天秤の瑪瑙

他日

ホラー

1080:あなたも今晩、見上げてみませんか?


地域によっては流星群が見えるかもしれないとニュースで言っていたが、残念ながらそれらしきものは何ひとつ見えない、そんな夜。


僕は左手をコートのポケットに突っ込み、右手には鞄とコンビニのビニール袋を提げて帰路を急いだ。冬の冷気で肉まんが冷めてしまう前にあったかい──と言っても待つ人はいないのだが──我が家にたどりつきたい。


愛しの我が家が待つマンションはすぐそこだ。マフラーにうずめるようにしている顔を少し上げれば見える。ここまで来て、僕はひとつ憂鬱なことを思い出した。


……昨日もうるさかったなぁ。


最近の悩みなのだが、真上に入居している家族の子どもが走っているらしい足音が、連日夜遅くまで響いているのだ。


実のところ、真上の家族との交流は全くなく、本当に子どもがいるかは知らないのだが、あんな風にドタバタと走り回る大人はいないだろう。


走れるようになったというのは健全な成長の証だ。しかし、毎日のように夜の12時近くまで足音を響かせているとは何事だ。全く親は何を考えているんだ、温厚な僕もそろそろ限界だぞ、などと思いながら、道の左側にそびえるマンションを恨めしげに見上げた。


流星群どころか星ひとつ見えない夜空を背景に、同じようなベランダがいくつも並んでいる。僕の部屋は下から2つめ、左から2つめだ。


そしてその上が例の……。


例の……。



僕の上の部屋は真っ暗で


カーテンがなかった。



「ぇ……」

「こんばんは」

「ぅぇっ!」


恐々振り向くと、1人の男性が申し訳なさそうに立っていた。1階の角部屋に住んでいるはずの管理人さんだ。定期的に朝からマンションの玄関エントランスや周辺を掃除しておられるので、何度も顔を合わせている。


「驚かせてしまったみたいで……」


「いえ、すいません、大丈夫です。あの……。あの部屋って」


僕は例の部屋を指差す。相変わらず真っ暗だ。電気が付く気配はない。


「今月のはじめに引っ越されましたよ。挨拶に来られませんでした?」


「来てない、かと……」


「あぁ、そうでしたか。最近はそういう方もいらっしゃるかもしれませんね」


管理人さんは少し困ったように言いながら右手を上げる。その手にはコンビニのビニール袋の持ち手が握られている。


「妻にあんまんを頼まれていまして、冷めないうちに渡したいので、お先に失礼します」


「ぁ、はい……」


僕はビニール袋を抱えた管理人さんがマンションの玄関エントランスがある方へと曲がっていくのを見送った。


時刻は午後8時半。月なら見える、そんな夜。


僕はコートのポケットからスマホを掴んだ左手を出し、10年来の頼れる友人に電話をかけた。


「なあ、今日泊めてくれない? 肉まんおごるからさぁ」



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