2話目 妄想

 記憶を取り戻して欲しい、と彼女は言った。間違いなくそう聞こえた。いいや、これは夢だ、と何度も自分に言い聞かせる。起きた時に苦しむのは自分だ。期待するな。そんな奇怪なことがあってたまるものか。


 蒼桔はその言葉を信じたい気持ちもあったが、やはり目の前の光景がどうにも信じ難い。学生服を着た幼馴染の幽霊なんて、どうやったら現実だと信じられるというのか。けれども、部屋にかけられた時計の音や、窓から見える外の景色。伏せられたままの写真立て。それらは現実のものと相違ない。むしろ間違いを探す方が難しそうだ。


「記憶を取り戻して欲しいって……俺や綾との思い出とか、そういったものだよな」


 頼み込んでくる彼女を、そのまま放置するわけにもいかない。改めて向き直った蒼桔は、彼女の取り戻したい記憶について聞き返した。彼女は頷いて、もう一度言葉をなげかけてくる。


「君を好きだった頃の、あの記憶を取り戻して欲しい」


 射抜くような目で、彼女は訴えかける。不思議と、胸が軽くなったような感覚があった。心の中で何度も、あぁ……と言葉を漏らす。


 間違ってはいなかった。記憶は正しかった。彼女はちゃんと、自分のことを好きでいてくれたのだ。この二年間で何度も疑心暗鬼になり、友人や彼氏と遊ぶ彼女の姿を見ては心を痛めていたが……ようやく、確証を得られたのだと。


「……あぁ、もちろんだ。俺にできることなら、なんだってやる」


 本当に、なんだってやれるような気分だった。あの日以来、初めて気分が澄み渡っている気がしてならない。そして願うことなら、これが夢でありませんように。そう思いながら、また腕を抓る。やはり痛かった。その痛みが、どうしようもなく嬉しく思えてしまう。


「よかった。梗平なら、受けてくれるって思ってたよ」


 そう思っていたのはきっと事実なのだろう。それでもどこか心配な部分もあったのか、彼女の表情は柔らかなものとなる。優しく微笑む彼女を、それも自分に向けられたものを、久しぶりに見た。


 胸が痛い。嬉しさでどうにかなってしまいそうだ。この鼓動の速さも、何もかもが懐かしい。胸に沸きあがる衝動は、あの時から何も変わらなかった。


「正直、見てらんないよ。本物の私はどうしてあんな人と付き合ってるんだろうね。梗平がいてくれるのに」


「本物のっていうか……今のお前って、どういう状況なんだ? 本物の幽霊なのか?」


「なんて言えばいいんだろう……。あの事故の日、私は記憶を失ったでしょ? 私は多分、そこで分離しちゃったのかな。正直自分でもよく分からないけど……でも、私にはちゃんとあるよ。梗平との思い出が。もちろん綾くんのもね」


 彼女自身よくわかっていないらしい。ただ確かに事故に遭うまでの記憶は残っている。本物の記憶を持っているのは、私だと佳奈は言った。その言葉に蒼桔も頷く。今学校に通っている白鷺は、自分の知っている白鷺ではない。あの日を境に、彼女は大きく変わってしまった。自分が知っている彼女は、間違いなく目の前の方だ。


 彼女の現状を考えれば、あの事故で白鷺 佳奈を構成していた部分が死んでしまったのではないかとも思える。記憶を取り戻せないのは、分離してしまった彼女がここにいるから。ならばきっと、彼女が自分の中に戻ることができたのなら、記憶も戻るのではないか。


「記憶を持ってるお前が、自分の中に戻れたなら……記憶も戻るのか?」


「どうなんだろう……。記憶が戻るのと同時に消えるのか、それとも私自身が彼女の中に戻るべきなのか。どうしたらいいのかは、私にもわかんないや。初めてのことだし」


「そりゃ初めてじゃなかったら、それはそれで問題だな……」


「でもね……こんな状態だけど、不思議と怖くないんだよ」


 幽霊となってしまった彼女は、しかし怖くないのだと言う。気恥ずかしくなるほど、お互いの目線が交差する。彼女の目は逸らされることなく蒼桔の目を見つめ、そして柔らかな頬笑みを浮かべた。


「梗平とまた、会えたから」


「……あぁ」


 返す言葉は短かった。その短い言葉の中に、どれだけの想いが込められているのか、彼女自身もわかっていることだろう。二年間だ。彼女の記憶が失われてから、幾度の責苦を感じ、そして今ようやく自分が正しかったのだという確証を得るまで。とても長い時間のように思えた。事実、子供にとっての二年は取り返しのつかないものだ。


 これからやるべきことはただ一つ。目の前の彼女を、元に戻す。本物の白鷺 佳奈を取り戻す。例えどれだけ難しかろうとも、諦めたりなんてしたくはない。


「絶対に、記憶を取り戻してみせる」


「……うんっ」


 決意の言葉に、彼女は満面の笑みで返した。そして触れ合うこともできないだろうに、勢いよく飛びついて蒼桔のことをすり抜けていった。


 振り向いて恥ずかしそうに「触れないんだった……」と笑う。何をやっているんだ、と蒼桔も笑い返して……そして腕を広げて彼女を迎え入れた。触ることはできないが、すり抜けて重なった部分に、少しばかりの熱を感じられた気がする。


