save55 それは赤い――



 ゴゴゴゴゴゴゴ


 異空の紫闇が光放つ世界に、

 邪神の威容が、存在していた。

 響くのは、音。異質な存在が、正質な空間とれ合うことで生じるような。世界の裏側にあってなお、受け入れがたいものが、干渉し合っているような。

 かつて世界に恐怖を撒き散らしたその巨大な異貌は、いま、ひどく裂かれた襤褸ぼろの様相をていしていた。

 らんと燃える眼光のあった、頭部。かつては聳え立った、大角。恐怖の威圧感を生み出すそれらも、朽ちて剥がれ、折れ。

 張り出した肩から垂れる両の腕。みなぎっていた破壊と剛力はえ衰え、目立つ節くれとささくれたすじが指先までを覆っている。

 大地を踏みにじるために存在していた下半身は、千切れた布のような痕跡だけを残し、途中で無くなっている。

 それらの様子、全ては、この邪神に、完全に幽鬼じみた、廃屋じみた、残骸のような印象を与えていた。


 しかしながら、


 邪神が両腕を持ち上げてゆく。

 それは苦悩だろうか、体の正面に、てのひらの盃をささげるように。

 ひどく苦しそうな、痛みを堪えるように、その盃を頭上まで掲げ―――、

 腕を、払った。


 クゥオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ


 絶哮ぜっこうが、迸った。


 ぼっ、極寒の突風が突き抜ける。

「くぅっ、」

 エリスは身を切るような奔流に耐える。

 それは身体の芯から力を奪う冷気だった。あるいはそれは、頭蓋の内より気力を奪う、淀んだ熱量でもあった。


 ォオオオオオオオオオオオォオォォォォォオォォオォオオオオオオオ…………、


 咆哮の残滓を漂わせ、邪神は巨体を宙に浮かせている。


 エリスは、ごくりとつばを飲み込んだ。

 そしてロイドに声をかける。

「勇者よ……。クロイを、頼む」

 ロイドは頷いて、眼鏡を外した。外した眼鏡を、大切に、懐にしまう。

 そしてしばし無言。内側でやり取りを交わすような間を置いて、クロイと入れ替わる。

 現れたクロイは、息を大きく吸い、短く吐いた。

「頼むぞ」

「……ああ」


 邪神、咆哮。


「先にゆくぞっ!」

 エリスは正面から立ち向かった。

 邪神は左腕を大きく振り上げる。くうを引き裂くように現出した破壊のエネルギーが、広げられた掌の、禍々しく尖った爪の先まで弾けて鳴る。

 ゴッ と振り下ろされた大ぶりは、エリスの目にはしかし、あまりにも容易たやすく映った。

 ゴゥンッ

 人ひとりを楽に握りつぶせそうなほどの掌が割り砕いたものは、石の床。遅れて炸裂する破壊の黒光も、撒き散らすのは瓦礫だけ。エリスはゆうゆうと距離をとっている。

 邪神は右腕を振り上げる。どるんっと纏わりつく黒蛇のようなオーラが、前腕を這いずるように蠢いた。

 振り下ろす。

 エリスは平静に見きわめる。余裕をもったサイドステップで回避する。

 殴打。

 大平金シンバルを叩き鳴らしたように錯覚したのは、現れた魔法陣の形状と、響いた音のためだろう。腕に纏わりついた黒蛇が滑るように動いた。嬉々すら見せて蛇は魔法陣へと潜り込み、

 ぞばっ、と、蜘蛛の巣めいて、しかし隙を残さぬ邪悪な紋様と化して、黒く輝きを放ちながら床一面に広がった。

 直後、エリスの足が接地。

 みちっ、と、圧縮された肉の硬質によって、エリスの移動は妨げられた。はっとして我が脚を見れば、黒い触手が纏わりついていた。捉えた獲物を離さぬ底なしの貪欲さがそこにあった。

「っ?!」

(……うごけぬっ!)

 邪神の左が振り上げられた。

 抜け殻の瞳に、熾火おきびが燃えた。炎を放たぬ熱量は慟哭の殺意。震えた喉が放つ伽藍のおとに共鳴するのは、命を刈り取る形に歪められた指先に爆ぜる潰滅の黒火。五指の鉤爪全てから放たれる爆音は掌のなかで狂ったように鳴音ハウリングを起こし、限界まで引き絞られた左腕が、命に餓えた猟犬のように解き放たれて、轟き落ちた。

 両腕を固めて防御したエリスに、

 衝撃。

 激痛。

 そして――浮遊。


 割り砕く裂音を響かせて、吹き飛んだエリスは壁の残骸に叩きつけられた。


 (……痛い……。)


 身を起こす。からりと、欠片が落ちる。


(…………痛い…………。)


 ずくん。ずくん。

 鳴動している。

 こめかみに響く振動が、眼球の奥を激しく叩いている。

 何かが――違っていた。これまでに感じたことのある痛みとは異なる、ひどく……鋭利な。同時にひどく鈍く、重く、熱い、痛み。それはずくずくと、腕より発し、頭蓋を鳴らす。


 ぽたりと、赤い雫が、床に落ちた。


 腕を見る。


 肉に――奇妙な〈裂け目〉ができていた。


 赤いものが、だくりと流れている。ライフではない、もっと生々しい、色の、あかい、液体が――――鮮やかな肉の断面をのぞかせた自分の腕から、溢れている。


「 ぃ、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、っ!!!」


 かつて経験したことの無い怖気が、背筋を、否、全身を駆け巡った。

 コレはなんだ。なんだこれは。ナニが起きた。なにが自分の身体に起きているのか。

 エリスは恐慌パニックに陥った。

 そんな彼女に、影が落ちた。

 ずず。と、宙を移動し、邪神が彼女の前まで進み出ていた。

「あ…。」

 足を絡めていた力は消えている。しかし、今は足がすくんで動けない。

 邪神は左腕を振りかぶり――――、


 振り下ろした。


 駆け込んできた人影に突き飛ばされた。


 ガギィイインッ、と、金属同士を叩きつけたような音がした。

 両腕を頭上に交差させたクロイが、邪神の一撃を受け止めていた。

 だくっ……。と、彼からも、赤い液体が滴り落ちる。

 貫通した威力は、腕だけではなく、彼の頭部をも切り裂いたようだった。

 だが、その赤い液体に濡れながら、彼は笑う。

 はっ。と響いた。その声。

「血も出るのか」

 眼前の敵を見上げる。

 巨体は、ゆっくりと腕を引き、彼を見下ろした。

「〈邪神〉、か……」

 その声には思いがあった。

 エリスは思考の止まった頭で――あるいはだからこそはっきりと――その声に含まれる、昔日への偲びを感じた。

 怒り――悔やみ――それらの陰り――も、ある。しかしむしろ、複雑に積まれたその感情からは、日々の残照が抱くかすかなぬくもりまでもが……、

「おい」

 エリスは、びくっとした。

「お姫さんよ……」

 顔は見えない。クロイはゆっくりと身を開き、拳を構える。彼の身体に、熱量が満ちていく。けれど、

「戦えねえなら、下がっとけ」

 続いた言葉は、それに反し、ある種の冷酷に響いた。

 言い置き、共闘を拒絶する背中を見せ、

 牙剥くようなたけりを上げて、クロイは邪神に立ち向かった。

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