save56 まっくらな 目の前に



 ――咆哮。そして、咆哮。


 射すくめるような絶叫を、腹から弾き出す雄叫びで跳ね返して、クロイは戦っている。

 その戦闘を見ながら、エリスは動かぬ頭で考える。

 自分の両腕を、赤く濡らす液体を見つめる。

(血……、〈血〉だと……?)

 確かに、〈それ〉は人の身体に流れているとされている。また作り事の世界では当たり前のように人から流れるものである。

 だが、ここは……現実だ。

 この実在リアルにおいて、人から〈血〉が流れるというのか?

 だが、それは……その〈傷〉は、確かにそこに在り、

 とても〈痛く〉、また、〈熱い〉。

 かぜ

 跳ね飛ばされた鋼鉄が壁面を割る音に、エリスは意識を立ち戻らせた。

「ちっ…、」

 立ち上がったクロイは、ぶっ、と口から血を吐き捨てる。

「攻めが効いてる気がしねえ」

 右掌をぶると振る。

 たぱっ。と、ずたずたに裂けた五指から、血が床に散った。

 う、。怯えが、声を飲み込もうとする。腹に冷たい芯を含みながらも、エリスは声を絞り出す。

「わ、わらわも……、」

「震えてんぞ。

 ……やめとけ。」

 その初句は、エリスにとって怜悧に響き、二の句に於いては……隠しきれぬ気遣いを感じさせた。

 ――クロイは、邪神を見上げる。泰然と、待ち構えているように見える。

 それを気に食わぬように舌を打つ。うつむき加減に鳴らした音には、徹しきれない己の柔さを苦む機微がにじんでいた。

 間を置き――、

 語調を平素の様子に戻して、彼はエリスに言った。

「……今はとにかく俺が当たる。

 奴がなにをしてくるのかを、あんたは見てろ。

 それで勝てると思ったなら、動け。

 だがそれでも動けなかったそのときは……、


 ――お前のことを、死ぬほど大切にしている男に、頼ってやれ。」


 その一言には――なんと言うべきだろう――万感の思いが込められていた。

 とても親しいものに――近しいもののために――そのために告げるような。

 優しさが、あった。

 情の深い微笑みを、クロイは浮かべていた。人はそれを、美しいとすら表現するだろう。

 そして、

 邪神を見た時、その表情はきっぱりと切り替わっていた。

 精神の平静はそのままに、野生の闘志を剥き出しにした眼光に。

 拳を鳴らし、クロイは再び邪神に向かって地を蹴った。



 戦いは、しばらく続いた。

 邪神は強大だった。おののく巨体は、物理を無効とする暗いオーラのようなものに守られているようだった。クロイは戦気を込めた拳で殴る。比喩でなく、山すら砕くだろうその打撃も、しかし効いていない。だが、それでも、挑み続けるクロイ。

 けれど徐々に削られてゆく。そして一瞬、

「?!」

 ごうんっ、

 クロイが足を乗せた黒光陣が力を発し、彼を宙に跳ね上げた。

 浮いたクロイに祈りを捧げるように、邪神は頭上で巨大な両手を組み合わせ、

 振り下ろした。

 果たして人の身体は爆ぜるのか。

 響きだけならば絶望的な音を発し、床に叩きつけられたクロイの身体はしかし懸命にそれに抗いぬいていた。

 跳ねて再度の空中にいるクロイに、邪神は咆哮を叩きつける。凄まじい風に押されて、彼はエリスの方に吹き飛んできた。

 凍った足で動こうとしたエリスの前で、彼は身を反転させ、両足で地をこする。

「糞が……」

 最後の矜持と共に血を吐き出して、彼の脚は崩れた。

わりぃ…)

