第51話 もう一人の転移者

 顔に、身体に、ねっとりと絡みつくような不快な臭気を感じた。服の中にまで侵入してくるその気色悪い感触に「彼女」は目を覚ました。


 いつの間にか気を失っていたらしい。寝覚めは最悪だ。



「あ……こ、ここは……どこ?」



 九条莱香らいかは、まだはっきりしない頭を振って意識を覚醒しようとする。辺りを見渡すと、全く見覚えのない屋外の風景だった。所々に草が生えた、荒野のような場所だ。ずっと後方には大きな渓谷が口を開けていた。

 ギラつくような日差しと、淀んだ空気によって、莱香の身体は既にじっとりと汗ばんでいた。



(あれ……? 私、どうしたんだっけ? 確か、あの倉庫で青白い光に包まれて、それで……)



 ぼんやりしていた頭に、急速に記憶が甦ってくる。



(そうだ……! 舜! 舜が生きている映像が流れ込んできて……!)



 その後意識が遠くなって、気が付いたらここで寝ていたという状況だ。




「……て言うか、ホントにここってどこなの?」




 あの舜の映像と関係がある場所なのだろうか。夜の倉庫跡で光に包まれたと思ったら、真昼の荒野に放り出されていたのだ。明らかに異常な状況だ。


(壮大なドッキリ……なんて事はあり得ない、わよね……)


 いくらなんでも規模が大きすぎる。しかも不謹慎だ。それに脳裏に流れ込んできた舜の映像の説明が付かない。


(も、もしかして、異世界転移ってやつ……?)


 ゴクッと、自分の喉が鳴るのが解った。実は先程からその可能性は、頭の片隅に浮かび続けていた。舜にしか教えていなかったが、彼女はいわゆるライトノベルと呼ばれる小説もよく読んでおり、こういった状況に対する心当たりはあったのだ。

 しかしまさか現実に、しかも自分の身に起こる事などあり得ない、と必死に否定する。


(でも……)


 一連の異常な出来事、そして今のこの状況から考えると、異世界転移という言葉は、実にしっくりと当てはまった。



「とりあえず……呼吸は出来てるわね。身体も普通に動くし、重力なんかも地球と同じみたい。それに、太陽もあるし……」



 そのお陰で大きな違和感もなく生存出来ている訳だが、同時に莱香がここを今一つ異世界だと確信出来ない理由でもあった。

 地球の、どこか莱香の知らない場所に過ぎないのではないか、という疑いが捨てきれない。尤も、気絶している間にどこか外国の荒野に1人放り出されたというのは、充分異常な状況ではあるのだが……。



「とりあえず、ここから移動した方が良さそうね……。日陰を探さないと……」



 照り付ける日差しは、容赦なく莱香から水分を奪っていく。日陰もそうだが、飲み水の確保の方がより重大だ。その事に思い至った時、莱香はゾッとした。

 周りは見渡す限りの荒野だ。水源らしきものは、少なくとも目視出来る範囲には見当たらなかった。


(え……まさか、これって、結構ヤバいんじゃ……?)


 この気候にこの地形。莱香は着ていた制服以外に何も持っていなかった。当然、水も食料も何もだ。このままでは何も解らない内に餓死……いや、その前に渇死する。


「う、嘘でしょ……!?」


 莱香の顔から血の気が引く。ここが異世界かどうかはとりあえず置いておく。まずは自分が生き延びる事が最優先だ。


 莱香は必死に辺りを見渡す。


(何か……何でもいいから……!)


 とりあえず切り立った崖になっている渓谷から離れる方向に歩いていく。しばらく歩いていると大きな岩が目に入った。都合よく下の部分が窪んで、日陰になっていた。


(とりあえずあそこへ……!)


