あの日の君につかれていた
柳野 守利
1話目 過去の幽霊
好きな人がいなくなってしまう。好きな人が誰かに取られてしまう。好きな人に、他の好きな人ができてしまう。
こんな理由だったら、きっと俺も諦めがついたことだろう。君を想いながら過ごし、君を取った人を憎み、君の幸せを願ったことだろう。
そんな単純で、明快な理由だったら……どれだけ俺は、救われるのだろうか。こうして毎日、消えてしまった君の思い出と面影を探したりなんて、しないのに。
〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜
気だるげな少年は、飽きることなくクラスの女の子を見つめていた。話しかけず、携帯をいじる振りをしてそれとなく視界の中に入れる。彼女───
そんなことを考え始める自分に気づき、
日がな一日授業を聞き流し、記憶に残っている白鷺との思い出を振り返る。それが蒼桔
(……また今日も、何も変わらなかった)
日常とした風景が変わることがない。帰りのホームルームが終わって、生徒たちは慌ただしくなる。部活に行くために荷物をまとめて走り去っていく人。友人と話し込む人。誰かと待ち合わせをしている人。時間になれば、廊下は生徒でごった返してしまう。そんな中を帰っていこうとは思えず、蒼桔はいつものように白鷺のことを盗み見ていた。
時間が経ち、白鷺の友人もひとり、またひとりと帰っていく。廊下が静かになった頃、教室の中に一人の男子生徒が入ってきた。ワイシャツの第一ボタンを開けて、髪の毛もワックスで整えている。帰宅部の男子生徒であり……白鷺の彼氏だった。彼は白鷺を見つけると片手を上げて爽やかな笑みを浮かべる。
「佳奈、帰ろうぜ」
「あっ、うん。じゃあまた明日ね!」
友人の女の子たちも「また明日」と言い合い、白鷺は自慢の彼氏の手を握って教室から出ていく。その横顔は笑顔であり、それが他の人に向けられたものだと思うと、胸が苦しくなって仕方がない。
もう誰もいない教室の入口付近をしばらく睨みつけたあと、蒼桔は力なく項垂れた。机に突っ伏して「イケメンのクソ野郎が」と小さく嘆く。離れた場所にいる女子生徒には聞こえなかったが、ちょうど後ろの扉から入ってきた男子生徒にはそれが聞こえていた。
彼は困ったように表情を歪めると、突っ伏している蒼桔の体を揺らして、自分が来たことを知らせる。面倒くさそうに起き上がる彼の姿を見て、今度は苦笑いを浮かべた。
「お前のその恨み声も、何度聞いたことか」
「うっさい。ほっといてくれ」
「あのなぁ……俺だって結構気まずいんだよ。すれ違う時とか」
「お前はまだマシだ」
「だろうね。記憶喪失イケメン寝取られ物とか、どこの同人誌だよって話だし」
「マジでそんな展開なのが笑えねぇ。結局顔じゃねぇか」
白鷺は記憶喪失だ。彼らが中学生の頃、彼女は事故にあってしまった。その時に頭を強く打ってしまったのか、彼女は幼馴染である蒼桔のことを、そして今彼と一緒にいる
それだけでなく……当時、白鷺と蒼桔は付き合っていた。同様に幼馴染である風見も普段から一緒にいて、三人揃って過ごすことは多く、その過程で白鷺の方から告白したのだ。
今となっては、そんなことを欠片も彼女は覚えていないのだが。幼馴染の二人のことも。互いに好きでいたことも。神のイタズラだとでも言いたくなるくらい、ピンポイントで二人のことを忘れてしまっている。姿かたちこそ変わらないものの、当時の蒼桔にとっては昨日まで付き合っていた彼女との過去が全て消え去った挙句、向こうは何一つ覚えていないどころか友人ですらない。
もちろん蒼桔は付き合ったままだと思っていたし、記憶が戻るようになんとか接触しようとしたが……その結果は酷いものだった。なんとか退院して教室にまで来れるようになった彼女に、蒼桔は必死に話しかけたが、彼女は困ったように首を傾げる。
『ごめんなさい。その……何も覚えていなくて。一応、友だちだったんだよね……?』
そう言っていただけならば良かった。また明日も話しかけようと心に決めつつ、その場を去った後で……耳ざとく、彼女の声を教室の外で聞いてしまう。
