母さんの道具
ふう。
まだこの身体は運動にも慣れてないだろうし、トレーニングはこのくらいにしておく。
しばらくはストレッチと自重トレーニングを重点的にやっておこう。
今後のトレーニング方法を考えていると、下の階から父さんの声が聞こえた。
「伊織~。ごはんできたぞ~」
「わかった~。今行く~」
父さんからご飯だぞ~って呼ばれるのは本当に慣れないな。
この一点だけでもこの世界の異常性が際立つ。
階段を降りてリビングに入ると食卓には普段より豪華な食事が並べられていた。
俺の好物がたくさん並ぶ、全体的に茶色いメニューだ。
神山家でなにかお祝い事があると大体このメニューになる。
あれ? この辺は「前の世界」と同じなのか。よくわからんなぁ。
リビングに入ると父さんと母さんはすでに食卓についている。
俺もさっさと座るか。
俺は「前の世界」の自分の定位置の椅子に腰を掛ける。
「「「いただきます」」」
基本的に神山家の食事は静かだ。
あまり食事中に話をすることもなくもくもくと食べることが普通だ。
その代わりに食べ終わった後に雑談することが多い。
いつものように食事が終わると、父さんが話しかけてきた。
「伊織、入学式はどうだった?」
「んー、意外と普通だった」
「そうか。早く高校に馴染めるといいな」
とりとめとない話をしていると、今の俺にとって大問題の野球道具について話さないといけないことを思い出した。
「ねぇ父さん。俺野球部に入りたいんだ」
「え? 野球部? マネージャーになるのか?」
「いや、選手の方」
「ん? 駿河南は男子野球部があるのか? 珍しいな」
なにその『男子野球部』っていうパワーワード。
もしかして男子は甲子園のグラウンドに立てないとかいう謎ルールが存在するのか?
「いや、普通に野球部だけど。もしかして男子は甲子園に出場することができないの?」
「出場するのは問題はないが……。俺は詳しくはないけれどプロにも男の選手はいたはずだ。それに野球なら母さんのほうが詳しいよ」
ん? なんで母さんが詳しいんだ?
俺は父さんの目線につられて母さんの方を向くと、母さんはゆっくりとした口調で話し始めた。
「私は学生時代は野球をやっていたからね。でも伊織は今まで野球どころか運動そのものに興味がないと思っていたのだけれど……。なにかあったの?」
「単純に野球がやりたいんだ」
言葉にすると簡単だけど、偽りのない本心だ。
「だけど野球をやるには道具が必要だろ? だからそれを相談したいんだ。」
母さんは俺の言葉を聞いて少し黙り込んだ。
いつもより少し低い声で俺に諭すように話しかける。
「伊織が思ってるよりも野球部の練習はキツイわよ?」
「わかってる」
「それに男が野球やるなんておかしいって目で見られるかもしれないし。そういった面で嫌なこともあるわよ」
「周りのことは関係ない。それに自分が野球をやりたくてやるのに嫌な思いをすることなんて無いよ」
俺の言葉に母さんは一瞬驚く。
少しの間固まっていた母さんが再起動すると、
「そう……。ちょっと待っててね」
母さんは椅子から立ち上がると、神山家の物置になっている倉庫の方に歩いて行った。
ゴソゴソと音が聞こえて5分ほど経った頃だろうか。母さんが段ボール箱を両手で抱えて持ってきた。
「これは私が学生の頃に使っていた道具よ。練習用のユニフォームも入っているわ。今の伊織の身長ならまだ着られるはず。本当に野球部に入るのなら持っていきなさい」
まじか。
さっきまで悩んでいた問題が一気に解決した。
「でもいいの母さん? 学生時代に使っていた思い出の道具じゃないの?」
「別にいいのよ。このまま押入れに入れておいてもタンスの肥やしになるだけですもの。それに元々伊織が野球に興味を持ったらあげる気だったの。道具は使ってもらってこそ輝くものよ」
母さんは少し嬉しそうにそう言った。
俺は反対されるのかとひやひやしていたが、思ったよりも好感触だったので素直にお礼を言った。
「ありがとう母さん。大事に使わせてもらうね」
「ええ。もし他に必要なものがあったら言いなさい」
「わかった。それとは別に何か問題があったら必ず相談するよ」
~~~
俺は部屋に戻ると先ほど受け取ったダンボールの中身を早速確認する。
中にはキレイに洗濯された練習着、硬式用と軟式用のグローブ、スパイク、ストッキングやアンダーウェアなどの野球に必要な道具一式が入っていた。
その中に入っていた軟式のグローブを見て驚いた。
なぜならそのグローブは、「前の世界」で俺が子供の頃に使っていたグローブだったからだ。
グローブの中には1つは軟球、もう1つは硬球を収めた状態で型が崩れないように丁寧に固定されていた。
……そうだったのか。
母さんが大事にとっておいた道具を、子供の俺が野球を始めたから与えてくれてたんだ。
そう思うと思わず笑みが溢れる。
「前の世界」でもこの世界でも母さんには世話になりっぱなしだ。
思い出の軟式用のグローブを使うことはないだろうが、せっかくだから一緒に入っていたグローブ用のオイルで手入れをしとこう。
母さんが使っていたグローブをはめて、感触を確かめるようにポケットの部分を叩く。
「ああ~、もう早く野球がしたい!!!」
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