鉢合わせ

蛙鳴未明

鉢合わせ

 ある年ある日ある時間、日本のどこかを大きな登山用リュックを背負った男が歩いていた。暑いのかなんなのかそれとも冷汗なのか彼はやたらと額を拭い、帽子のつばを直す。その目は不安そうな光を宿してちらちらうろうろ忙しなく動いている。

 それだけ見ると挙動不審で通報されかねないが、彼が歩いているのは深夜の名もない裏山の名があるはずもない獣道だから問題ない。彼は懐中電灯をフラフラ左右に動かして進み、たまに動くものが照らされるとびくりと体を震わせる。一体何がそんなに怖いのか。

 幽霊が出るなんて噂はないし、この小さな裏山には無害な生物しか住んでいない。人に出会ったとしてもちょっと変な人と思われるくらいだ。まあそもそも裏山に来るような物好きは居ない。彼はそういうことを全て知っているのに、怯えるように懐中電灯をフラフラさせとめどなく溢れる冷たい汗を拭っている。そんな状態だった故に、自分が懐中電灯に照らされた時彼は死ぬほど驚いた。ギャッと叫んで尻餅をつき、脳天まで貫く衝撃も忘れて懐中電灯を突き出す。


「だ、だ、誰ですか!」


 二つの声が見事に重なった。我に返って前を見ると、自分と同じくキョトンとした顔をした女と目が合った。彼女は大きなボストンバッグを担いでいる。「……」と時間が流れる。


「あ、えっと、こんばんは?」


 最初に声を出したのは女の方だった。


「あ、はあ。」


 男はゆっくりと立ち上がると、ひきつった笑みを浮かべた。


「こんばんは。いいお天気ですね。良く晴れて洗濯物が乾きそうな日のようだ。」


 まだ男は我に返りきれてなかったらしい。女は顔いっぱいに「???」を浮かべながらもなんとか会話を続けようとする。


「ええ、まあ……はあ。今晩はどうしてこちらに?」


「いやあちょっくら埋めに。」


 空気が凍り付く。冷汗が女の額を流れた。深夜、山、埋める。不穏なにおいが漂うワードだ。常人なら回れ右して逃げ出すところだろう。


「……あのお、埋めるって何を?」


「ああそりゃもちろんしハッ!」


 男はようやっと我に返った。口が滑った感満載で口を押える。懐中電灯が地面に転がる。それが照らし出すのはなぜかちょっと嬉しそうな顔の女の顔。この女、やはり常人ではない。もしかしたら頭のネジが二、三本外れてしまったのかもしれない。そんな彼女が嬉々として叫ぶ。


「同業者ね!?」


 女はボストンバッグをドスンと下ろし、素早くファスナーを引っ張ると中からシャベルを取り出した。それを地面に突き立て、腕組みをすると何が何だか分かっていない男にピシリと言い放つ。


「ここには前々から目をつけてたの!あんたは別のところに埋めなさい!」


 男が目を見開いた。


「ええ!?そりゃないっすよお。ここ見つけるのに結構苦労したんですからあ。」


「それはこっちも同じ!私はここを見つけるまでに一月かかったんだからね!?」


「俺なんて三か月かかりましたよ!」


「それはあんたが無能だからでしょ!?無能な人間に明け渡す必要は無いわ!」


「はあああああ!?」


 あんまりにもあんまりな言い分に男は絶叫する。


「そもそもあんた、私は五十キロを!肩に提げて!登ってきたのよ!?その苦労からしても私がここに埋めるべきでしょう。」


 負けずに男も言い返す。


「俺なんて百キロっすよ!?二倍っすよ、に!ば!い!」


 と、女が眉をピクリと動かした。一瞬何か考えるような顔をする。


「……百キロなんてよくそんなリュックに入ったわね。どうやったの?」


 男はキョトンとした顔をした。


「は?どう、って普通に入るじゃないですか。」


 女は眉間にしわを寄せて数瞬考えた。ゆっくりと腕組みをほどく。


「質問を変えるわ。二度目だけど、あんたは何を埋めに来たの?」


 男も眉間にしわを寄せた。


「そんなん言える訳ないじゃないですか。何考えてるんです?」


 女はゆっくりと呼吸をしながらシャベルに寄りかかった。


「え、じゃあ『せーの』で言いましょ。それなら大丈夫でしょ?はいじゃあいくわよせーの!」


 勢いにつられて男が慌てて叫ぶ。


「信号発信機!」「死体!」


 一瞬空気が凍った。男の目が恐怖の色に染まろうとするそれより一瞬早く女が思いっきりシャベルを横に振った。鈍い音がして男が横に吹っ飛ぶ。リュックが地面にぶつかって派手な金属音が森に響いた。ぴくぴく震える男の首にシャベルを突き刺すと、女はやれやれとため息をついた。


「残業代出るのかなこれ。」

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