 きっといつか、本物の熱を与え合うことができるはずだ。それができるのはきっと……自分だけなのだと、蒼桔は感じていた。




〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜




 幽霊である白鷺 佳奈は、蒼桔以外の人間には見えていない……らしい。少なくとも、夕食の時に両親は彼女のことが見えていなかったし、声も聞こえていないようだった。


 自分にしか見えない幽霊。それが以前付き合っていた女の子の幽霊だというのだから、嬉しいような、悲しいような。少なくとも今彼女を救うことができるのは、自分しかいないのだろう。


 夕食が終わったあと、また自室で携帯をいじる。幽霊の戻し方、なんて検索してみても……胡散臭いものばかりだ。当たり前といえば当たり前だが。蒼桔には霊感なんてものはないし、ましてオカルトに詳しい訳でもない。友人にその手の人間もいない。


 どうしたものか。悩んで眉間にシワが寄っていく蒼桔を見て、佳奈は周りをふよふよと浮かんでは笑わそうとする。久しぶりに見る明るい彼女の姿に、少しは気が楽になった。


「梗平、そんなに悩まなくてもいいんだよ? 早く戻りたい気持ちはあるけど……ほら、これはこれで、いろいろと楽しそうじゃない?」


「お前は珍しい体験してるからそう思えるんだろうけどなぁ……もしタイムリミットとかあったらどうするんだよ。いきなり目の前で成仏されたら敵わねぇぞ」


 そうなってしまったら、目も当てられない。悔いばかり残った挙句、生きることすら放棄しかねない。どれだけの時間が残されているのか分からないが、一刻もはやく彼女を元に戻さなくては。そして、白鷺からあのチャラそうな男を引き剥がすのだ。視界にすら入れたくないが、見てないところで何をしているか……。想像したくない。好きな人の初めてでありたいのいうのは、ごく一般的な気持ちのはずだ。


「あの野郎を早くどうにかしねぇと……。けど、今の俺じゃ近づくことすら難しい。説明したところで馬鹿にされるのがオチだ」


「……綾くんに相談してみるとか?」


「なるほど……確かに、動いてくれる仲間は多い方がいいな。多分まだ起きてるはずだし」


 まだ時間は深夜を回ってはいない。蒼桔は携帯で風見に一言連絡を入れると、部屋の窓を開けて待ち始めた。数分と経たないうちに、向かい合わせになった風見の部屋の窓が開かれて、タオルを首にかけた状態で彼は顔を出してくる。風呂上がりのようで、いつもかけている眼鏡は外されていた。


「珍しいな、なんか課題でわかんないところでもあったのか?」


「いや……その、ちょっといろいろあってな。ちょっと聞きたいことがあるんだけどさ」


 何から話したものか。とりあえず、隣から顔を覗かせている佳奈について聞いてみるべきだろう。本当に蒼桔以外の誰にも見えていないのか。いや、彼が声を出していない時点で、見えていないのも同然ではあるのだが。


 佳奈は呑気な顔で「綾くん、久しぶりー」なんて言っている。彼にはその言葉は聞こえていないようだった。念の為に、と蒼桔は彼女のいる辺りを指さして、風見に問いかける。


「なぁ、この辺に何か見えるか?」


「何かって……何さ。眼鏡はないけど、何も見えないぞ」


「眼鏡かけたら何か見えるようになったりとかしないか?」


「大して変わんないよ。何かあるんだろうなってことくらいは、なくてもわかるし」


「……じゃあ、やっぱ俺以外には見えてないんだろうなぁ」


 軽くため息をつく。これでは説明しようにも難しすぎる。例えば何か、薄らと見えるだとか、白くてモヤモヤしたのがある、だとか。そういったものがあれば、少しは説明のしようがあるものを。とりあえず一から説明するしかない。


 蒼桔は、家に帰ってから起きたことを自分なりに説明した。少なくとも風見とは十数年単位の付き合いであり、多少は信じてもらえるだろうと思いながら、今も隣に彼女の幽霊がいるのだと告げる。触ることはできないが、声は聞こえる。確かにそこにいるのだと。


「……なぁ、梗平。確かに俺は長いことお前と一緒にいるけど……正直、付き合いきれないよ」


 風見は予想に反して、まったく信じていないようであった。それもまた、仕方がないんだろう。逆の立場なら、蒼桔も馬鹿馬鹿しいと思っていたに違いない。でも、事実なのだ。蒼桔には彼女が見える。声が聞こえる。これは自分がどうにかしなくてはならないものなのだ。そしてそれを、望む人が少なくともここにいて、きっと彼女の両親もそれを願っていることだろう。


