幕間8 そして勇者は天に問い
『〈マスターハンド〉を、信じるな。
……お前の敵を、見失うな』
ロイドは老人を見た。
人を見る。
それは意識せずとも、普段の彼にはできること。
しかし
見えなかったのだ。
なにも。
この事実が、ロイドには衝撃だった。
彼はいままで、見えるものを最大限に利用してロジックを組んでいた。
人が関わった物事――音声、手紙、映像、人伝い、それらの複合――からであれば、彼は何かしらの情報を得ることができる。
いわんや直視したときに得られるものはその比ではなく、今は持っていない記憶の分も含めて、自分の人生はこの目とともにあったのだということへの理解が、ロイドにはある。
――だが。
見えないものも、あるのだとしたら。
――例えば、
それが殺意であったならば。
意識上には存在していた、一番目の選択肢における危惧。あの場面で自分は常日頃を優先したが、事態はもっと、想像以上に切迫しているのではないか。
少なくとも、見えないもののサンプルは、目の前にあって。
類型が、存在する可能性を、否定する要素はなにもない。
《……マスターハンドを、信じるな。
お前の敵を、見失うな……》
老人の姿は消えた。
ロイドは思索する。いまから、自分が取るべき対応を。優先順位は、情報の収集から。――いや、あるいは、直接の確認も、可能だろうか。
懸念されるリスクは特にない。ならば行動する。
思い立ったロイドは、心の声で念じてみた。
(……天の方々。
ぼくをお見送りくださった、五柱の方々。
マスターハンドと
ぼくの声が聞こえますか。
お話を、させていただくことはできますか)
数回、呼びかけてみるも、
しかし、返事はなく。
ロイドは沈黙のままの立ち姿となり、複数の手段を脳内でかき混ぜる。
やがて、その取りうる可能性の一つとして、右手の腕輪にちらりと視線を落とした時。
《ちょっとまって、それは流石にもったいない》
――神託は、下った。
◇ ◇ ◇
思わず声を出してしまった。
わかる限りで、彼はただ腕輪を見ただけだった。
こちらに向けられた声や、明確な思考については聞くことを許されている。だが定まらない思考については、その権限の外だ。
はらはらしながら注視していたところに、あのリアクション。自分が出した声は、単純に言って、反射的なものだ。
あの腕輪は、彼にしてみれば、一つの便利なアイテムでしかないだろう。ただこちらにしてみれば、あちら側に手を出すことのできる、ほぼ唯一の機会。
傍観を、基本は余儀なくされる自分たちだからこそ、賑わいたいというか、賑わしたいというか。そんな気持ちが強く。
あとはあの、なんだろう。謎の存在から、直接名指しで悪者扱いされた動揺もあって。
ルール違反の、声掛けをしてしまったのだ。
そんな人差し指に、親指から伝えられたのは、あまり嬉しくない報告。
《ヒト君、いま、上から。お達しが》
ああ、怒られるんだろうなあ。と、思っていると、
《会話、してもいいって。
というか呼んでもいいって》
え? となる。
《いいんですか?》
《うん。大丈夫。
その際のルールについては通じてね。》
《あ……はい。 ――――ええ、はい。大丈夫です。わかりました。ありがとうございます》
親指に礼を言い、他の三指にも軽く確認だけ取って、人差し指はロイドを転移させる。
移した先は、例の場所。人の世界に関わる際の、一時的な停留所。
中指を皮切りに移動を始める他の指たちに続いて、人差し指も場所を移した。
暗く、それらしい機材が雰囲気を作るための発光をしている空間。
中央に、面積は広く、高さは低い、円柱状の台。
その中心に立つ、ロイド。
上方にある自分の席に着き。
左右に並ぶ指たちとともに、見下ろした。
◇ ◇ ◇
《――勇者よ――…》 重々しく言いかけた声は、途切れた。《……いや、偉ぶるようなタイミングでもないよね。率直に話すよ。
……ええとまず、マスターハンドというのは、僕たちのことで間違いない。
親指の柱、人差し指の柱、中指の柱、薬指の柱、小指の柱。
僕は人差し指》
ロイドは台上で一礼をした。
「ご挨拶をさせていただくのは、はじめまして。
ぼくは、ロイドです」
無言の時間が、数秒流れた。
《えーっと、まずは釈明をさせて欲しいんだけれど、僕たちは君に敵対するものじゃないからね。いや、これはほんとに。
今回の、その、特殊な条件の中でも、精一杯の応援をしよう、という気持ちはあったし。
ただ――、
ああ……、うん……。
……逆に盛り上がるんじゃない? みたいなところで……盛り上がってたのはあるよね。……いや、僕ら全体的にね》《俺は違うぞ》《あ、うん。まあ……こう……時を越えて巡り会った二人が、けれど理不尽な運命に引き離されて、けれど再び戻ってきて、もう一度運命をやり直す、みたいな。確かにそういうのっていいですね、なんて僕は言ってたけど……。普通に考えてひどい話だったね。
ごめんね。》
《……申し訳ない》
《…………》
《すまんw》
《ごめんなさい》
《そんな風にしてた上で言わせてもらうんだけど、本当に、僕たちは君の敵ではないよ。
じゃあ、あの老人は何なのか、って話だろうけど……
そこのところ、実は僕らも、わからない……んだよね》
人差し指の言葉尻は、弱くなった。
対してロイドは、頷いて言った。
「わかりました。そういうことでしたら、あのおじいさんについての話は、結構です」
《いいの?
