5 リエとネメア-2-

 2人は裏通りにある小さな店に入った。

 看板もなければ品書きもない、言われなければ倉庫にしか見えないさびれた場所だ。

「マスター、久しぶり! クリアウォーター2人分お願い」

「はいよ。すぐに持っていくからね」

 白髪混じりの店主がにこやかに答える。

 客は2人の他には誰もいないようだ。

「ここの水は旨いんだ。一度飲んだらやめられないよ」

「よく知ってるのね」

「仕事柄ね。いろんなところに出入りするから詳しくなっちゃった」

 快活に笑うネメアは充実した生活を送っているようだ。

 自宅と作業場の往復を繰り返す自分とはちがうな、とリエは思った。

「それにしてもずいぶんたくましくなったものね」

 改めて見てみると、彼女は精悍という言葉がよく似合う。

 力を入れていなくても衣服越しに筋肉があるのが分かる。

 日頃から相当な鍛錬を積んでいるのだろう。

「あたしも最初はびっくりよ。こんなことになるなんて考えてもみなかったわ」

「キッカケは何なの?」

 何気ない質問のつもりだったが、ネメアの表情がふっと曇った。

 まずいことだったのだろうか。

「ああ、別に言いたくないことなら――」

 リエは取り繕うように言った。

「はいよ、お待たせ」

 2人分の水が運ばれてくる。

 リエは店主に感謝した。

「子どもを、ね――助けたかったのよ」

 ネメアは寂しげな顔で話し始めた。

「学校を辞めたあと、あちこちをさまよい歩いていた時期があったのよ。どうになるワケでもないけど、じっとしているのが不安でね。

そうしたらガレキの山の向こうに女の子がいたの。5歳くらいかな。大きなかごを背負っていて、その中にはいろんなものが入ってたわ」

 ネメアは水を一口飲んだ。

「荷物が重かったのか、足取りは危なっかしかった。足元も悪かったからね。何度も転びそうになりながら、その子は歩いていたわ」

「ええ……」

「どこに隠れていたのか突然、賊が現れたの。奴らは女の子を襲ったわ。手にした棒で頭を殴ったの。女の子は抵抗したわ。

だけど賊はひとりじゃなかった。彼女はかごを奪われまいと必死にしがみついた。でもとうとう力尽きて――」

 動かなくなった女の子を残し、賊は荷物を奪い去ってしまったという。

 リエは顔をしかめた。

 珍しい話ではない。

 この町ではよくあることだ。

「それを見ていたのに、あたしは何もできなかった。助けに行くことも、助けを呼ぶことも……。

あたしがいた場所はあいつらからは死角だったから――このまま隠れていればやり過ごせるって思ったあたしは――」

 その後は聞くまでもなかった。

 女の子はそのまま亡くなった。

 彼女の家は裕福ではなく、彼女の亡骸は近くの山に葬られたという。

「そのことが心の中にずっと残っているの。あたしにもっと力があって、勇気があって、賊を追い払えるくらい強かったら――。

あの子を助けられた。あの子は死なずにすんだ。あの子の家族も悲しい想いをしなくてすんだ――そう思っても……遅すぎるんだけどね」

 ネメアはぐっと拳を握りしめた。

「血を見るのは今でも怖いのよ。目を背けたくなるくらいにね。だからあたしは強くなることにしたの。

そうすれば誰にも血を流させずにすむもの。もちろん、悪いやつらには容赦はしないけどね」

 そう言って強がりの笑顔を浮かべる。

 泣き虫ネメアの姿はそこにはなかった。

 後悔を引きずりながらもそれを糧に前に進もうとする彼女に、リエはかける言葉が見つからなかった。

 己の不甲斐なさをごまかすように彼女は水を飲んだ。

「そういう話を聞いて思うのは――どうして世の中はこう不公平なのか、ってことよね」

 リエはつまらなさそうに言う。

「クジラに選ばれて幸せに暮らせる子どももいるのに、どうしてその子は選ばれなかったのかしらね」

 ネメアは何も言えなかった。

 言いようがなかった。

 選ばれないのが普通なのだ。

 10万人に1人とも、100万人に1人とも言われる極めて低い確率で、クジラは資質を持つ子を選び出す。

 それは生涯の幸福を約束されたも同じだ。

 薄暗い地上で貧困にあえぎ、食べ物も水も満足に得られない中を必死に生きていく必要はない。

 恵みの雨にすがり、死を覚悟で鉄くずや果実の種を集め回る必要もない。

 そんな世の中で、クジラから流れ落ちるあれらを”恵み”と呼ぶことを、リエは吐き気がするほど嫌っていた。

 恩恵というのなら。

 慈悲というのなら。

 今すぐこの疲弊した世界をなくしてほしい、と思う。

 ほんのひとつまみの人間だけを楽園に住まわせるだけで、”クジラ様”と崇め奉る神経が彼女には理解できなかった。

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