 莱香は落ち着ける場所を求めて、何も考えずにその岩陰に転がり込む。そして彼女はそこでようやくこのような遭難時において、ライフラインの確保以外にも、懸念すべき重要事項があった事に思い至った。



「あ…………」



 呆然とした声を上げる莱香。遭難時のもう一つの重要事項。


 それは……「危険な現住生物」との遭遇。




 ――彼女の目の前、つまりその岩陰には「先客」がいた。




 それは「一見」サソリに似ていた。だが「それ」は莱香の知識にあるどんなサソリとも似ても似つかない生物であった。


 まず大きさの桁が違う。明らかに莱香以上の体長。尻尾の先まで少なく見積もっても3メートル近くありそうだ。まずその時点で、地球の生物学の常識からかけ離れた存在だ。更に巨大なハサミを備えた腕(前肢?)が4本あった。そして凶悪な毒針が突き出た尻尾も二股に分かれて2本になっていた。極めつけにその外殻は、まるで金属のような光沢を帯びた銀色であった。


 この生物との遭遇が、莱香にここが地球ではない異世界だと、これ以上ないくらいに教えてくれていた。


「な……何、これ……」


 現実離れした光景に、思わず呆然とした声をあげてしまう。だが呆けている場合ではなかった。その生物は明らかに莱香を認識して、こちらに向きを変えていた。


「……ッ!」

 巨体に似合わない素早い挙動に、莱香はゾッとする。実際に呆然としていた時間は一瞬だった。



(に、逃げないと……!)



 それは生存本能の為せる業か、異常な状況に遭遇しながらも思考放棄する事なく、咄嗟に逃走を選択した。


 だが……逃走と言う手段はベターではあっただろうが、果たしてベストであったのかどうか……。強肉食性の生物には、本能的に自分から逃げるものを追いかける習性がある。

 目の前のサソリの化け物も例外ではなく、逃げた事によって莱香を完全に獲物と認識したらしく、4本のハサミを振り上げながら猛烈な勢いで、莱香目掛けて走り出した。


「ひっ!?」


 不吉な気配に、逃げながらも後ろが気になって振り返った莱香は、化けサソリが意外な程のスピードで追ってくるのが目に入ってしまい、思わず情けない悲鳴が漏れ出る。


 3メートル超の巨体でありながら、サソリは6本の肢を巧みに使って、人間が全力で走るのと同じくらいの速さを維持していた。

 脇目も振らず一心不乱に走り続ける莱香だが、後ろから迫ってくる奇怪な足音が徐々に大きくなってきている気がして、生きた心地がしなくなる。そうでなくとも、あの化けサソリの持久力が莱香より上だったら、その時点で詰みだ。


 莱香は必死で走った。これまでの人生で、未だかつてこれ程必死に走った事はない。恐怖のあまり砕けそうになる腰を必死に繋ぎ止め、懸命に足を前に出し続ける。


 だが、やがて莱香のペースが落ち始める。照り付ける灼熱の日差し、不快な臭気、そして異常な出来事によって疲弊した精神などの要因が合わさって、予想以上に彼女の体力を奪っていたのである。

 それに伴って、後ろから迫ってくる死の足音はどんどん大きくなってくる。錯覚ではなく、確実に大きくなってきている。足音だけでなく、その気配まで感じ取れる程だ。



(わ、私死ぬの……? い、嫌だ……! 何で……こんな、訳の解らない状況で……! 嫌だ! 嫌だっ! 助けて……舜!)


 

 不思議な体験をし、もしかしたら幼馴染が生きているかも知れないという、淡い期待を抱いた。そしてやってきたこの地で、訳の解らない怪物に襲われて、殺されかけている。


 疲労と恐怖と……そして絶望から莱香は、今度こそ守ると誓った幼馴染に、心の底から助けを求めていた。本人もその事に気付いていない、無意識の、そして心からの叫びであった。


 ――そして、その願いは聞き届けられた。ただし……




 ――ゴオォォォォッ!!




 何かが巨大なものが飛んで来るような轟音。そして爆発音。莱香もこれまでの人生で物が爆発する音を直接聞いた事は無かったが、映画やニュース映像などで間接的には何度も聞いている。


 耳をつんざくような爆音と、そして熱風、衝撃。それらが莱香のすぐ後ろから発生し、その衝撃で思わず前のめりに吹き飛ぶ。


「きゃあああっ!」


 身体が浮き上がる程の衝撃で吹き飛ぶなどという経験も、勿論初めての事であった。


「あうっ!」


 衝撃で倒れ伏し、地面に身体を打ち付ける莱香。咄嗟に受身はとったものの、不自然な体勢だった事もあり、そのままうつ伏せに倒れ込んでしまう。


 上体だけを起こし後方を振り返ると、――燃え盛る火柱が立ち昇っていた。銀サソリに直撃したようで、死んではいないものの、明らかに怯んだサソリは、大慌てで明後日の方向へと逃げていった。



(な、何? 何が起こったの……? 今の、この炎は……爆発は一体……!?)



