5 リエとネメア-3-

「ありがとう。今日は久しぶりに話せて楽しかったわ」

 1時間ほどして、2人は店を出た。

「あたしもよ。こんなに話したのはいつ以来かしら」

「そう? 仕事柄、いろんな人と付き合いがあるって言ってたじゃない」

「あまり会話らしい会話はしないわね。仕事上、しゃべっちゃいけないことも多いし」

「そういうものなのね」

 住む世界がちがえば、環境もがらりと変わるらしい。

 リエは自分が存外、狭い世界で生きていることを思い知った。

「あ、そうだ。あたしの連絡先、あんたに教えておくわ」

 ネメアはポケットから名刺を取り出した。

「ええ、ありがとう。ああ、ごめんなさい、私は――」

 あまり居場所を知られたくないリエはそれをどう伝えようか迷ったが、

「分かってる。事情があるんでしょ?」

 彼女は口調からすぐに察した。

「本当にごめんなさい」

「いいっていいって。誰だってそういうこと、ひとつやふたつはあるわよ」

 ボディガードという仕事は常に隠し事がつきまとう。

 友人に所在を秘密にされたところで彼女は気にもならなかった。

「それから――」

 思い出したようにネメアが胸ポケットから何かを取り出し、リエに握らせた。

「これは……ペン……?」

「――に似せた護身用具。キャップは付けたまま使うの。思いっきり叩きつければ中の刃が飛び出す仕組みよ」

 見た目は事務用のそれと変わりがない。

 丁寧に実在する文具メーカのロゴやラベルまで再現されている。

「ずいぶんと物騒な代物ね。でもどうして私に?」

 ネメアは落魄した様子で言った。

「この仕事をして改めて分かったの。町には危険が多いわ。治安もいいとは言えない。あんたみたいな細い子なんて恰好の標的よ」

「そうかしら? 今まで襲われたことなんて一度もないけど」

「防犯意識が低いわね。取り敢えず持っておきなさい。いざという時のためよ。まあ、使わずにすむのが一番だけれどね」

「え、ええ、じゃあせっかくだから……」

 彼女はそれをバッグにしまいかけたが、護身具ならすぐに使えるようにしておかなければ意味がないと考え、内ポケットに差し込んだ。

「この次は私がおごるわ」

 何かと世話になったリエは、ご馳走することで貸し借りを清算しようと考えた。

「いいね。楽しみにしてるよ」


 これから仕事だというネメアと別れ、リエは町をぶらついた。

 特に目的はない。

 適当に歩き回り、気に入ったものがあれば買う。

 彼女も年頃だから、人並みにおしゃれには興味があった。

 工業が盛んな町だから周辺には服飾関係の店が多い。

 個性的な職人も多く、親しくなれば特注も快く引き受けてくれる。

 陳列されたアクセサリーを手に取って眺めていた時だった。

「さあ、祈りましょう! 私たちの輝かしい明日のために!」

 どこかでそんな声がした。

 リエは思わず振り返った。

 通りを歩いていた人たちも、何事かと声のしたほうを見やる。

 50人ほどの集団が近づいてくる。

 服装はさまざまだが、全員が首から同じペンダントをぶら下げていた。

「クジラ様は信じる者すべてを等しく救ってくださいます!」

「クジラ様は信じる者すべてを等しく救ってくださいます!」

 先頭を歩く女が叫ぶと、後ろに続く者たちが同じ文言を繰り返した。

 どこにでもあるような怪しげな宗教団体だ。

 どうやらこの近くが集会場になっているらしい。

 あの手合いには関わらないのが賢明だ。

 熱心な信者は手当たり次第に勧誘し、入信者を増やそうとする。

 それが徳を積むことになり、クジラに近づくための道だと教え込まれているようだ。

(ふざけてるわ)

 彼女は憤りを感じた。

 救われているのはクジラに選ばれた、ほんのわずかな子どもだけではないか。

 地上では老若男女の区別なく悪環境に苛まれているというのに、何が救いだというのか。

 聞こえの良い言葉で人心を操り、教義で喜捨を強いるようなあの胡散臭い団体が、彼女は大嫌いだった。

 声を聞くのも不愉快だったのでその場を立ち去ろうとした彼女だったが、

「あれは…………」

 一団の中に見知った顔を見つけ足を止めた。

 短剣を右手に持ち、周りに合わせて復唱している男。

 コルドーだった。

(どうして彼があそこに……?)

 あの施設の関係者は多かれ少なかれ、政府やクジラと距離を置きたがっている者ばかりだ。

 当然、彼もそうだと思っていたリエはワケが分からなかった。

「私たちの祈りはついに通じ、偉大なるクジラ様は私たちの声に応えてくださいます!」

 普段なら無視するところだったが、コルドーがいたこともあり、リエはしばらく演説を聞くことにした。

「新たな時代の訪れです! 私たちは来たるその時のために備えなければなりません!」

 通り過ぎる人もあったが、彼女のように足を止めて聴き入っている者も多かった。

 もしかしたら教団が雇った仕込みかもしれない、とリエは思った。

 教祖や教団の権威付けのために演出するのは連中の常套手段だ。

 だが今日は様子が少し異なっていた。

 それは集まった聴衆の多さのせいでもあるが、大きなちがいは演説の内容だった。

 いつもなら、祈りましょう、信じましょう、とこちらに行動を呼びかけるだけなのだが、この演説には明らかな進展があった。

 こうした布教活動には広報担当が出張るものだが、幹部らしき人物もいる。

「私たちは教祖様のお告げを広めるためにやってきたのです!」

 女が言うと辺りは騒然となった。

 いつもの文句とはちがう、と誰もが思ったようだ。

「49日後の夜、クジラ様は私たちに大いなる叡智と富、そして健全なる肉体を授けてくださるでしょう!」

 リエは耳を疑った。

 宗教というのは抽象的なことを言って結末をぼかすのが鉄則だ。

 お告げだからといって具体的な日時を宣言してしまうなんて、あまりに馬鹿げている。

 予知を広めたものの、何も起こらなかった――では教団の権威は地に落ちてしまう。

(それとも何かが起こるのではなくて、何かを起こすつもりなのかしら?)

 それなら納得はいく。

 なかなか信者が増えないことに業を煮やした教祖が、革命でも企んでいるのかもしれない。

 それをクジラと関連付けて信憑性を持たせようとしているにちがいない。

「私には見えるのです! クジラ様から放たれた光が地上に降り注ぎ、私たちを遍く照らしだすのです!」

 幹部と思しき人物が短剣を掲げて叫ぶ。

 ローブをまとい、頭巾を目深に被って顔が見えないようにしているのは神秘性を出すためだろう。

 ただその大袈裟な衣装と自信に満ちた語り口調は、耳目を集めるには充分だった。

(白々しい……どうせどこかに火を放ってクジラの仕業に仕立て上げるつもりなのよ)

 いっそ種明かしをしてやろうかとリエは思った。

 宗教もお告げもクジラも信じない。

 実際に目に見えるもの、手に触れることのできるものだけが真実なのだ。

 という彼女の信念に反して、聴衆は増える一方だった。

 人だかりのせいでコルドーの姿は見えなくなっていた。

「くだらないわね、時間の無駄だったわ……」

 不快に思ったリエは買い物を再開する気にもならず、通りを後にした。

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