第19話「今の綺麗なお姉さん誰!?」


 中学に入り、学校では初めての友人ができたわけだが、私生活のほうでも変化があった。

 智也がバーテンダーのバイトを始め、私も店に出入りするようになったのだ。

 彼がバーテンダーになったきっかけは、夜にバイトをしていたクラブのコネらしい。客からも可愛がられていたのだろう。雑用でバーテンダーのまね事をする内に、常連から店を紹介されたのだそうだ。

 勤務中に飲酒する機会もあるバーテンダーになったことで、智也は引っ越しのバイトを辞めた。今はバーとコンビニバイトをかけ持ちしている。

 バーは私たちが住んでいるアパートの最寄り駅近くにあった。店名は『ブルー・ムーン』。老年のマスターが営んでいる店で、小さいながらも落ち着いた佇まいの本格的なショットバーだ。アパートの最寄りといっても徒歩数十分の距離だが、智也が作るまかないを私もご相伴させてもらうために、開店前の夕方頃に毎日自転車で通っていた。

 その相伴に今間も預かることになった。中学最初の夏休みのことだ。児童施設は中学生の門限が午後6時のため、外泊の手続きをとる必要があった。フラッと友達の家で夕飯をご馳走になることもできないなんて、確かに窮屈で仕方ないだろう。だけどルールが明確化しているというのは、羨ましくもある。

 母はワーカーホリックだった。いつもイライラしていて、私と妹に言うことがコロコロ変わった。振り回された私たちは、怯えながらも子供心にずっと不満だった。確かに経済的に困窮した覚えはない。あの時代に女一人で子供二人を育てることが、どれほど大変だったのかも今は判る。

 それでも納得なんかできはしない。母は目に見えない子供との絆よりも、目に見える社会的成果や収入に自分の価値を見い出そうと必死だったのだろう。人は何かをひとつ失うと、その失われたものをとり返そうとして躍起になり、結果的に複数のものを失う。母が前の夫――私の実の父――と別れたのは、彼の借金が原因だった。

 智也も金で苦労してきた境遇のせいか、貯蓄額で精神の安定を図ろうとするところがある。母との違いは、客観性の有無だ。智也はいつも、一種冷徹とも言えるほど己を客観的に分析する視点を持っている。その能力は読書から得たものだろう。何も判らないまま一人で生きていかなければならなくなった彼は、きっと生き方を本の中に求めたのだ。

 私もそうだった。本は父親であり、母親であり、友人であり、人生を照らす光でもあった。現実で困窮するほどに、縋るように本の中に答えを探した。だけどインターネットもなかった時代だ。そう都合よく自分の悩みにマッチする本に巡り合えるはずもなく、寝る間も惜しんで手当たり次第に乱読を繰り返していた。一番本を読んでいた小学校高学年から中学生時代は、夏休みともなると毎日図書館に通って上限の8冊を借りては、翌日返して次の8冊を選ぶというのが日課だったぐらいだ。

 あの頃はここまではっきり自覚していたわけじゃなかったけど、それでも確かに『私は本の中に何かを探している』という、焦りに似た感覚があった。その焦燥感が毎夜布団の中にスタンドランプを引きこんでまで、私を読書へと駆り立てていたのだろう。

 私は最近、よく昔のことを考える。自分のこと、母のこと、環境のこと。いろんな側面から見て客観的に分析しようとする。

 共に生活する内に、智也に似てきたのかもしれない。





「おー! 来たか! 首が天井につくとこだったぞ」

 バーの重いドアを開いたら、途端に智也の声が飛んできた。

「どうも。言ってた通り、友達連れてきましたよ」

 カウンターの前まで行って、いつもの止まり木に尻を引っかける。

 今間も隣の席にリュックを置き、ニコニコと自己紹介する。

「初めまして、今間です。あだ名はコンちゃんです」

 彼は下の名前を人に言わない。あだ名を自分から口にするのも、下の名前で呼ばせないためだ。彼の名前は一人かずとという。まさか最初から捨てるつもりでつけたわけじゃないだろうけど、まるで親の残した不吉な予言、一生残る呪いのようだ。

 鉄壁の仮面でけん制する今間だが、今日はいつもより少し口角の上がりが弱かった。さしもの彼も初めての空間に緊張しているらしい。まだ開店前で私たち三人しかいないものの、準備中の店内は楽屋裏的なアウェー感があって、常連でもソワソワするものだ。

