「おい、逃げるぞ!」

 その声の正体も確かめないうちに、雑兎が全力で走り出した。

 私は雑兎を追いながら聞く。

「ちょっとなんで逃げるの⁉ もしかしたら穴の中にトトリがいるかもしれないのに!」

「勘だよ、勘! 恐怖兎だから危険察知が働くんだよ。あれはやべぇぞ!」

 そう言われ、私は走りながら後ろを振り返る。


 穴の中からモゾモゾと這い出したのは、真っ黒な怪物だった。

 熊のように大きな体、ボコボコと蠢く頭、腹立たしそうに歪んだ表情、鋭く伸びた手足の爪。どうしたら感情はこんな姿になるのだろうかと、想像すら出来ない。


 目を付けられないように静かに、でも出来るだけ早く走って逃げる。

 そうすると、すぐ近くに岩山が見えた。あの行ってはダメだと言われた岩の谷だ。

「雑兎、こっちじゃダメ!」

「それどころじゃないだろ!」

「でもダメなの!」

 ケンの事は疑っているけれど、それでも神様とした約束なのだ。それは守らなくてはいけない。

 私はぐるりと左に向きを変えて走る。恐る恐るだけれど、雑兎も付いて来ている。

 黒い怪物は私たちに気付いて追いかけてくるけれど、思った以上に足が遅い。

 チラリと見た時には、足が思うように動かないように思えた。

 そのうちグニャリ、グニャリ、ボコボコと不気味に蠢く頭を抱えて蹲り、追いかけて来なくなった。

 地面が叫んでいるような咆哮が聞こえる。

「もう追って来ないみたい」

「バカ! まだ近すぎるだろう。もっと遠くに逃げるぞ!」

「でも、トトリがあれに襲われたらどうしよう……」

 私が不安を漏らすと、雑兎が言い切る。

「蔦の先にいたあれはトトリの感情だ。自分の感情からは逃げらんねぇよ」

「最低で最悪の姿みたいな、あんな怪物が? ありえないよ」

「仕方ないだろう? トトリの感情らしい蔦の先にいたんだから」

「でも……」

 あんなものがトトリから生まれた感情だと認めたくない。そう思ってしまって、必死に否定する理由を探す。

「認められないよな。皆そうだもんな。認められなくて感情が暴れるんだよ」

 いつもより冷めた声で、雑兎が言った。

 何か返事をしようと考えていると、声が聞こえてくる。

「お姉ちゃん?」

「トトリ⁉ トトリ、どこ⁉」

「ここだよ!」

 その声は、木の根元にできた大きなコブの中から聞こえていると気付く。

 コンコンと叩くと、コンコンと返って来た。

「トトリ、大丈夫? どうやって入ったの?」

「分かんないよ! お父さんの家から逃げてきて、台所だと思って隠れたら変な場所に来ちゃって、変なものばっかりいて、逃げてたけど怖くなって木の根元に隠れたんだ。そうしたらこんなになっちゃって……」

 トトリの声は泣いているようだった。

「どうしよう?」

「叩いて壊して、もしトトリに当たったら大変だからな」

「このコブ薄そうだし、何か切れる物があればいいのかな?」

「そうだよな」

 コブはベニヤ板にように押せば少しへこむ。

 けれどあったか亭に戻るとケンに見つかるだろうし、かといって台所庭に刃物があるとは思えない。

 困っていると、空から雀が下りて来た。

 雀はコブの上に下りるとバタバタと二、三回羽ばたく。

 すると小刀の姿に変わったのだ。

「こりゃ助かるな。しかし、こいつは神様だぞ」

「神様?」

 そこで、あの刀の神様の事を思い出す。

 初めて会った時、あの神様は確か頭に雀を乗せていたのだ。

「あの時の雀も神様だったんだ」

 おそらく、私たちの事を心配して勝手口から入って来たのだろう。あの刀の神様は、ケンに話してしまっただろうか? そんな事を思う。

 茶色い柄に銅の色をした刀身。私はお礼を言ってから、その刀を掴む。

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