「頼むから信じてくれって。本当なんだよ」


「お前が長いこと苦しんでるのは、俺だってよく知ってる。ここまで重いものだとは思わなかったけど……行き過ぎた妄想だぞ、それは。一旦正気に戻れ」


 訝しむように彼は目を細めた。さすがに幼馴染からそういった目を向けられるのは少々堪える。しかし、ここで引き下がるわけにはいかない。身近で信用できて、白鷺との関係性を知った上で協力してくれる人は、おそらく風見以外いないからだ。けれども、どう説得すればいいのか。風見の方が蒼桔よりも頭はいい。それでいて理系クラス。何かしら強い根拠がない限り、信じては貰えないだろう。


「じゃあ……何か。お前に幽霊の佳奈がいることを証明できればいいわけだな?」


「幽霊なんて非科学的なものを、お前がどうやって証明するっていうんだ」


「……そうだ。お前が今から何か検索して、それを調べさせてくれば証明できるな」


「あのなぁ……そんなもん、やりようによってはいくらでも調べられるだろ」


 目頭を教えて「こいつホントもうダメだ……」と諦めたような声を出された。蒼桔にはこれ以外に証明できそうなものがない。なんとか信じてほしいと蒼桔は頼み込んだが、風見は苦々しく顔を歪めて、小さく首を横に振った。


「悪いけどさ……お前の精神状態を疑うよ。だって、そうだろ? お前以外に見えない。声も聞こえない。それがそもそもおかしい話だろ。お互い同じ時間を過ごした。確かに付き合ってたのはお前だったけど、それでも俺と条件はそんなに変わらない。お互い霊感もない。じゃあそんなの、お前の妄想だって話で終わるだろ」


「妄想なんかじゃねぇんだって! 頼むから信じてくれよ!」


「例えお前が検索したもんを知ってても、カメラなりネット傍受なり、方法はあるわけだ。俺ならそうするし」


「俺にそんな頭はねぇよ!」


「狂った頭なら何したっておかしくない。少し頭を冷やしたらどうだ。外走るか……いや、週末辺りに温泉でも入りに行くか。湯治が頭に効くのかはわからないけどさ」


「馬鹿にしてるだろ」


「……してるよ。そんな話を信じ始めたら、何もかも終わっちまう。佳奈が言ったから。その一言で、俺もお前も行動指針が決まる。俺にはその確証を得られないまま、な。変な教祖を信奉する信者みたいなもんだよ」


 風見の言葉に、返せる言葉はなかった。蒼桔にしか見えないのだ。世界でたった一人、彼女の言葉がわかる。そんなもの妄想だと捨てられてもおかしくはない。否、それが普通だ。むしろこんな話を聞いてくれるだけありがたいと思うべきなのだろう。


 けれど、これは真実だ。頼むからどうか、幼馴染である綾だけには信じてほしい。佳奈もきっとそれを望んでいる。そう思い、蒼桔は説得を続けようとするが……口を開く前に、彼の言葉がそれを遮った。


「第一、なんで今なんだ?」


 その質問に、蒼桔も佳奈も首を傾げた。言った意味を理解できていないのだと風見は感じ取り、説明を続けていく。


「変じゃないか? あの事故から二年は経ってる。なのに、なんで今更佳奈の幽霊が出てくるんだ? 幽霊の普通なんて知ったことじゃないけど、それって事故のあった日か、その数日以内に出てくるもんだろ」


「それは……佳奈も、わからねぇって。最近意識が戻ったって言ってる」


「……突けば突くほどボロがでるじゃないか。どう考えたって、現状に耐えられなくなったお前の妄想だよ」


「……妄想、だと? 隣にちゃんと、佳奈はいるのに……?」


 否定できる材料はない。むしろ、風見の方が正論なのだ。蒼桔にはこれが妄想ではないと否定できる根拠はなく、また佳奈の幽霊がいることを証明する根拠もない。


 風見に否定されて、佳奈は悲しそうな顔を浮かべていた。窓から体を乗り出して、何度も彼の目の前で手を動かしてみる。耳元で、彼の名前を呼ぶ。しかしいくらやっても……彼には何一つ届かなかった。


「……これは、妄想なんかじゃ……」


「……一旦寝なよ。疲れてるんだ、きっと。何度も言うようだけどさ……佳奈のことは忘れろ。それがお前にとっても……俺にとっても、いいことのはずだ」


 それだけ言うと、彼は窓を閉めてしまった。カーテンも閉められて、中が見えなくなる。彼を説得することはできなかった。いや、きっと何度繰り返しても、無理だっただろう。


 力なくベッドに倒れ込むと、心配そうな顔で佳奈が近づいてくる。彼女の体に手を伸ばしてみても、掴めるのは空気だけだ。


「……佳奈は、そこにいるんだよな」


「うん。ちゃんと……ここにいるよ」


 重ね合わせようとしても、重ならない手。誰も信じてはくれないのだろう。世界でたった一人だけ。そう思えて仕方がない。そして……普段一緒にいてくれた彼も、今回ばかりは力になってくれないだろう。


 これから、どうしようか。不安の膨れる蒼桔の手を、寝る時まで佳奈は重ねたままだった。

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