第88話 無垢なる悪意

 やがて存分に喉の渇きを潤して満足した莱香達は、ようやく本来の目的を思い出す。



「あ……こ、この水、持って帰るんですよね」


「そ、そうだったわね。やだ、私ったらつい夢中になって……」



 一時とは言え舜の事も忘れて泉の水を貪っていた事が急に気恥ずかしくなって、莱香は誤魔化すように話題を変える。クリスタも自分の『醜態』に気付いて、顔を赤らめていた。

 早速と、革袋を取り出して水を掬おうとするのをロアンナが止める。



「まあ待ちなさい。もうじき夜になるわ。今夜は折角の水源がある事だし、ここで夜を明かしましょう。水を詰めるのは出発する直前でいいわ」



 確かに真っ暗な夜の闇の中、今来たルートを引き返すというのはかなり無謀だ。喉の渇きは癒えたが、身体はかなり疲れている事でもあるし、ここはロアンナの言う通りにした方がいいだろう。

 莱香がそう思っていると、リズベットも同じ判断をしたらしくロアンナに同意した。逸る気持ちは全員の中にあるが、急いては事を仕損じる、というのは行きの道中で実感したばかりだ。


 そして再び夜の森で一夜を過ごす女達。野宿も2回目となると多少慣れたのか、昨日の朝より身体の強張りが少ない気がした。或いは寝る前に飲んだ「神の泉」の水が効いているのかも知れない。


 朝食にもう何度目になるか解らないヤズルカの実を食べ、泉の水を飲んで腹ごしらえを済ますと、5人全員がそれぞれの革袋に泉の水――神酒を詰める。帰りの道中も何があるか解らないので、保険として5人全員がそれぞれ神酒を携行するという提案がロアンナから為されたので、それを受け入れての行動だ。


 準備を整えた一行は足早に「神の泉」を後にする。後はこれを舜の元へ届けるだけだ。帰りもまた干潮を待たなければならないが、今度は逆に陸地に向かって進むので、ゴール地点が最も水没するのが遅い。行きと比べて余裕はある。


 やはりロアンナの先導に従って森の中を進んでいくと、数時間後にはこの島に「上陸」したと思しき地点まで到達していた。時間的にもタイミングが良かったようで、さほど待つ事もなく帰りの「道」が出現した。



「よし、それじゃあ行くわよ」



 ロアンナの合図と共に浜辺に駆け出す一行。後はこの「道」を戻って、舜に神酒を届けるだけ……。皆がそう思ったとき『異変』は起こった。




「――――ッ!?」




 突如、莱香は頭の中を駆け巡る強烈な不快感に襲われた。吐き気を伴う程の不快感だ。立っていられず、思わずその場に膝を着いてしまう。



「うう……! な、何、これ……」



 見ると他の4人も似たり寄ったりの反応だ。何が起きたのかと訝しんでいると、リズベットがその答えを言った。


「く……魔力探知……! まさか、〈貴族〉が……!?」

「……!」


 莱香は息を呑む。その言葉と同時に海中から巨大な光球が浮かび上がり、莱香達の方へ向かって高速で飛んできた。



「危ないっ!」



 5人とも身を投げ出すようにして回避すると、一瞬前まで彼女らがいた地点に光球が着弾。盛大な破裂音と共に、衝撃波をまき散らす。


「く……!」


 莱香は急いで障壁を纏って自分と……革袋を衝撃から守る。他の4人も大きな被害は受けていなかった。皆慌てて立ち上がって、自分の得物を抜き放ち、海岸を油断なく見据える。莱香も既に太刀を抜いていた。

 そして女達が睨み据える先、海中から姿を現したのは……



(……あれは、海栗うに!?)



 最初に見えたのは黒っぽい色の長い棘であった。それが何本も海中から突き出し、やがてそのシルエットが明らかになった。それは黒い体色の人型から無数の棘が突き出た、異形の怪物であった。「顔」に当たる部分にまでびっしりと棘が生えている。