「えっと、藤咲さん、かっこいいですね! オレ、バーテンさんって初めて見ました」

「今間、バーテンは失礼な呼び方だから、他の人にはしないほうがいいぞ」

 場繋ぎの世辞を口にする今間に耳打ちした。「え、そうなの!?」と声が上がる。

 智也はロングカクテル用のコリンズグラスにトングで氷を入れながら、「俺はいいのか」と苦笑している。

「すいません、藤咲さん。知らなかったとはいえ……」

 呼ばれ方に関しては思うところがあるからだろう。今間は無邪気さも忘れて恐縮している。

「いいよ、俺気にしないし。実際フーテンだしな」

 繊細さなどとっくに捨てた智也は、グラスに烏龍茶を注ぎながら、あっけらかんと笑った。そんな彼に訊く。

「バーテンってフーテンとかけてるんですか?」

「そう」

 由来までは知らなかった。

「さっすが雑学王ですね。どうでもいいことばっか詳しい」

「うっせえよ」

 智也が苦笑いする。「お前だって中途半端に知ってたじゃねえか」

「誰かに聞いたんですよね。マスターか沙織さおりさんかな」

 ということにしておく。実際はバーテンダー見習いだったときに聞きかじったことだ。

「それにしても今間くん、俺の名前知ってるんだね」

 智也がグラスにバースプーンを差しこみながら言う。

 続いてクルクルとステアされる褐色の液体に、今間は「すげえ……かっこいい……」と今度はお世辞抜きで見惚れている。

 売り物でもないのに、ただの烏龍茶をわざわざ掻き混ぜてステアするのは、今間のためのデモンストレーションだろう。相変わらずサービス精神旺盛な人だ。その上器用。こんなに綺麗なステアを私は今まで見たことがなかった。細長いコリンズグラスなのに、氷の触れ合う音ひとつしない。元バーテンダーとして、羨望と嫉妬を同時に覚える。

「ねえ、今間くん」智也が言う。「俺の名前知ってるってことはさ、尚から俺の話聞いたりするの?」

「オレ、今間に藤咲さんが里親だってこと言ってますよ」

 今間の前にグラスを置きつつさっきの問いを繰り返す彼に、代わりに端的な答えを返してやった。

 智也は少し驚いた顔をして、「そんなに仲いいのか」と嬉しそうに笑う。

 聞きたいのはそっちだったのか。よっぽど私に友達がいなかったことが心配の種だったらしい。

 内心苦笑しながら、目の前に置かれた烏龍茶に口をつけた。




 今日のまかないはいつもの3倍は豪華だった。

 今間と揃って具沢山なパスタをちゅるちゅるやっていると、フラッシュが光った。

「また写真? オレはいいですけど、今間は学校のアイドルなんですからね。撮影許可とってくださいよ」

「よく言うよ。ファンクラブあるのは尚くんのほうじゃん」

 笑って軽口に乗ってくる今間に、智也がデジカメから顔を離す。

「ごめんごめん。自然な姿を撮りたかったから。あとでみんなで撮ろう」

「藤咲さん。今日のまかない、売り物使ってません? 中山さんに怒られますよ」

「尚が友達連れてくるって言ったら、マスターが買いこんできたんだよ。当分はご馳走だぞ。腐らせるほどあるから」

 今度こそ苦笑してしまう。智也が私の兄きどりなら、中山マスターは祖父きどりだろうか。

 確かマスターは独身者だと聞いた。父性愛を持て余しているのだろう、智也にも私にもとてもよくしてくれる。普段から振る舞ってくれるまかないもその優しさのひとつだ。

 食べ終わる頃にマスターが出勤してきた。まだネクタイを締めていない彼と智也、今間と私の四人でタイマー撮影をする。

 データを見たら、完全におじいちゃんとその孫三人だった。智也は歳より老けて見えるから、末息子でも通るかもしれない。じゃあ、オレはこの人の子供? 嫌だ、こんなちゃらんぽらんなフーテンダーの親なんて。

 そんな話で盛り上がりながら、しばし雑談する。

 気付けば開店時間を過ぎていた。暇を告げて店を出ようとしたら、ドアが勝手に開かれた。

「藤咲くん、すぐに――あら、尚くん」

 ぶつかりかけて、嗅ぎ慣れたラベンダーの香水が鼻先を柔らかくくすぐる。

「いらっしゃい、沙織さん」

「あ、後ろの子が例の、藤咲くんが最近うるさかった『尚くんの初めてのお友達』ね」

 客にまで自慢してたのか。

 呆れている私に沙織さんは、「ジュースでもご馳走してゆっくり話したいとこだけど、ごめんねー、仕事前で時間ないの」と、申し訳なさそうに片目を瞑って店内に入っていった。

「藤咲くん藤咲くん、今すぐできるご飯ある?」

「いらっしゃいませ。また寝坊ですか。まかないの残りならありますけど」

 智也の苦笑を背後に聞きながら店を出た。途端に今間が腕を引っ張ってくる。

「今の綺麗なお姉さん誰!?」

「店の常連さん。ほら、そこ」

 向かいのビルの3階を指差して、「音楽教室あるだろ。あそこでピアノの先生してんだ」

「もしかして尚くん、あの人に近付くためにピアノの練習してるんじゃないのー?」

 男子中学生らしいからかいに苦笑する。

「そんなんじゃないよ。たまに楽譜の読み方とか教えてもらったりはするけど、あの人からしたらオレなんてただのガキだろ」

「何歳?」

 今間が年季の入った自転車に鍵を差しこみながら訊く。

「25、6。藤咲さんのひとつ上らしいから」

 私もキーを押しこみながら応える。

「いいなあ、大人のお姉さん。オレも早く大人になりたい……ような、なりたくないような」

「大変だよな。強制的に住んでるとこ追い出されるんだもん。何歳で出ることになるんだ?」

「……知らない」

「ちゃんと調べといたほうがいいよ。勉強もしといたほうがいい。学歴は確実に武器になるから」

「……藤咲さんって尚くんと苗字違うし、他人なんだよね?」

「そう。児童福祉の代理でオレを育ててるだけ。オレのいろんな書類上の管理とかやってるのは、弁護士の木邑って人だしね」

 言って、自転車のペダルを漕ぎ出す。

「じゃあ、尚くんもその内家を出ることになるんだ……」

 小さな呟きが遠のき、それから錆びついた車輪の音があとをのろのろついてきた。



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