Baby’s ㏌ black

冷門 風之助 

VOL.1

 霊園や墓地の空気と言うのは、他と比べて何だか清浄な感じがする。


 殊にそれが朝早く、午前七時ともなれば猶更だ。


 俺は白い息を吐き、正面入り口の向かい側の道路を挟んだ反対側から、まだ閉まっている門をじっと眺めていた。


 開門になるのは午前九時だという。


 今朝、気温を確認したら摂氏1℃となっていた。マイナスにならなかっただけましとしよう。


 確かに寒いのは苦手だが、これでも空挺レンジャーだ。もっと寒いときに一晩中作戦行動のために動き回ったことを思えば、こんなの屁でもない。


 ポケットに手を突っ込み、小型のペットボトルから、自販機で買ってきたホットコーヒーを飲む。

 

 すると、俺の視線の先に、ある人物が入った。


 円盤のような縁の付いた帽子にネット。足首まで覆う黒いコート。


 間違いない、

『黒い貴婦人』である。


『黒い貴婦人って、聞いたことがあります?』彼女は事務所オフィスに入ってくると、俺が勧めたソファに腰を下ろし、前日に買ってきたばかりのブルーマウンテンを一口だけすすると、そう問いかけた。


『一応知ってはいますが・・・・』少し間を置いて、俺もブルマンを啜り答えた。


『黒い貴婦人』というのは、かつて銀幕を賑わした美男俳優の命日になると、毎年決まった時間に墓を訪れ、花と線香を手向けて帰ってゆく女性のことで、上から下まで黒い衣装で包んでいるため、この呼び名がある。


 その有名俳優というのは、倉田洋一くらたよういち。今から六十年ほど前、

銀幕上で女性たちのハートをわしづかみにした美男俳優だった。


 デビューは先の大戦が終結して間もなくのことで、娯楽に飢えていた若い女性たちの間で、その人気は瞬く間に広がった。


 戦前に銀幕を彩ったあの長谷川一夫の再来などと言われ、彼の映画を観に訪れる女性達は、老いも若きも全員化粧に晴れ着で着飾って来るという、そこまでそっくりだったという。


 依頼人はその倉田洋一の一粒種、名前を篠田るみ子といった。


 るみ子は現在六十五歳、服装も顔立ちも地味な、どこにでもいるタイプの女性である。

 子供は三人で既に独立。夫は某私立大学の教授を最近まで勤めていて、現在は退職し、夫婦だけで神奈川県の茅ケ崎に住んでいる。


 ただ、彼女は倉田洋一が亡くなる直前に生まれたので、父親の記憶は殆どないという。


『父はそういう仕事柄、自分が結婚していることを隠していました。いえ、隠しているように命じられたといった方が正確でしょうか。何しろ当時の芸能界は今よりももっとトップ俳優のスキャンダルに厳しい時代でしたから。私の母は鎌倉にあった老舗の料理旅館の娘だったんですけど、或る時父が映画のロケに来て、そこで知り合って結婚しました。』


 親戚一同は誰も反対はしなかったが、映画会社が許さなかった。そこで二人は入籍をしても同居は出来ず、言ってみれば夫が妻の所に通ってくる、『別居結婚』の状態が長く続いたという。


『父はとても誠実で優しい人だったと母は言っていました。母が妊娠したことを告げた時、直ぐに世間に公表して、同居することを考えたらしいのですが、それでも会社からの承諾が得られず、間もなく私が生まれました。そして私が一歳になった時、父は・・・・』そこで彼女は言葉を切り、暫く俯いた。


 倉田洋一は、映画の撮影を終えて、鎌倉にやってくる途中、運転していた乗用車が横転して、そのまま帰らぬ人になったという。


 亡くなった時、彼はちょうど三十一歳になったばかり、脂の乗り切った、まだこれからという時の突然の死だったので、衝撃を持って世間に迎えられた。


『父は孤独でした。軍人だった義父は戦死、義母は父が二十歳になる前に亡くなりましたので、いわば天涯孤独の身の上だったと聞いています。だから私以外身内らしい身内はいない筈なのですが』


 彼女はハンカチを目から外し、俺の方を見て言った。



 

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