幕間7 彼らそこに生きる人々
オルゴールの音色が流れている。
少女が一人で、部屋にいる。
テーブルの上には、小箱が置いてある。あえて装飾を外したような、それでいてけして地味ではない外装の中、ぜんまいと小琴が奏でる音楽は、少女の好きな、歌だった。
少年が、くれた誕生日プレゼント。
ふるえるほど嬉しかったのだ。
まさか、という思いがあった。
こちらからは、かかさず毎年贈っていた。けれど、お互い少し大きくなったころ、少年がくれていたビー玉やカエルの干物――あるいは干からびたカエル、あのときは笑ってしまった――は、少女のもとには、贈られなくなってしまって。
――だけど、
もっとも新しい誕生日。あえて表情を隠したような、瞳の奥にだけ秘めた照れくささで、彼がくれたこのオルゴールは、
彼女の宝物だった。
今日の朝。
少女は、寝室に横たわる、物言わぬ両親の身体を見た。
助けを求めにいった隣の家で、けれど、状況は同じだった。
少年と二人、怯えて身を寄せ合っていた。自分たちはただの震える子供だったが、少年がいてくれることは、少女にとってありがたかった。
しかしやがて、様子を見に来た大人が伝えた事柄が、彼を立ち上がらせた。
この異変の原因、王都に潜むダークエルクの少女を、捕まえなければいけない、と。
血を上らせた怖い目をして、少年は、大人が持っているのと同じような棒を握りしめて、少女に宣言した。
少女には、わかった。その怒りが本物であることを。少女のためにも、そうしてやるという宣言に、嘘がないことを。
そして強い気持ちの裏側にある、ただひたすらの恐ろしさと、じっとしていられない気持ち、憤怒に身を任せたかった衝動の――少年を駆り立てたもののことを。
……俺が捕まえてやるから。言い残して、彼は出ていった。
熱い憤りが去ったあとには、寒い空白だけが残った。
――そばにいてほしかった。
隣にいてほしかった。
彼がいてくれれば、それだけでよかったのだ。
少女は一人で、部屋に居る。
寝室で、ベッドの上に冷たく横たわる、最愛の二人の前に。
父親は座っている。
棒を握りしめていた手のひらは、いまは空手で。ただ我が身の思いだけを、強く握りしめている。
妻と、娘に対して、物言わぬ懺悔をする。
我が子よりもいくらか年上程度の女の子を――けして邪悪とは思えなかったあの子を――鬼気迫る顔で追いかけていた自分。
恥に引き絞られる心臓に涙を流しながら、それでも、深く感謝する。
叱ってもらえて、ほんとうに良かった。
娘の、小さな――小さな、冷たい手を握りしめる。
父親は祈る。
そして、
この家を守る、と。
胸に決める。
上に空白ばかりを乗せるようになってしまった、花瓶用の台を見つめながら。
おばあさんが、窓辺にいる。
息子夫婦の、幸せそうな笑顔を思い出す。
天から、子供を授かれることになった。
我が子らとはいえ――他人から伝えられる喜びに、あれほど心動かされるというのは、初めての経験だった。
順番を待っている。来年の今頃には、孫の顔を見せてあげられる、と。
嬉しそうに話す二人に、それなら私は家を出ていくと伝えれば、息子も、嫁も、真剣になって止めてくれた。
ならばと。自分の部屋を二階に移したのは、彼女の意地だ。
そんな年じゃない。階段くらい登れる。
自分の主張に、最後まで困っていたのは息子のほうで。嫁のほうが、やれやれ、と諦めたような笑い方をしていたことが、妙に
今、二人は家の中に、冷たくなって、横たわっている。
この部屋は、息子が使っていた部屋だった。
気弱な息子で、いじめられたりもした。
強くなれと発破をかけて。少しは乱暴なくらいで丁度いいんだと。
けれど結局、自分が思う〈強い子〉にはならず――賢い勇気を持った子に、育ってくれた。
子から学ぶこともあり。
ぽとりと、涙の雫がこぼれ落ちた。
揺れる馬車の中で、手鏡を見ている。褐色の肌が映っている。
その綺麗な色が好きだと、いつか囁いてくれた恋人の――冒険者として旅立って、帰らぬ人となってしまった彼からの――贈り物。
止まった馬車から、ダーシャは降りた。
自分の家の前。
戸口に向かう。
勇者ロイドが、研究所を去ったあと。
みな、しばらくの間、悩んで。
幾人かは、部屋を出た。
彼女もその一人だった。
いま、ダーシャは両親に、勇者の話を伝えている。
父は黒い瞳で、静かに聞いている。淡黄の肌に、細かいしわが増えていることに気づく。黒髪に交じる白も、そういえばずいぶんと割合を大きくしていた。
