むかしの短編

柚峰

第1話


(姿勢・後遺症・時計)



 水滴が落ちる音。

 ぬるい皮膚と冷めたお湯は鈍く同化している。腕を動かしてみても、動かしているのか、動かされているのかわからない。主役を奪われた腕が、ちゃぷちゃぷと音をたてて移動し、水面からその白い肌を露出させた。何の変哲もない、僕の左腕。


 水滴が落ちる音。

 今も頭の中で勝手に鳴る音を、好ましいとは到底思えない。もれなく彼女の甘い面影とともに、脳裏にこびりついている。その二つが、一向に結びつかない。結びつかなければつかないほど、僕は自分の視覚や聴覚を疑うしかなく、なんとなく漂う非現実な感覚を飲み込もうとして、何度も吐いた。


 水滴が落ちる、途中。

 湯に浸かりながら湯冷めすることを懸念して、ぬるい湯船から這い出る。もはや同化したと思っていたそれは、いとも簡単に絡まり落ちた。一気に、体が重くなる。



 普通の恋人同士だったと思う。大学一年、入学し若干浮わつきながら知り合う。そして付き合い始める。大学二年、講義にも生活にも慣れて、お互いの感覚を確かめ合いながら、デートしたりデートしたりデートして、友人に蔑まれる。男は友情の方が大切で、などという定説はあまり当てはまらなかった。僕は、目眩く彼女との素敵な、けれどいたって平凡な恋愛に、のぼせていた。伏せ目がちな表情や長いまつげ、はにかむ横顔、全てが愛しかった。


 しかし、三年の冬、僕達は別れた。これも大学生の恋人達にはよくある話だ。講義とアルバイトに合わせて、迫り来る就活と卒論。お互いの時間と余裕がなくなり、自然消滅、もしくは些細なことでけんかして、破綻。学問と職業と恋人。抱えるには、どれも大きい。


 もしかしたら、潜在的に分岐点を感じているのかもしれない。自分の未来と、相手の未来が、何度思い直しても重ならない。自分は船をこぎ、相手は新幹線に乗っている。そんなことを考えてしまう時期である。


 僕達はけんかをしたわけではない。自然消滅と言えばいいのだろうか。別れた、という宣言はしていないし、されてもいない。

 ただ、あの日を境に、僕は彼女に会わなくなった。自分で作り出した距離。



 デートはだいたい外だった。たまに僕の部屋。学生特有の狭く汚れたその部屋は、彼女が来るようになってから劇的に小綺麗になった。僕の掃除、整理整頓能力がここ二年でめきめきと上がったからだ。彼女が座るに値しない座蒲団はおしゃれなソファーに変わり、彼女が可愛いと微笑んだカップが二つ仲良く食器棚に並んだ。


 決してこれらは強制されたわけではない。むしろ謙虚な彼女は遠慮した。確かに何だかんだ買い揃えることは、貧しさつのる財布にはきつい。財布が挨拶がわりに断末魔をあげるようになってしまっていた。


 だけど、そうして彼女に似合う、順応する物を揃えることは苦ではなく、僕自信楽しんでいたふしもある。そして彼女も、特には勧めも嫌がりもせずに、ただ微笑んでいた。



「また? きもちわるいよね」

「失礼な。僕と彼女の居心地のよい空間を作っているだけだ」

 いつも隣の席に座り、面と向かって悪口を言ってくる男がいた。小柄で、髪が茶色くかつくるくるぱーで、やたらとカラフルな服を自由自在に着ている。どこかの民族衣装のようで、どこに巻かれてどこに挟まってどう履いているのかよくわからない。

「彼女の、だろ。あー、キモチワルイ。君さ、そういうところあるよな、女々しいっつうか」

「何が?」

「ずっと同じ教授の授業受けていたら、教授の口癖がうつったり。彼女できたら、彼女の趣向に傾倒したり。染まりすぎだろ」

 彼は捲し立てるように一気に喋る。その間、アメリカの俳優張りに表情が動く。眼球がぐるぐると忙しそうだ。

「臨機応変と言ってもらおうか。柔軟な男なのです」

「主体がないよね」

「何だと!貴様のような奇抜な格好してる個性のかき集めみたいなやつには言われたかないね。それは本当にアナタノ個性デスカ?」

「あぁ、もちろん。俺は就活だってスーツなんて着ない。一度も着ずに、君より先に内定とってやるよ。あんな足並み揃えて、地盤沈下するつもりか」

「あはは、無理無理。この氷河期二にそれは無理。できたら、例の店で奢ってやるよ。絶対ないと思うけど」



 それから少しもたたず、僕は彼に奢るはめになった。例の店とは、大学近くにある有名な高級イタリアンである。正装せねば入れない、色々な意味でお高い店である。無謀な就活と、この正装という二重の意味で、奢ることにはならないとたかをくくっていた。ていうか冗談だった。

