春先の大掃除

1.ギターケースを持った女

常名志希は席を立つと、自分の横に立てかけていた重たいギターケースを背負った。

普段から受けている必修科目の講義が行われていた部屋には、彼女の他にもう一人、男が居たが、彼は机に突っ伏して吐息を立てている。


「……」


少しだけ離れた席に居た男の方へと歩み寄った常名は、そっと彼の首筋にシャープペンシルの先端を挿し込んだ。


「わ!」


眠っていた男は静電気を受けた時のような驚き様を見せて飛び上がると、傍に居る地味なセーターを着た女に気づいて顔を向けた。


「静電気かな。ゴメンね。これ、君が落としたプリントと、もう消えた来週のテスト範囲」


彼女は淡々とした口調でそう言って、講義で配られたプリントとメモを渡す。

それ以降は、何も喋ることもなく、手に持っていたコートを羽織って男から離れていった。


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常名は大学を出ると、そのまま狭い路地に入っていった。

目的地は、中心部から程近い路地にある立体駐車場。

彼女はその中に入っていき、眠そうな係員に駐車券と、クレジットカードを手渡した。


係員は券とカードを受け取って、カードを機械に通すと、それを常名に返す。

彼女はカードを財布に仕舞うと、車を押し込んだシャッターの奥…たった今音を立てて動き始めた場所に目を向けた。


シャッターの上に付いた回転灯が光る。

やがてシャッターの奥からは物音がしなくなり、代わりにシャッターがゆっくりと上がっていった。


係員が出てきた車を見て思わず声を上げたが、常名は気にする素振りも見せずにシャッターの奥へと入っていき、自分の車のハッチバックを開ける。

重たいギターケースを中に仕舞いこんで、ハッチを閉めると、彼女は運転席のドアを開けて、車に乗り込んだ。


煙草を一本咥えて、火を付ける。

それから、エンジンを掛けると、慣れた手つきでギアをバックに入れて車を立体駐車場の回転テーブルに載せた。

窓を少しだけ開けて煙を逃がしている間に、ターンテーブルがゆっくりと回転する。

ターンテーブルが回転し終えると、彼女はギアをローに入れて車を発進させた。


車は直ぐに札幌の街中に紛れ込んでいく。

令和の世になった中で、常名は少々くたびれて…助手席側のドアが凹んだ白い昭和のスポーツカーを転がしていた。


信号待ちで横に並んだ軽自動車と比べても、小さく見える。

常名は物珍しそうな顔で彼女の車に目を向けた軽自動車の男に気を向けることもなく、じっと信号を見つめ続けた。


常名はそのまま、3日に1回は訪れるスナックまで車を走らせた。

時間はまだお昼時。スナックが開いている時間では無かったが、今から向かうスナックは、マスターの趣味でランチもやっていたから、常名はそれを目当てにしていた。


中心部から少し外れた、背の低いビルが立ち並ぶ一角。

幹線道路から路地に入ったところにある、古いビルの前に常名は車を止める。

そのビルの1階には何時も常名が入り浸るスナックがあり、彼女はスナック専用の狭い出入り口の扉を開けて中に入っていった。


「あら、志希ちゃん。いらっしゃい」

「こんにちわ。午後から何も無いし、来ちゃった」


入ってすぐ、昼は必ず店に出ている女…マスターの奥さんが常名を見るなり笑顔を見せて出迎える。

常名も笑みを浮かべて答えると、ほぼ満席の店内を見回して、周囲に人の居なさそうな1人席に付いた。


「マスターは?」

「中でヒーヒー言ってるよ」

「そ、昼時だもんね…でさ、マスターにこれだけ渡しておいてくれます?」


常名はお冷を持ってきた女に封筒を手渡した。


「これは…?」


糊で封を閉じられたそれを手に取った女は少しだけ首を傾げる。

見ると、その封筒には常名が通う大学の名前が印刷されていた。


「ほら、大学に入る時、保証人になってくれたでしょ?その書類です」


常名が説明すると、女は、ああ…と言って封筒をエプロンに仕舞った。


「注文は?」

「ハンバーグカレー。食後にブレンドコーヒーで」


常名は注文を告げて、一人になる。

薄暗い店内の隅…一番暗い席にポツリと座り、コートのポケットから取り出したスマホを眺め始めた。


時間つぶしに、ニュースサイトを見ていると、少し時間が経った後、アプリからの通知が届いた。

彼女は直ぐにその通知をタップしてアプリを開く。


"確認できた"


仕事中であるはずのマスターからの通知だった。

常名は少し驚いたが、すぐ直後に、トレーに料理を載せたマスターが席までやってきたのを見て納得する。


「お待たせ」


そう言ってテーブルにトレーを置いたマスターは、徐にエプロンのポケットから封筒と手書きのメモを取り出してテーブルに置く。


「あと少し、頼むな」


誰にも聞こえなさそうな小さな声でそう言うと、マスターはそのまま席から離れていく。

封筒をコートの内ポケットに入れて、メモを見た女は、小さく鼻を鳴らした。


"あれはお前の大学専門の'ブローカー'だった。言ってある通り、あと2人。根を張っているから引っこ抜け"


走り書きにもかかわらず、読みやすい字で書かれたメモを呼んだ彼女は、メモをクシャっと握りつぶしてコートのポケットに入れる。

見ていたスマホもポケットに仕舞いこんだ女は、テーブルに置かれた料理に目を向けた。

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