心模様はambivalence
マスカレード
第1話 経済・経営トライアルゼミ
私には苦手な人間が二人いる。
この4月に有名私大に無事合格し、経済・経営トライアルゼミをとった星野
経済・経営トライアルゼミは、充実した内容面や、就職率の高さから人気があり、抽選でしか入れない。朱莉は運よく入れたものの、1年生から4年生までが協力して、作業する機会があることに驚かされた。
この私大は学生企業家に寛大で、結構な額の助成金を用意するため、アイディアや技術を絞って起業家をめざす生徒たちが多い。
恵まれた土壌で未来を開拓しようとする学生企業家と組んで、経営戦略や運営、収支管理などをバックアップするという名目で、実践しながら経営者になるためのノウハウを学び、経済に強くなるのがこのゼミの趣旨だ。
今日はその1年生から4年生が集まって分担作業をする日だ。朱莉はまだ入学して1か月半しか経っていないので、簡単な会計処理を任されている。
学生起業家と言ってもピンキリなのだが、今日扱っているのは、かなり本格的な起業家のものだ。留学生活でいち早くグルテンフリーを知った女子大生が、もともと好きだったお菓子作りと結びつけて、スイーツの店を企画したのが始まりだった。
見た目や味もさることながら、グルテンの危険性を知らせ、安全なものを提供しようとする真摯な取り組みは、学生たちの口コミで爆発的に広がり、小さな店ながら4店舗ほどを出すまでになった。
今日はその4店舗分の5月分の15日までの会計をしているのだが、パソコンのデーターを見ながら右手で絶えず電卓を叩いついてては合計を出し、チェックする様が、自分でも板についてきたと思う。
もちろん自動で計算させれば早いのだが、営業日数の違いや仕入れ価格などの変動は、学生が作ったソフトで全てを賄うには限界があり、いちいち手入力の修正を迫られる。絶対に電卓での確認が必要になるのだ。
今ではただの数字だと割り切って素早く計算できるが、4月に初めて電卓を入れた時の驚きは今でもはっきりと覚えている。
1年生は、会計処理からスタートと言われて、1店舗分の計算を任されたのだが、朱莉がこれまで手にしたことのない金額が並んでいて、計算違いではないのだろうかと、何度も電卓を入れてしまったほどだった。
朱莉に引き継ぎをしてくれた2年生の先輩は、資格の勉強のためにゼミを変えるとかで、引継ぎ内容を簡単に書いたメモを渡し、レクチャーを数回してくれただけで、このゼミからいなくなってしまった。
仕方がないので、どうしても分からない時は、周囲の先輩に聞くようにするが、普段は邪魔をしないように、もう一人一緒に引継ぎを受けた一年生の木下
できたものは、2年生のチェックを受けてから、実際にゼミ全体を管理している3年生へと回っていくわけだが、内容が至らない時は、運営戦略やら、収支決算やらに忙しいトップクラスの学生が、3階の会議室から2階のこの多目的会議室に苦情を言いに来る時がある。先輩たちはそれを皮肉って降臨と呼んでいる。
今まさに、降臨した目の前の3年生は、
傍から見るにはハイスペックでいい男なのだが、仕事のことで彼がやってくると、わっ、また何かやったんだろうかと怯えなければならないし、自分の頭の悪さを露見するようで落ち着かない。
「これをやり直してくれ。J〇Bカードのキックバックの利率が変わったのに、4月分の利益が前の利率で計上されている」
パサッと机に置かれた計算シートを見ると、カード別に仕切られた枠の上部に、記載されたカード名とともに書いてある利率が、J〇Bカードのところだけ赤字で訂正してある。
朱莉は、キックバックの変更を聞いていないことにショックを受けたが、ただでさえ、そこにいるだけで圧迫感を与える、長身でがたいの良い甲斐が、腰掛けたままの朱莉を厳しい表情で見下ろしてくるので、緊張で上手く口がきけず、その場を早く切り抜けたくなった。
「すみません。すぐに計算し直します」
引き継いでいないと言えば、ゼミを変わった先任者を暗に責めることになる。二階の多目的会議室に集まる会計役は、普段は女ばかりなので、先任者の友人・知人がいる前で落ち度をばらせば、その先の居心地は目に見えて悪くなるだろう。
「そういえば星野さんは、ゼミに入ってまだ2か月経っていなかったよな?きちんと引き継ぎをしてもらったのかい?」
うっ、そこは聞かないで!と朱莉が答えに窮した時、横から代わりに答えが返った。
「甲斐さん、私、朱莉と一緒に、ゼミを変わられた矢野さんから、引き継ぎを受けたのですが、その利率が変わったことは聞いていませんでした」
う~~っ、だから、それは言っちゃだめだって。ほら、矢野さんの知り合いたちが睨んでる。