 入れ替わりに、ロイドが現れる。髪の色は染まり変わるように。体は表面を再描画されたように。

 すく、と立った彼の身体に、クロイが負った怪我のあとはまったく無かった。

 ロイドは自分の内側に礼を述べる。

「……ありがとう」

 胸に、手の平を当てて、深く。

 そんな彼の耳は、

「う……」

 という弱い声を、聞いた。

 ロイドは裸の目で、後ろにいるエリスの様子を、聞いた。

 頼りとするものを失った幼子の心。

 乱れている彼女の心を例えれば、そのような感じだった。

 けれど、いや、だからこそ。

 自分がやるんだ。という意思を、彼女は抱く。

 それは、痛ましい決意。

 そうして、茨で編んだ縄で岩を引くような、重い足取りで、彼女は両足を動かして進む。

 エリスは、ロイドの前に立った。

 儚い背中が見える。

 震えている。


「姫…。」


 かけられた声に、くっ、となにかを飲み込むような仕草をして、

「ああああああああああああああああっ!!!」

 自らを鼓舞するためのときの声を上げて、エリスは邪神に立ち向かった。


 ――酷薄な、時間が流れた。

 やがて地にうずくまる、花が咲く。


 そこには打ちひしがれるエリスの姿があった。

 はあっ、はあっ、と荒い息をしている。

 無数の裂傷は、白い衣装を血で染め上げていた。

 残酷な美しさが、そこにはあった。それが無残へと至らないのは、彼女が纏う気高さ故か。あるいは痛みの向こうに踏み込むことを恐れた怯え故か。

 少なくとも、彼女が〈痛み〉に足を止められていることは、間違いなさそうだった。

 奏でるように、道化師の笑い声が響いた。

 距離を離した宙空から、表情豊かなカンタービレ。

 花を愛でるようなパロンの声が、優しくそそいだ。


「ああ、健気なお姫さまが、がんばっている。

 苦痛に身を切られながら、貴い矜持を胸にいだき、弱き者を守るために、懸命に戦っている。

 ああ、これぞ人の愛。慈しみ深き王女の愛。

 ワタクシは心からあなたを評価するものです。

 だから、あなたに贈り物を。

 どれくらいがんばれば、きみが邪神に届くのか、見せてあげましょう。

 邪神の、ステータスウィンドウを」


 空間に、巨大なサイズの、見慣れた窓が現れた。


 邪神 アウゴスデス


 レベル 996


 筋力  6327

 技力  4687

 体力  5068

 魔力  7279

 耐久力 3001


 ――一般に、ステータスの総合値に三倍の開きがあると、勝利するのは不可能であると言われている。

 エリスの値 7451。 邪神の値 26362。

 数値の差を理解するのに子供のような時間をかけたあと、エリスはその表情に、真実子供が浮かべるだろう絶望をあらわした。

「アッハッハッハッハ、キャハハハハハ!」

 道化師は、極めて嬉しげに笑った。

 仮面の男は、先程から、何かを確かめるように邪神だけを見ている。

 ひとしきりの後、笑い終えた道化師は、腕を振った。

 空間に、光の穴が開いた。

 パロンは、歌うように言った。


「良かれと思って見せたけれど。絶望させてしまったようで。

 かわいそうで、ごめんなさい。

 お詫びをしましょう」


 ゆっくりと、光の向こうを、指差した。


「……1人だけ。どちらかひとりだけ。逃してあげる。

 あの光の先へ」


 光は暖かく輝いている。


「さあさおイキよ自由だよ。

 けれどもどちらか1人だけ。

 さあさお選びよ。

 さあ、

 さあ」


 エリスが、すがるように光を見た。

 ロイドは、彼女の背中を見つめている。

 エリスがその視線を感じていることが、ロイドには分かる。

 凪いだ背中は言葉もなく、を消した朽葉のように、弱く。

 ――やがて、エリスは振り返った。

 眼差しに、微笑み。けれど、ああ、それは。もしもその微笑みが空にあったならば、世界中の誰もが心乱されるような、そんな儚さ。


「すまない……」


 そして再び、前を向いた。背中を見せた。


「逃げよ、勇者…、」


 ――――――――――――――――。そこには、なにもなかった。

 ――願いも、気概も。

 ただただ一つの、諦めがあった。

 つまるところの、〈無〉であった。

 ……ロイドはうつむいた。

 ぐっと奥歯を噛み締めた。

 うなじの毛が、ざわ、と揺れた。

 いや、

 それは彼が、揺らしたのだ。


(こんなとき、人間ならばどうするだろう。

 決まっている、

 笑うんだ。


 そうして、自分こそはだいじょうぶだと。

 自分にまかせろと。

 力強い足取りで、前に出るのだ。


 明るい、光を示すのだ。)


「ふざけるな」


 エリスは、殴られたように顔を上げた。

 衝撃を受けた。

 そのようなどす黒い言葉がロイドの口から出たことにも、


 彼が自分の前に出る。

 すれ違いに、言う。


「君は、そこで、見ていろ」


 込められた、溢れんばかりの怒りにも。


 彼女の前には、滾り昇るほどの背中があった。

 それは確かな激怒であり、

 そしてまた、決意だった。


 もはや勝利のための策は無く。

 つまり少年は、ただ一人を懸けて、

 全てに挑む。


「ぼくは、」

 喉元の紐に指をかける。

 しゃらっ、と、紋章の首飾りを、服の中から外に出す。

 かっ、と、紋章が輝いた。

 それは邪神に知らしめるように、光を放った。


「〈勇者〉ロイドだ」


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