「待たせたな、行こうか」

 お誂えっぽいスーツにその細い身をつつみ、いつもくるくるぱーの髪もまとめたりして、彼は何だか完璧な風貌で現れた。実に憎たらしい。


「ところで、影響されやすい君だというのに、一体何で俺の影響は受けないの?」

 店内はきらびやかで、小さな硝子がいくつも重なりあって、どことなくキラキラと眩しく輝いているようだった。それは頭上のシャンデリアであったり、中央に置かれたグランドピアノの肌であったり、大きい花瓶であったり、机上のワイングラスであったりした。お互いが反射し合って輝いている。料理を持ってくる人間ですら、その清廉な動きからは生々しさが感じられず、硝子のひとつとなっている。


「こんないい店、彼女と来たかった……」

「聞いてる?」

 彼だってそうだ、ちゃんと硝子のひとつになっている。硬度のある瞳が反射している。きっと彼女も。僕だけが、全ての光を反射できずに吸い込んでしまう。そう思うと急に居たたまれなくなった。硝子にはなれない、いつだって。


「おーい!聞いてる?戻ってこーい」

 視界が急激に戻る。乱反射する光の螺旋を突き破り、覗きこんで手を降る彼の姿が現れた。

「あれだよ、拒絶反応じゃない?濃すぎる胸焼けする吐き気もする」

「え、ひどっ、言い過ぎ!」


 豪語したくはないが、僕の大学生活において、彼は一番の友人だったのかもしれない。



 始めて彼女の部屋に訪れたあの日。クリスマスも近づく寒い午後だった。


 玄関入ってすぐに目についたものは、壁にかけられた大きな時計。正面、右側、左側と三つ。棚に置かれた小さな時計が四つ。すべての時計が、噛み合わない音をちくたくと鳴らしている。お互いを牽制しているかのように。

 僕は思った。彼女は貰い物をぞんざいに扱えないのだと。たとえ秒針の不協和音が玄関に響き渡ろうと、役割を全うさせてやりたい。そんな優しさを再確認して、胸が熱くなった。

「どうぞ、あまり綺麗じゃなくてごめんね」

 促されるまま部屋に入る。彼女らしい、今までの印象を総決算したような部屋。淡い色合いのカーテンにソファー、木製の簡素な机、こじんまりとした本棚、ふわふわと膨らむベッド。テレビやコンボ、パソコンですら、無機質さを感じさせず、ぬくもりを抱いている。部屋に馴染む家具達は主張せずに個性を光らせており、その中央に主を置いて、完成形となる。彼女は最後のピースであった。


 ただひとつだけ、先程から拭えないこの違和感は何であろうか。この疑問を、爽やかな顔でお茶をいれている彼女にぶつけてしまってもよいのだろうか。完璧なこの視界が端から崩れてしまいそうな悪寒。

「あのさ」

「どうかした?」

 首を傾げる仕草も可愛い。窓からさす西日が、彼女の動じない瞳を浮かび上がらせた。

「時計、多くない?」

「あ、実家が時間屋なの」

 答えになっていない。むしろ疑問が増えた。

 沈黙を埋める秒針の音。主張をやめないその輪郭。この部屋のそこらかしこにある様々なそれは、外延を縁取り、空間を支配し、この部屋の異質さを確定している。何個あるのかもわからない。よくよく見たら本棚の中にもあるようだ。そうなってくると、引き出しに懐中時計などが敷き詰められている可能性もある。そんな光景が簡単に浮かぶぐらい、部屋のあらゆる方向から秒針の音が聞こえてくる。あのふわふわとした布団は、刑事ドラマよろしく時限爆弾の前身を含んでいるのではないか。カーテンを開ければ、そこには窓はなく巨大な時計が張り付いているのではないか。