そう、朱莉が苦手なもう一人は、同級生の
可愛い顔なのに、盛り盛りにした睫毛と濃いアイライナーが素地を台無しにしている。イケイケ女路線を狙っているのかと思うと、いかにも男ウケしそうなかわいい仕草をするので、慣れないうちは戸惑ってしまう。
先ほどのように、周囲を顧みず、はっきりと自分の意見を述べてしまうところがあるため、先輩たちの機嫌を損ねてしまうことが多く、要領よく生きたいタイプからは敬遠される。
だが、慣れてくると、好き嫌いは別にして、裏表がない人間だということは分かる。
朱莉は自分も欠点だらけの人間だと分かっているので、先ほどのような場合でも、同級生にあからさまな態度をとることなく、表面上は取り繕って、何事も無かったように誰とでも同じ距離で接する。
そのせいか、優菜は朱莉にくっついてくるのだ。
ふと低い声が頭の上から降って来て、朱莉の思考が中断された。
「そうか、だったら、どうして言わないんだ?自分の落ち度になるぞ。それと木下さん、ここに居る間は、社会にでるための訓練だと思って、仕事中は同級生でも苗字で呼ぶように」
首をすくめてやりすごそうとした朱莉を注意して、すぐ訂正したものを出すように指示すると、甲斐は2年生にも、チェック漏れがないように気をつけてくれと言い残し、3階のフロアの会議室へと戻っていった。
「良かったね?朱莉。自分のせいにされなくて」
周囲の冷えた視線の中、にっこり笑った優菜に、引きつった笑いを浮かべて礼を言うと、朱莉はさっそく計算に取り掛かった。
「鈴木先輩、チェックお願いします」
朱莉が計算し直した月間売り上げ表を持っていき、2年生の鈴木京華に渡すと、甲斐に言われたこともあり、鈴木は指の残像が残るのではないかという速さで電卓を叩いて、あっという間にオッケーと返してきた。
「ありがとうございます」
丁寧に頭を下げる朱莉を見て、鈴木が気まずそうに微笑んだ。
「さっきはごめんね。あの利率のことは聞いたはずなのに、星野さんにも伝わってると思っていたから、完全に私のチェック漏れだわ。ヤノッチもあんな簡単な引継ぎで、入ったばかりのあなたに責任を負わせちゃったから、腹が立っただろうと思うけれど、許してやって」
矢野の顔を潰したから、何かを言われるのではと構えていただけに、予想外の謝罪をされて、朱莉は慌てて首を振った。
「いえ、チェックありがとうございました。先輩の電卓さばは、指先が見えないくらいに速くて驚きました。私も早くそうなりたいです」
「ありがとう。私は金融関係の就職を目指しているの。姉が大手銀行に就職したのだけれど、新入社員の時にテストがあって、1問が10行あって、桁数の多い計算を、10分間で40問近く正解しないといけないんですって。これはいい予行練習になるわ。星野さんは金融関係に就職を希望しているの?」
「いえ、まだ何も考えていません。何が自分に合うか分からないから、色々挑戦してみたいです」
「そっか。頑張って。あっ、引き留めてごめん。早く甲斐さんにこれ持っていって。計算が遅いと思われるといけないから」
朱莉は、頭を下げると、会議室のドアに向かおうとした。すると、優菜がちゃっかり横に並んで私も行くという。仕事は大丈夫かと聞くと、ノルマはこなしたからと言って、朱莉のためにドアを開けた。
「先輩、朱莉が怒られないように、私がついて行きます。私の計算表は未チェックのかごに入れましたので、チェックよろしくお願いいたします」
優菜はぺこりと頭を下げると、朱莉の背中を押して廊下へと出た。
「優菜、これ以上勝手なことして、先輩たちの機嫌を損ねない方がいいよ」
ことなかれ主義の朱莉も、さすがに心配になって優菜に注意をすると、優菜はけろりとして言い返す。
「私の性格で金融関係は無理だから、早々に向かないと判断してもらって、他のところに回してもらった方がいいの。授業の一環で、実際の学生企業に携われるなら、色々見聞きして損はないもの」
「そのバイタリティーが羨ましいわ。でも、甲斐先輩に会うと思うとちょっと緊張するから、今回はついてきてもらうとありがたい。それに、3階に行けば水谷先輩にも会えるかもしれないものね?」
「むふふ。ばれちゃった? 水谷先輩はかっこいいよね~。細マッチョで、顔も塩系で、もろタイプ!あの爽やかさがたまらない。笑顔なんて草原にわたる風って感じ。見るとそよそよ心が揺れちゃうのよね」
どんなんだと朱莉は思ったが、決して顔に出さず、聞き役に徹する。こんな時に反論すれば、激化した誇大妄想を叩きこまれることになるからだ。
