うるさいよ。


そんなことに思考を妨害されながら、私は日中を過ごした。授業の内容、友達との会話、お昼の学食の味、なにも覚えていない。放課後になると茜を誘い、家とは反対側の電車に乗って大きな街へ出た。人混みの中を長い間歩き、わざわざ満席のファミレスを見つけて時間を潰した。茜は終始変な顔をしていた。

疲れ切った体で家に帰り、祈るような気持ちで眠りにつく。

次の朝も私は健康だった。


昨日と同じ細身のアナウンサーがニュースを読み上げている。「日本時間未明、WHOは声明を発表し、『過去に肥満していた人間には新型ウイルスへの耐性がある』との研究結果を明らかにしました。」画面が報道センターから装飾過剰なスタジオへ切り替わり、専門家らしき人物が模型を使ってそのニュースを解説している。

部屋着のまま携帯の画面に目を通す。茜からの連絡は今朝から途絶えたままだ。

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