信じるな…… とか言われてたけど》
「はい――」
ロイドは、一呼吸置いてから、続けた。
「あの老人の、言葉を聞くまで。そしてあの方を、見るまで。
ぼくには危機感が足りていませんでした。
……浮かれていたのだと、思いたい。
制限時間というものが、間近に迫っている可能性を、考慮することができませんでした。
その可能性に気付かせてくれたあのおじいさんは、ぼくに益をもたらしてくれた存在です。
警告をするものであった。そのために味方、と捉えられるかも知れません。
けれど、
あのおじいさんは、見えなかった。
なにも見えなかった。
――気づくことができたのは、だからこそなのですが。
……一方で。
みな様方は、
初めてお会いしたときもいまも、あまりよく見ることができません。
ほとんどが、見たことがない形と色です。
ですが、
おそらくこれは、不思議なことなのだろうけれど、
ぼくの一番好きな形が、皆様の中にあるんです。
そして、また、
皆様の中に、嫌な形や色は、まったく見えないのです。
誠実さ――いえ、素直さの透明の向こうには、
見えないことが、見えるのです。
――一つ、間違いないと思えるのは、
あなた方が、けして邪悪な存在ではない、ということです。
見えている方と、見えていない方。
そのどちらを選ぶのか、と言われれば、
見えている方を、ぼくは信じます。
だからぼくは、神様たちを、信じます」
――ささやかなざわつきが、マスターハンドに起こった。
一番多く左右に視線を振っていたのは、人差し指。
数拍の間をはさみ、その柱は言った。
《……ありがとうね。》
人差し指の礼を受けて、ロイドは言った。
「……そんな神様たちに、ぼくは一つ、甘えさせていただきたいのです」
《うん? …っと、そうだね。なにか聞きたいことがある……ってことだよね?》
「はい」
《いいよ。
ただ、何でも答えられる、ってわけじゃないけど。
だから返答の前に、ちょっと相談させてもらうこともあるからね》
首肯して、ロイドは問いを発した。
「それでは、最初に。
ルミランスで、ぼくを待ち受けている運命について。
直接の答えをお伺いすることは可能でしょうか」
人差し指は
《……端的に言えば、
邪神が復活するんだ》
ロイドは沈黙した。思索の角度に視線を下げて、
「……その邪神の強さについては?」
《……ノーコメント。
……ただ、さっき伝えた、僕の酷いセリフについては。あらためて、謝っておくよ》
《――俺は謝らんぞ》
人差し指と、中指の
眼鏡の縁にしばしの静寂を乗せてから、再び発言した。
「対処のためのアドバイスを、頂くことはできますか?」
マスターハンドはお互いに意思を通し、検討した。やがて四指の視線が、人差し指に集まった。
指たちの代表は、ロイドに向けて、答えを返した。
《逃げても、いいよ。
僕たちは、強制するわけじゃない。
基本的に、見守るだけなんだ。
君が何を考えて、何を選ぶのか。
それが、最大限に尊重されるために、僕らはいる。
から、
君が、
君自身と、君の大切な人のことを―― 考えるのなら。
逃げな。
そのことで、何か――こちら側の、僕らの側から――君に不利益が生じるようなことはない。と、伝えておくよ。
あと、付け加えるなら、
どんな最悪の状況からでも、君と、もう一人くらいなら、それへの願いで、なんとかなるから》
「……ありがとうございます。
……ちなみに、
800万人を、どこか安全な場所に転移させる、などということは可能でしょうか」
《それは無理だね。
単純に、あちらの世界で転移を行使するのは難しい部類に入る、ということと。
もう一つ単純に、800万は、ちょっと多すぎる。
……もしも。
君ができることを、拡張するというのであれば。それは範囲の問題として解釈できるから、場合によってはそれだけの数を収めることも可能だろうけれど》
「わかりました。
それでは、
ぼくは、
逃げません。
ぼくは、戦います」
《……そっか。
なら、できる限りは、協力するよ》
「ありがとうございます。
でしたら、まず。
念の為に、確認しておきたいことがあります」
ロイドはマスターハンドを、見た。一矢を射るような、強い視線だった。
「――昔、この世界に邪神が現れた。
その時、邪神に魂を奪われた人の体は、しばらくすると消えていた。
それは魂が天に召されたとき、亡くなった人の遺体が消失するのと同じ現象と推測された。
また、
邪神の中から、膨大な量の嘆きを感じた、という神官の証言。
千億もの人々が嘆き悲しんでいるような声だと、その神官は表現しました。
……頂いた本の中、邪神の項目にあった、それらの記述。
これは、いったい、どのような現象でしょうか」
《……ダークネスのそれとは、異なるもの。
……とだけ、答えさせてもらうよ》
人差し指の返答に、ロイドは覚悟を決めたような一礼をした。
その後も、ロイドはいくつかの質問をして、マスターハンドはそれに答えた。
最後に、それらの質疑をまとめた一冊の本を、今回限りの特別として、ロイドは授かった。
――帰還の時になった。
マスターハンドは、ロイドを正しい位置に戻すための準備に入る。
《今度は高さを間違ったりしないからさ。
……いや、ごめん。嘘ついた。あれわざとやったんだ》
「おかげで、よい出会いができました」
《はは。
…………、それじゃあ、
がんばってね》
はい。
人差し指の言葉に、頷きを返す。
そしてロイドの姿は、
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