『あまりタイプの人じゃないかな……』
いや、おい、待てよ。なんだそれは。
その場で叫び出さなかったのを、蒼桔は褒めてやりたいくらいだった。なんでそんなことを言うのか。仮にも好きでいてくれたんじゃないのか。
だとしたら彼女は一体俺のどこを好きになったというんだ。一緒に過ごした時間によるものなのか。内面なのか。自分にも分からない魅力的な部分でもあったのか。
仮にそれらであったとして……記憶が消えてしまった以上、彼女がそれを知る由もない。共に過ごした時間も全て消えてしまった。彼女にとって蒼桔は既に……その辺にいる男子生徒というカテゴリになってしまったのだ。母親は何度か説明したらしいが……本人にとっては赤の他人。それを認めようとはしなかったらしい。さすがに当時の蒼桔は泣いた。
「あぁもう、思い返すだけでイライラする」
「忘れちまった方が楽なんじゃない? ほら、向こうは忘れたままだし、思い出そうともしないわけで。ルックスだけで決める女だったってことだよ。梗平ならともかく、俺までハブられるとは思わなかったけど」
「やけに自信満々だな。前を見えなくしてやろうか」
「今のお前にしてやりたいよ。いい加減、現実を見た方がいい。あの子はもういない。俺たちの幼馴染だった佳奈はいないんだよ。フィクションよろしく、記憶が元に戻るなんて奇跡も起きない。向こうは思い出したくもないようだしね」
「やめろ俺の心を抉るな、頼むから」
あれから二年が経つ。蒼桔も風見も、そして白鷺も自宅から近い進学校である
結局高校生になってから白鷺との関わりはないが……いつまで経っても癒えない傷を持ち続ける蒼桔に、少なからず風見は辟易としていた。けれど、彼を一人にはできない。何かをしでかさないように、一緒にいてやるべきだと考えていた。昔からの縁でもあり、それはまったく苦ではないのが救いだ。
「ストレス発散でもしにカラオケ行く?」
「遠慮しとく。そんな気分じゃない」
「あらそう。なら、とっとと帰るぞ。いつまでもそこで不貞腐れてねーでさ」
渋々といった様子で蒼桔は立ち上がり、大して荷物の入っていないリュックサックを背負い込む。リュックは重たくないのに、気分だけが重たいのはいつものことだった。
廊下に出て、窓から外を見渡す。部活に励む生徒たちが必死になって自分を磨いていた。そんな未来もあっただろうに、いつまでも過去の女を引き摺っては不貞腐れ、何にも取り組む気になれない自分がいる。窓ガラスに映る自分の目元は覇気がなく、目には光が灯っていない。
まるで、あの時過去の白鷺だけでなく自分まで死んでしまったように思えてしまう。いや事実、あの時から何一つ前進せず成長を辞めてしまっているのだから、それを生きているとは言えないのかもしれない。だとしたら紛れもなく、蒼桔 梗平という男は死んだままなのだ。
「……なぁ、綾」
「どした?」
「俺は……俺たち三人は、ちゃんと一緒に過ごしていたんだよな?」
あの日々が夢だったのではないか。自分の妄想だったのではないか。そんなことはないとわかっているのに、不安で仕方がなかった。彼女はその一切を否定したのだから。
相変わらず来る日も来る日も覇気のない友人の言葉に、風見は小さく頷いて彼の肩を叩く。
「当たり前だろ。忘れられるわけがない」
「……だよな。ちゃんと、俺たちは幼馴染だったよな」
「今はもう、俺とお前だけだ。佳奈のことは忘れろ。それが一番いい」
「……忘れられるわけ、ねぇだろ」
「まぁ……そうだよなぁ」
やるせない無力感が二人を包み込む。当の本人だけは今もまだ彼氏と一緒に下校中というのが、非常に腹立たしいものだった。白鷺の彼氏は自分であるという気持ちもある。過去に囚われ続けているのは、残された二人だけだった。
~・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜
「じゃあ、また明日な」
そう言って風見は自分の家へと入っていく。蒼桔の自宅はその隣だ。白鷺の家もすぐ近くにあり、子供のころはこの三人の家のどれかで遊ぶのが基本だった。走り回り、ゲームをし、白鷺のおままごとに付き合い。そんな昔のことを、何度も思い出してしまう。