 少なくとも莱香には、その生物の目や口がどこに付いているのか解らなかった。にも関わらずその海栗人が「喋った」。



「あ、あのう、ここはオケアノス王国の領域なんですけど……お姉さん達はクィンダムの人ですよね?」



 意外にもその海栗人は、気弱そうな少年のような声で話しかけてきた。恐ろし気な外見とのギャップに莱香が戸惑っていると、一行を代表してロアンナが答える。


「ええ、そうなの。私達とっても急いでるのよ。ここを通してくれれば、このまま黙ってクィンダムに戻るわ。だから……行かせてくれない?」


 相手を刺激しないように、慎重に受け答えをするロアンナ。海栗人はちょっと考えるような仕草を取った。


「うーん。これが他の王国の人達だったら面倒臭いから通してたと思うけど……お姉さん達ってすごく美人だね。それに、とってもセクシーだ」


「……ッ!」


 莱香はどこに目が付いているのか解らない海栗人の「視線」が、自分達の鎧からむき出しの素肌の上を這い回るのを確かに感じた。

 おぞましさに身震いする、と同時に思い出した。先程の光球の魔法はこの海栗人が放ったのだ。警告も無しに……。気弱そうな言動に惑わされそうになった自分を叱咤する。



「僕ってこんな身体だから、まともに女の人とヤった・・・事が無いんだ。でもお姉さん達は神術の障壁が使えるみたいだし、それなら僕もヤれる・・・かも知れないなぁ」


「なっ……!」


 おぞましい言葉と共に、海栗人から発せられる魔力が格段に膨れ上がる。



「オケアノス王国の〈男爵〉、グリンだ。ふふふ、お姉さん達、みんな僕の物だ。う、嬉しいなぁ」


「ちっ……! とんだマセガキね!」


 戦闘が避けられないと悟ったロアンナは、素早く指示を出す。



「ミリアリア! あなたは奴を避けて一刻も早く「道」を通って、クィンダムに帰還する事を優先させなさい! 私達が隙を作るわ! ……いいわね、皆!?」

 

「なっ!? 何を馬鹿な! わ、私も戦いますっ!」


 案の定ミリアリアが喰ってかかる。だがロアンナは彼女の方を見ずに、海栗人――グリンを見据えたまま冷たく言った。



「〈貴族〉相手じゃ足手まといよ。あなたを守ってる余裕は多分ないわ」


「……!!」


 冷徹な事実を突きつけられて、ミリアリアの顔が青ざめる。そこにロアンナが畳みかける。



「もたもたしていたら「道」が閉じちゃうでしょ。誰かが行かなければならないのよ。一刻も早くシュンに神酒を届ける……。それが一番重要な役目でしょう!?」


「く……!」


 ミリアリアが歯ぎしりする。誰かが抜けるなら、最も戦力の劣る自分が抜けるのが一番合理的だ。それは頭では理解できる。彼女は自らの無力さを呪った。




 グリンから巨大な火球が飛んでくる。リズベットが前に進み出て、障壁を全開にする。


「行きなさい、ミリア! 私はあなたを信じます。必ず成し遂げてくれるとっ!」


「リズベット様……!」


 火球がリズベットの障壁に炸裂し、盛大な爆炎をまき散らす。一時的に視界が覆われる。



「さあ、今の内にっ!」

「く……くそぉっ!」



 意を決したミリアリアは「道」に向かって走り出す。だが「道」の入り口に差し掛かろうという時、目の前に巨大な影が現れる。


「行かせないよ?」

「ッ!?」


 グリンが、その鈍重そうな外見からは想像も出来ない程のスピードで前に回り込んだのだ。思わず硬直するミリアリア。グリンが棘だらけの腕を振りかぶった。やられるっ! とミリアリアがギュッと目を瞑る。だが……




 シュッ! と鋭い音と共に飛来した矢がグリンの腕に突き刺さる。ロアンナだ。


「はぁっ!!」


 グリンが一瞬怯んだ隙にクリスタが素早く追い縋って、棘の薄い部分を狙ってダガーを突き入れる。


「……!」

 グリンは素早く飛び退ると、魔法を発動させる。周囲に復数の水の塊が現れる。〈海洋種〉が得意とする水弾の魔法だ。合計5つの水弾が高速でクリスタに打ち込まれる。


「ふっ!」


 クリスタを庇うようにその前に躍り出た莱香が、障壁を張って水弾を正面から受け止める!



「ぐ……う……!」



 〈市民〉の魔法とは感じる衝撃が段違いだ。弾き飛ばされそうになるが、両足を踏ん張って堪える。その間にロアンナが次矢をグリンに向けて放つ。既に矢の軌道を見切ったのか、グリンは腕の棘で矢を弾いた。


 この間数秒。その数秒の内に体勢を立て直したミリアリアは、後ろを振り返る事なく「道」を真っ直ぐに駆け去っていった。後を追おうとするグリンに対して、再びクリスタが牽制の一撃を加える。



「うふふ、坊や。こんな美人が4人もいるのだから、付き合わないと損よ?」



 舌打ちしたグリンはミリアリアを追う事を諦め、改めて莱香達の方へ向き直る。時間稼ぎの牽制は成功した。ここからが本番だ。次は……自分達が生き残る為に全力を尽くさねばならない。

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