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Black river

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波のさざめく音が聞こえる。

なぜだろう。

ここはどこ。

私はそっと目を開けた。

刺すような日光が飛び込んでくる。

まぶたを何度もパチパチさせながら、その隙間から断続的に見え隠れする青色を見とめた。

どうやら外にいるらしい。

ゆっくりと上半身を起こして周りを見回した。


目の前に、青い海原が広がっていた。


透明な水を通して底が見える。

日光が映し出す不規則な陰影の奥に、真四角で均等な模様がどこまでも並んでいた。

その模様は波打ち際を超えて、私の足元までずっと続いている。

手を伸ばし、無数の空色の正方形に触れる。

中央付近が少し膨らんだ、つるつるの表面。

私の下にあるのは、お風呂の床みたいなタイルだった。


すっかり目の覚めた私は、その場に立ち上がった。

足裏全体に、ひんやりとした陶器の質感が広がる。真夏の陽に焼かれた砂浜の焦げるような熱さは感じない。

ここはどこなのだろう。

右を見ても左を見ても、白い波と青いタイルが微妙にお互いの陣地をやりとりしている光景が続いているだけだ。

数歩進んで波打ち際まで近づいてみる。

下がタイルであること以外、普通の海と同じだった。

ときどき波間で赤や黄色の魚が踊り、また驚いたように沖に泳ぎ去っていく。

なぜかその後を追いかけたくなった。

着ているワンピースが濡れるのも構わず、私は思い切り境界線を飛び越えた。

白い波が何本もの手のように足首を捉え、激しく前後に揺さぶる。私は抗うように、先へと進もうと足を動かし続けた。

そのとき一際大きな波がやってきて、猛々しく私に体当たりをした。

あっ、と思った時には、世界が反転していた。

お風呂場の床は滑りやすいから気をつけなさい。

母の忠告を思い出すのは、いつだって手遅れになった時だ。

またしても眩しい光が目を射抜く。

海も真っ青なら、空も真っ青だ。

真っ青、真っ青、真っ青。

視界がより深い青に包まれた。見えるもの全てがぼんやりと歪んでいる。

口の中に広がる、潮の味。

汗よりも、涙よりも濃い。海の抱える喜怒哀楽全てが、ぎゅっと詰まったような塩味。歯茎が染みる。

周囲は水で溢れているのに、猛烈な渇きを覚えた。

そうしているうち、また波が帰ってくる。

顎が下からどっと突き上げられ、ツンとした感覚が鼻の奥まで一気に駆け抜ける。

体の両脇を通過する水流が、ついでに髪の毛が揉みくちゃにした。

真っ白だったワンピースが、青に染まっていく。

手足の先がだんだんと、まるで水に投じられた角砂糖みたいに、溶けていくような不思議な感覚。

背中が硬いタイルに押し付けられる。

水面を見上げると、映っているのは私の顔。

魔法の鏡のように、ぐにゃぐにゃと歪んで、形を変えていく。

滑稽だ。

波が引く。

生温い外気の中に放り出された。粘膜がひび割れ、引きちぎれる。

唇の上で乾いた潮が、奥まで洗浄された鼻腔が、ひりひりと疼く。

その疼きが、私にまだ死んでいないことを実感させた。

痛みは生の証し。

熱は魂の焦げつき。

冷たいタイルの上に横たえられていても、体の内には熱を帯びた血潮が流れている。


夜が来た。

私はじっと、タイルの上に座っていた。

海から離れようとは思わなかった。

お腹も空かなかった。

日が沈むにつれて色の濃度が上がり、幾分深くなったように見える蒼色の塊は、その縁に座る1人の少女など歯牙にもかけず、時おりどうっと音を立てながら、ただひたすらにうねり続けている。

その様子を見ながら、私はぼんやりと考えていた。

生き物はみんな、海から生まれた。母なる海。命の源。

では、ここは。

タイルに抱かれたこの海もまた、私の母なのだろうか。

命の源なのだろうか。

冷たいタイルに指先を這わせる。

人工物に囲われている、でもそれ以外は本物とそっくりな、タイルの海。

もしも私が魚だったら、このタイルの海と本物の海の区別がつくだろうか。

私は突然、このタイルの世界に放り出された。

自分の名前も、住所も、学校も、両親の顔も、はっきりと思い出せるのに、なぜここにいるのかが分からない。

波の音に起こされるまで、自分がどれくらいの間眠っていたのかも。

ただ今まであったものが無くなって、今まで無かったものだけが、目の前にある。

まるで昨日までの日常を、海が溶かしてすっぽり呑み込んでしまったかのように。

私は足先でタイルの目地をなぞった。

このタイルの下には何があるんだろう。

もしかしたら、昨日まで私の暮らしていた日常が、乱雑に片付けられたおもちゃのようにこの下に積み重なっているんじゃないだろうか。

目を閉じてその光景を想像する。

人や家や車や街が、ごちゃ混ぜになって沈んでいる。そこは真っ暗な世界だ。分厚いタイルに覆われ、もう二度と陽の光を浴びることはない。活気ある日常と笑い声が戻ることはない。

私は慣れ親しんだもののいた世界からはじき出された。

そしてただ一人、まだ生き続けている。

世界の外縁にあるこの海で。

どこかへ向かって泳ぎ進むわけでも、漫然と漂うわけでもなく、ただ一か所に座っている。

これが良い訳では無いのは分かっている。

じゃあどうすれば?

何がしたいとか、何になりたいとか、そんな希望が意味を持つだろうか。

海と空とタイルの地面しか無いこの世界で。

そんなことを考えはじめると、腰を上げてどこかへ行こうという気も、また起こらない。


頬に生温い違和感が広がった。

指先でそっと触れると、頬骨の下あたりに水滴がついている。

そこで初めて涙を流していることに気づいた。

人は悲しい時に泣く。嬉しい時にも泣く。怒った時にも泣く。眠い時にも泣く。

この涙は、一体どこから来たのだろう。

過ぎた日常を思ってか、自分の不運を悲しんでか、それともまだ生きている幸運を喜んでか。

理由を考えているうちにも、第二第三の雫が、頬を滴り落ちた。

この涙の理由が分からない。

ただ目から液体が溢れてくるとしか表現しようがない、このもどかしさ。

見上げるとひっきりなしに瞬く星たちが、冷たい光をこちらに投げかけている。

流れ星がすうっと横切るのが見えた。

ああ、空が泣いている。

黒くのっぺりと、無表情な空が流した一筋の涙。

その奥にはどんな感情が渦巻いているんだろう。

自分の感情さえ分からない私は、きっとそれを知ることはできない。

その間にも海は静かに拍動を続けていた。

まるで私や空など、どこにも無いかのように。

タイルに抱かれた海は、ずっとそこで揺れている。

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