母の白い肌は、けれど、やはり綺麗なままだと思う。父との年の差は、それなりにある。ただそれにしても、青い瞳の輝きは若々しい。彼女も穏やかに、話を聞いている。
最後まで、聞き終えて。
ダーシャが答えを問う前に、両親は口を開いた。
私たちは、ここに残るよ。と。
両親の答えに、ダーシャは――当然に――問う。
なぜか。と。
両親は、一度顔を見合わせる。そして視線を外し、お互いに――べつべつの――けれどなにか同じ出来事を、瞳の中に思い出している。
それはけして、快いものではないことがわかる。
やがて二人は、壁に掛けられたアルドの肖像と、その隣に並ぶ、先代の、剣の勇者の肖像に、視線を送った。
窓から差し込む光が、二人の顔を明るくしている。 ――ただ、それだけではない。
そこには、救われた者の、光があった。
そうして、両親は、彼らの昔話を、娘に語り始めた。
年老いた男性が、木箱に腰を掛けている。
白髪を力なくさせて、
彼の孫は、やんちゃざかりの男の子。
馬がことのほか大好きで、老人の職場へ、毎日のように遊びに来ていた。
ふんを宝物のように拾い上げていたあの子。
きらきらと輝く金色の目で笑っていた、あの笑顔。
――涙がこみ上げて。
老人は、我が孫を切に案じて、
静かに泣く。
巨漢の冒険者が、街角にいる。
街路に面したカフェの席。大柄なお客用の椅子に腰掛け、アイスクリームをつついている。
思い出すのは、先程のこと。
メガネの坊主を追いかけていた二人組。
叩きのめしたあいつらが、妙な姿に変化したこと。
重ねて速攻でぶちのめすと、しわしわと消えていったが。
いったい、何だったのか。
ああくそう。
「美人で巨乳の嫁がほしいなあ……」
つぶやきは、人知れず風に流れた。
――その日。その場所。その、時に。
王都には様々な人々の思いが、交錯していた。
八百万人の、それは、命の営みであった。
オルゴールの音色が止まった。
いつもならば、その余韻も快い。けれどいま、ふつ、と訪れた静寂は、胸に残すものもなく、心に――
しばらくの間、差し込む痛みに包まれたあと、
少女は再び、
扉が開いた。
視線を送る。
少年が、戸口に立っていた。
戸を閉め、少年は、窓辺のベンチに腰を掛けた。
二人の間には、気の置ける距離が空いていた。少女はけれど、即座にその距離を詰める。椅子から立って、彼の隣に座る。
少年が、自分を責めているようだったから。
走って家を出ていった少年は、いま、息を切らしてはいなかった。身体から熱も感じない。
やがて熟慮を経たのだろう、声で。
少年は、語りだした。
「……勇者さまと、出会ったんだ」
少女には、衝撃的に響いた。
ダークエルクの少女を、見つけたという。その子を追いかけた先で、出会ったという勇者。
少女の胸に、希望が芽吹き始める。
息を呑んだままの、驚きを顔にとどめて少年を見て、けれど、彼がまだ何かを言おうとしていて。
少女は静かに口を閉じて、言葉を待つ。
「……王都の事件も……オレたちの、父ちゃんと母ちゃんのことも……
きっと。勇者さまが、なんとかしてくれる。助けてくれる。
だから、
お………。」
言葉は途切れた。
喉の奥に、熱い塊が詰まったように。
その熱は、確かに少女にも伝わり――それは予感として、緋熱の波紋を、彼女の身体中に走らせた。
少年は、精一杯の勇気で、口に出した。
「オレは……、ここにいるよ。 お前と、いっしょに……」
隣に座る、彼は。こちらを見もせずに、顔は前を向いたまま。ただ、耳だけを真っ赤にして。
――それは少女にとって、夢にも見た瞬間、であったのだろうか?
果たして――少女の表情に、その答えを求めるのであれば。彼女の瞳の端に溜まる、涙の珠に浮かんでいるものは。
愛おしい――というよりも、それはもっと――、
少女が寄せた指先が、触れ合う。
少年は――かたくなに――そこだけは
けれど、指先だけは触れたままで。
ふたり、並んで。そこに。
◆ ◆ ◆
身につけた仮面は砕けている。
支えのない立ち姿は黒炭。虚無がある。
そこにあるものを。
地底の高貴は、なお幼い。
天意の悪意に、翻弄されて。
虜囚の肌身で、今は歩く。
暗い部屋で、道化の王は笑う。
我欲と悪意だけを具えて、
彼を待つ。
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