白が嫌いな絵描きの少女

五月晴くく

本編

 若かった頃は植物系の研究者をしていてね。その日は冬の山の植生を調査していたんだ。若かったと言っても三十代も後半に差し掛かるくらいの年齢だけどね。

 そうしたら急な吹雪に見舞われてね。そこで引き返せればよかったんだが、視界が悪かったせいで元の山道に戻れなくなってしまって、にっちもさっちも行かなくなってしまったんだ。

 今でこそ笑って言えるけど、当時は本当にどうしようもなくて、もうここで死ぬんじゃないかって本気で思っていたよ。

 そんなわけで途方に暮れながら歩いていると、突然目の前に大きな小屋が現れたんだ。

 いやよく見たらそれは小屋ではなかった。洋風の少し小さめのお屋敷だった。

 まあ普通は突然人気のない山でそんな建物が現れたら多少は怪しむか誰かの別荘だとか考えるところなんだけど、そんな事考える余裕なんてもちろん無くて、私はそれをよくある山の「セーフハウス」の類だと思ってね、「これで一晩は凌げる!」と大きめの扉をよいしょと開けて中に入ったんだ。


 中に入るとそこにはたくさんの絵が飾られていて、なんだか様子がおかしいぞとは思ったのだけど、もう息も絶え絶えだった私はその場でへたり込んで持ってきていた食料を食べて落ち着くことしかできなかった。

 それで落ち着いたところでようやく周りをじっくり見る余裕ができて、どうやらよくイメージするようなお屋敷そのものらしいと気づいたんだ。もしかするとこれは不法侵入かもしれないぞとは思ったけど、それならそれで誰かいるならば食料やお湯を恵んでもらおうと探索をすることにした。


 そしてしばらく探索したのだけど特に成果もなく、「やっぱりこんな時期に人なんていないか」と落ち込み、せめて食べ物だけでも置いていないかと次々と部屋を開けていった。そうして確か二階の一番端っこの部屋だったかな。妙にそのあたりだけ暖かい感じがして、もしかしてとは思ったけれど、まさかそこに本当に人がいるとは思っていなかった。

 びっくりしたよ。私が扉を開けると、背の高い椅子に座った一人の少女が、とても大きくて真っ白いキャンバスに絵を書いていたんだ。長い髪の毛はクリームがかった白色で、どこの国の人かもわからないような顔をしていた。


「君は……」

「あなた、そう……。いらっしゃい。私の画廊へ」


 人との邂逅は果たせたのだけど、思っていたのとは少し違う形だったため呆然としていた私に、少女はそう言ってくれた。画廊と聞いて、「だからあんなに絵が飾ってあったのか」と理解したよ。不思議と警戒心は抱かなかった。そして少女も特に警戒する様子はなくて、気安い調子で話してくれた。

 まず私は謝った。そして雪が止むまでいさせてもらえないかと頼んだんだ。

 少女は少し考える様子を見せたあと、「そうね……。いいけど、入場料をもらいたいわ」と言った。なるほど、ここは少女の画廊なのだからそれは道理だと私は了承した。「いくら?」と。


「お金はいらないわ。教えてくれないかしら。この画廊の外の世界を。あなたがその足で見てきたものを」


 少女は不思議な対価を求めてきた。


「私は足が悪くてね。ここから動けないのよ。だからお願い」


 そういうことかと納得した私は、うまく話せる自信がないけどと断わった上で、これまでに見てきた面白かったもの、感動したもの、楽しかったもの、腹が立ったもの、その他にも色々なものを少女に話した。少女は終始楽しそうに聞いてくれて、私も思わず口が弾んだよ。


 けれども私は疲れが溜まっていたのかいつの間にか寝ていてね、目を覚ましたときには少女はまた絵を描いていた。少女は色々な色を真っ白なキャンバスに重ねていた。私が話したことがインスピレーションにでもなったのか、それはそれは楽しそうに絵を描いていたよ。しばらく眺めていると少女は私が起きたことに気づいた。


「あら起きたの。おはよう。雪は上がったみたいよ」


 そこでようやく窓から外を見ると、寝る前の吹雪が嘘だったみたいによく晴れていた。真っ白に染まった景色に太陽の光が反射していて、見惚れるほどに綺麗だった。私が少女にとても綺麗な景色だと興奮気味に伝えると、しかし少女は少しつまらなさそうに窓を見て、「もう飽きたわ」と言った。私の景色はここから見える世界だけ。そしてそれはただ白いだけのつまらない世界。色なんてない。だから私は白が嫌い。そう言って少女は眼の前にある白い板を見た。


「この真っ白な世界を、いろんな色で染め上げたいの」


 よく見ると、少女の絵からは神経質なまでに白が排除されていた。少女が手に持ったパレットに白色の絵の具が無かったところからしても、少女はひどく白が嫌いらしいことがわかった。

 そうやってまた絵を描き始めた少女をぼんやりと眺めていると、一段落ついたのか筆を止めてこちらを振り向いた。


「お話ありがとう。とても楽しかったわ。あなたは早く帰りなさい。また吹雪になったら嫌でしょう?」


 私はお礼を言って屋敷を出た。扉を出て真っ直ぐ行けば山道に出られると教えてもらったので、そのとおりにひたすら足を進めた。不思議な少女だったなと、ぼんやり思い出しながら。



 そうして見覚えのある山道に出られて、そこでようやく気づいたんだ。



 少女は「足が悪い」と言っていたのに、どうやってあんなに高い椅子に登ったのだろう、と。他に人の気配はいなかったし、誰かが登らせたということはないだろう。そういえばあの屋敷を探索したときに食料は見つからなかった。



「あの娘は一体?」



 私は急いで引き返した。けれども屋敷なんて見つからなかったし、そもそも屋敷があったであろう場所にはたどり着けなかった。そこには崖があったのだ。むしろ崖しかなかった。私が吹雪をしのいだ場所は、そして太陽にきらめいていた景色は、どこにもなかった。

 不思議と怖くはなかった。そういうこともあるだろうと、なぜだか受け入れることができたんだ。

 今度はさっきより少し軽くなった心で元の道をたどった。

 彼女が何者だったのかは結局わからなかったけど、彼女の絵はとても魅力的だった。私は素晴らしいものを見ることができたという幸福を持って山を降りた。


 それっきり。私は彼女と関わるものを見かけることがなかった。もう一度会えたら、もっと色々なことを話してあげたいとずっと思っていた。


 そう、今日までずっと思っていたんだ。


 覚えてるかい?


 久しぶりだね。君があの時描いていた絵、完成していたら見せてもらえないだろうか?


 その後話そうか。私が見てきたいろいろなことを。


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白が嫌いな絵描きの少女 五月晴くく @satsukibare

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