 何が起きたのか解らず呆然とする莱香。サソリが逃げた事で、とりあえず自分は助かったらしい、という事が徐々に実感出来てきた。


 だがそれと同時に、こちらへ向かってくる一団の姿が目に入った。

 

 それは……「人間」のように見えた。


(ひ、人だ……! この人達が、あの化け物を追い払ってくれたのかしら? でも……何か、あれは……被り物……?)


 やがてその一団が、莱香に細部まで視認できる距離まで近付いてくる。


(え、嘘……。あれ、被り物じゃない……? い、異世界人って奴かしら? ど、どうしよう? 言葉とか通じるのかな?)


 莱香にもその「人間」達が、明らかに普通の人間でない事が解った。


 まるで鼠や兎、犬などと言った動物と、人間が掛け合わさったような姿……獣人とでも形容されるような容姿。



(獣人と言っても、いわゆるネコミミ獣人とかみたいのじゃないんだ。何か……リアル系っていうのか、あんまりメルヘンな感じじゃないわね……)



 普通なら恐れ慄く所だが、直前に遭遇した化けサソリのインパクトが非常に強く、またそれから助けてくれたという意識がある為、莱香の心にはそれ程怖れの感情は無かった。またライトノベル等で異世界転移物を結構読んでいた事も、彼らの容姿に対する抵抗感を弱めていた。


 それどころか莱香は、とりあえず助かったという安堵感も手伝って、むしろSF映画で宇宙人と初めてコンタクトを取る人間のように、わくわくするような高揚した気持ちを押さえる事が出来なかった。


 だが……彼女はここでも一つ、重要事項を失念していた。いや、「助けられた」事に対する安堵感によって失念させられた、と言うべきか。






 莱香は自分を取り囲むように並んだ獣人達に、身振り手振りを交えて話し掛けようとする。



「あ、あの……こんにちは! え、えーと……ハ、ハロー? わ、私の言ってる事解りますか?」



 すると獣人達は首を傾げて、互いに何かを喋っていた。



「#$$$%、&&##$%?」

「%##$! &&%$””#!!」



 言葉はあるようだが、何を言ってるのかサッパリであった。全く馴染みのない未知の言語だ。


(うわ……全然解かんない。ど、どうしよう? ううー……。小説みたいに都合よく言葉が解ったりとかは無いみたいね。 と、とりあえず、身振り手振りによるコミュニケーションしかないかな……?)


 そう思って莱香が立ち上がろうとした時、「異変」は起こった。



「$$%&! %%###$!」

「え!? な、何っ!?」



 獣人達が何か叫ぶと、莱香の腕を乱暴に掴んできた。2人の獣人に左右から腕を掴まれた莱香は驚いて振り払おうとするが、物凄い力で全く振り解けなかった。


「い、痛っ! は、離して、ちょっとっ!?」


 抵抗する暇もあればこそ――莱香の正面にいた鼠男が、彼女の制服に手を掛ける。そして、どれ程の怪力なのか制服をスカートごと、一気に引き千切った!


 露わになる莱香の下着姿。周りの獣人達が一斉に囃し立てるような声を上げる。



(え……な、何コレ……? 何が起きてるの……? 私、何で……こんな)



 唖然として周りを見渡すと、どの獣人も欲望に濁った目をしている事が解った。言葉は通じないし、獣の顔だが、何故かそれだけはハッキリと解った。


「ひぃっ!?」 


 莱香の口から、恐怖に引き攣った短い悲鳴が漏れ出る。それを聞いた獣人達は増々興奮した様子になる。





 ――彼女が失念していた重要事項。


 そう、「宇宙人」は必ずしも友好的な存在ばかりとは限らない、と言う事。

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