「大丈夫?」

 僕の顔を心配そうに覗く彼女は、いつもの彼女だった。

「大丈夫だ。何も、大丈夫。えっと、時計屋さんだっけ?」

「違うよー、時間屋。まだ学生だって言ってるのに、親が送ってくるんだよね。今時の学生は暇だろって、そんなことないのになぁ、私達だって忙しいよね」

「うううん、多忙だよな!レポート、ていうかもうすぐ卒論書かないといけないし。え、送ってくるのか、これを」

 動転し裏返る声を抑えながら、机に置かれていた小さな時計を指差してみた。

「そう。跡を継ぐとか継がないとかまだ決まってないのに。手伝いだけはやらされるの、勝手よね。あ、ごめんね、こんな話して。つい愚痴っちゃうね、君には」

 絶大なるデレと対する前に、僕にはこんな話がどんな話なのか未だ理解できずにいた。

 ここまで生きてきて、時間屋という職業は聞いたことがない。そもそも彼女はこのちくたくちくたくちくちく頭に刺さる部屋で生活しているのか。学生の悪のり、ドッキリならば今すぐ出てこい首謀者よ。こんなことをしそうなやつを一人知っている。だけど誰も出てきてくれない。


 今一度、時計を見渡す。あることに気づいた。どの時計も時刻はバラバラで、今を示していない。

「時間、揃えなくていいのか?」

 何なら、と目の前にあった時計を取ろうとした。

「やめて!」

 彼女の声が響く。僕はびっくりして手を引っ込めた。

「ふざけては、だめよ?」

 真剣な眼差し、その裏に焦りと憤怒が揺らいだ。信じられない、という表情を一瞬のうちに隠して、いつもの寄り添う顔になる。

「ご、ごめん」

「私こそごめんなさい。仕事道具なんて片付けておくべきだった」

 彼女が当たり前のようにわかる前提で話している色々が、僕には当たり前のようにわからない。目の前の彼女はいつも通りの姿なのに、この部屋がいつも通りを許さない。崩れ去った後にはっきりと頭に残ったのは、絶え間ない時計の針の音だった。



 チクタクチクタク巻き戻しチクタクチクタク早送り、急に早まる秒針の音は、不意に脈打つ鼓動のようだ。



 襖が続く廊下を歩き続け、辿り着いた部屋。部屋の奥には縁側があり、その先には映像でしか見たことのないような立派な日本庭園が広がっていた。夏にこの縁側でスイカでも食べて涼めば、風情と粋と日本文化を独り占めできるであろう。

「実家通いだとは聞いていたけど、こんな大きな屋敷だとは知らなかった」

 僕は遠慮もせず庭や部屋を見回していた。家具は殆ど置いておらず、三方が襖。彼の後ろが壁で、そこに何気なく花瓶や掛け軸が飾られている。名前はわからないが可愛らしい花が生けてあった。

「そんなにきょろきょろしなくても」

「ここは君の部屋?」

「うーん、応接間」

 彼は和服に身を包み、穏やかに笑っている。全然わからない。講義後、ちょっと家に遊びにこいよ的なメールを見て、添付された地図を頼りに来てみたらこれだ。今から何が始まるというのか。


 彼は急に姿勢を正し、傍らにあった箱から急須と蓋のある湯呑みを取り出した。素早い手つきで蓋を開け、湯を並々つぎ、また蓋を閉める。そしてそれをゆっくりと僕の前に差し出し、不敵に微笑んだ。

 僕は蓋を開けた。そこには何も入っていなかった。ただ、つるりと陶器の肌が光っているだけだ。湯は確かにそそがれていたはずだ。実際にその姿を見たし音も聞いた。湯気すら感じていたはずだ。しかし今まさに目の前には空っぽの湯呑みが存在している。これを現実だと認めるなら、先程のつがれていた湯は虚無だったことになる。寸でのところで過去になった先程の光景が、紛れもなく事実だったならば、今現在の僕の視界、これは虚無ということになる。

「俺が言いたかったことは、どうやら伝わったようだ」

 彼は満足げな顔で僕から湯呑みを奪うと、急須とともに箱へしまっている。

「なんのこっちゃわからないよ」

「いや、わかっただろ? こういうことだよ。だから君は彼女と別れた」

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むかしの短編 柚峰 @yuzumine

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