3階につくまで、優菜から水谷直樹の話をあ~だ、こ~だと吹き込まれ、その押しの強さに辟易しかけた時、会議室から水谷が出て来た。
そのタイミングで優菜に腕をぎゅっと捕まれ、2重に驚いた朱莉は心臓が止まりそうになって、ひっとしゃくりあげた。
その声に気づいた水谷が、振り向いて朱莉と優菜を見た途端、見慣れない顔を見たためか、おやっと驚いた顔を見せるが、思い出したように一瞬で笑顔になる。
優菜から聞いていた、草原にそよぐ風のような爽やかな笑顔というのがどんなものか分かり、朱莉は妙に納得してしまった。
隣を見ると、優菜が頬を染めながら俯いている。あれれ?さっきまでの勢いはどうしたと朱莉が不思議に思った時、水谷が声をかけてきた。
「一年の星野朱莉さんと木下優菜さんだよね?2年生の奴らがかわいい新入生が入ってきたと騒いでいたから、ゼミの生徒写真を見せてもらった。僕は3年生の水谷直樹です。一応僕も隠れファンだから、よろしくね」
優菜がつかんだままの朱莉の腕に、ぎゅっと力を籠めるので、朱莉はまた声をあげそうになった。もう、世話が焼けるんだからと思いながら、自分の腕を引き抜くふりをして、優菜を前に押しやると、優菜がさきほどまでの恥じらいはどこへやったと思うほど、積極的に話し始めた。
「あの、木下優菜と申します。お世辞でも尊敬する水谷先輩からファンだと言ってもらえて嬉しいです。私も水谷先輩の大ファンなので、両想いで嬉しいです」
おいっ!と思わず突っ込みを入れたくなったけれど、水谷先輩が微妙に困った顔をして、こちらを見てきたので、それどころじゃなくなった。あまり押しすぎると、引かれてしまうのが人間の心情だ。
かばうつもりはなかったけれど、必死すぎる優菜がかわいそうに思えて、朱莉も同じように、水谷先輩の大ファンで両想いで嬉しいと自己紹介をした。
今度は水谷も、そういう自己紹介が流行りなのかなと表情を和らげ、君たちかわいいし、ユーモアがあって面白いねと笑い出す。ほっとしたのも束の間、開いた扉から覚えのある不機嫌な声が聞こえて、朱莉は身をすくませた。
「星野さん。計算シートの誤りを直して、すぐ持ってくるように言ったはずだけれど、少し時間がかかりすぎていないか?」
引き戸の枠にもたれるようにして立っている甲斐は、身体から力を抜いているようで、その実、目に有無を言わせぬ強い力を漂わせている。朱莉はとんでもないところを見られてしまったと情けなくなった。
優菜と水谷のやり取りを見ていないとしたら、まるで自分を軽い女だと思ったに違いない。
「す・すみません。授業中なのに無駄口をたたきました。こちらが計算し直したものです。お手数をおかけしてごめんなさい」
シートを渡した時に、指先が甲斐の手に触れてしまい、朱莉はびくっと身を震わせて、シートからさっと手を引いてしまった。
反射神経がそうさせたとはいえ、露骨な態度に、甲斐の目が眇められる。この人とはことごとくタイミングが悪いんだと、朱莉の中で甲斐への苦手意識が強くなった。
「隆矢、僕がこの二人に話しかけたんだ。一応僕は先輩だから、無視するわけにはいかなくて、話を合わせてくれていたんだよ。ごめんな、二人とも。あっ、そうだ。知り合ったついでに、君たちテニス同好会に入らないか?」
優菜が途端に反応するのが見えた。
「私は初心者ですが、憧れの水谷先輩が教えてくださるなら、喜んで参加させて頂きます。ねっ、朱莉?」
なんで私を巻き込むんだと、このお調子者の同級生を、ことごとく厄介に感じて、ため息まじりにテニスはやらないと断りかけた時、甲斐が口を挟んだ。
「テニスだけじゃなくて、スキーや、旅行も行くよ。大手企業に入った先輩たちも遊びにくるから、顔繋ぎができて、就活にはプラスになると思う。良かったら入らないか?」
聞き間違いかと思って、まじまじと顔を見てしまったが、甲斐の真剣な表情は崩れず、朱莉を真っ直ぐに見ながら返事を待っている。計算シートのことで二度もへまをした手前、断れるわけがない。
「よ、よろしくお願いします」
「わ~っ。朱莉良かったね。甲斐先輩と話すと緊張するって言ってたけど、これで解決したね」
お前はあほか!と後ろから頭をはたきたくなったけれど、ぐっと我慢して、甲斐の顔を恐る恐る窺ってみる。甲斐は相変わらずクールな表情で、こちらこそよろしくと言って、計算シートを持って会議室の中に戻っていった。
身体の向きを変える時に、口元が緩んでいたように思ったのは気のせいだろうか?気になって、気になって、水谷がテニス同好会の説明をしているのが全く頭に入ってこなかった。
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