今日みたいな日はダメだ。寝るまで考えてしまう。さっさと何かで気を紛らわそうと、蒼桔も家の中に入る。リビングで家事をしている母親に「ただいま」と告げて、二階の自室に向かった。
部屋は比較的綺麗にしているが、伏せられた写真立てなんてものが目に入ってくる。見るだけで心が痛くなるが、それを捨ててしまおうだなんて思えなかった。中に入っているのは、中学の入学式の時に撮った三人の写真だ。笑い合っているのが、遠い昔の事のように思えてくる。
(……写真も何もかも、捨てた方がいいのかな)
その踏ん切りはいつまで経ってもつくことはない。リュックを雑に置いて、カーペットの上で横になる。制服を脱ぐ気にもなれず、何もやる気になれない。こういう時は、寝るに限る。起きれば、こんな負の感情の悪循環は一旦止まるだろう。
(せめて、夢の中でだけでも……)
あいつの彼氏でいられるのなら。それが無理なら、せめて自分のことを無視しない、昔の友だちのような関係に戻れたのなら。そんなことを願いながら、仰向けのまま目を閉じた。夕方を告げるカラスの鳴き声だけが、耳に届いてくる。
「梗平」
不意に、誰かが名前を呼んでいる気がした。母親の声にしては若い。
「梗平、起きてよ」
その声を聞いたことがある。いいや、よく知っている。教室で何度も耳にする声だ。
「もう、いつまで寝てるの?」
「……佳奈?」
目を開ける。蒼桔の視界に入ってきたのは、横から顔を覗き込んでくる白鷺の顔だった。髪の毛が短めで、どこか幼さを感じる。それは紛れもなくあの時の、中学時代の白鷺 佳奈だった。
「やっと起きた。おはよう、梗平」
「……夢か? なんでお前、ここに……?」
驚く蒼桔を見て、白鷺 佳奈は笑っていた。思わず飛び起きて、彼女の全体を眺める。中学時代の学生服を着た、当時の彼女の姿だ。
(……あぁ、間違いない。これは夢だ)
彼女が目の前にいること自体おかしい。そう思って、自分の頬をつねる。けれど、変だ。痛覚がある。つまりこれは夢ではない。けれど目の前の彼女は現実味がなさすぎる。
何が何だかわからず、頭がパンクしてしまいそうだった。そんな様子の彼を見て、彼女は笑っている。
「久しぶり、だね。元気にしてた?」
「いや……お前、なんで……記憶が戻った、のか?」
「そうじゃないよ。ほら、私の事触ってみて」
触るって、どこに。そう言う前に、彼女は手のひらを向けるように差し出してくる。蒼桔も自分の手のひらを合わせ、握ろうとしたところで……彼女の手がすり抜けて自分の腕と重なってしまった。思わず腕を引いて、自分の手を見る。
「な、なんだ今の……」
夢だ。これは間違いなく夢だ。そう思わずにはいられない。けれど、彼女は笑っていた顔を元に戻し、真面目な顔で言ってくる。
「夢じゃないよ。私はその……幽霊、みたいな?」
「幽霊、みたいなって……お前まさか死んだのか!? 帰り道で何かあったのか!?」
「違うよ。本物の私は生きてる。本物っていうと……なんか、変な感じはするけどね」
訳が分からない。何度か彼女の体を触ろうとするが、どれも体をすり抜けてしまう。実態はそこにないのに、声だけはハッキリと聞こえてくる。これはまさかプロジェクターか何かで映し出された映像だろうか。でもそれなら何故会話ができる。何故こんなに簡単に表情を変えられる。本物なのか、偽物なのか。本当に……幽霊なのか。蒼桔には判断ができなかった。
「ねぇ梗平、頼みがあるんだけどね」
未だに理解が追いついていない蒼桔に、彼女は座ったまま体を近づける。蒼桔の右手に、彼女の両手が重ねられた。確かにそこにあるような、不思議な感覚と共にひんやりとした冷たさが感じられる。
「私の記憶を、取り戻して欲しいの」
目の前にいる中学生の白鷺の言葉に、思わず胸が高鳴ってしまった。これが夢であったとしても、この胸の鼓動だけは真実だ。彼女が記憶を取り戻したいと願ったことは……紛れもなく、彼自身も願っていたことなのだから。
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