イクスギア――フルドライブッ!!

「……どうやらその無理筋も限界みてえだな」


 肩で息をしていた凛音は、苦痛にもがき苦しむイノリを見て、電磁砲をしまった。


 最大の一撃を防がれた時は肝が冷えたが、それが最後の抵抗だったのだろう。

 

 今のイノリには最初に感じた禍々しさは一切感じられない。

 彼女を覆う漆黒の魔力こそ寒気を覚えるものだが、それは今までの《魔人》にも感じてきた恐怖だ。


 つまりは、もう慣れた恐怖。


 だからこそ、ただの《魔人》へと堕ちたイノリにこれ以上力を発揮する必要はないと凛音は《雷神》のイクシードを解除したのだ。


「あ……が……ッ」


 喘ぐように胸を掻きむしるイノリ。

 漆黒の魔力が止めどなく荒れ出し、もはや意識を繋ぎ止める事も難しい。

 何十回と繰り返した気絶と覚醒の苦痛にもはや理性が崩壊しかけていた。


(これが……《魔――人》)


 初めての経験だ。

 十年前とは比較にならない激痛。

 そして、自分が消え去るという恐怖に総身が粟立つ。

 もはや体の感覚はない。

 耳も聞こえなければ何も瞳に映らない。


 ただただ黒。


 意識がその闇に呑まれた時こそ、イノリの魂は《魔人》という牢獄に囚われる事になるのだろう。


(……手放すなッ!)


 激痛に飛びそうになる意識を必死に繋ぎ止める。

 今ここで意識を手放せば後戻り出来ないと本能が警鐘を鳴らす。


 体はもはや動かない。

 それでも意識だけは捨てるな。

 それを捨てた時、それがイノリの最後なのだから――


「こんな状態でも意識があんのかよ……」


 凛音は倒れ伏すイノリを俯瞰し、驚愕の事実に息を呑む。

 凛音を射貫くイノリの深紅の双眸。

 そこにはまだ意識らしきものが確かにあった。

 

 苦痛に喘ぎ、全身を漆黒の魔力に覆われながらも、それでもイノリはまだ人としての自我を保てている。


 その精神力は凛音の想像を遙かに上回るものだった。

 だからこそ、終わらせる。


 聞いていて耐えないのだ。

 彼女の絶叫が。

 血反吐をまき散らしながら喘ぎ苦しむその姿が。


 これが《魔人》に堕ちる姿というなら、これほど残酷な仕打ちはないだろう――と凛音に思わせる程、それは想像を絶する光景だった。


 もはやイノリに凛音の攻撃を避ける力は残っていないだろう。

 もう、その双爪を振るう事もないだろう。


「……今、楽にしてやるから」


 だからこそ、凛音は躊躇いなく銃口を向ける。

 これが救済なんてちっぽけな考えは抱いていない。


 これは逃げだ。


 凛音は今まで知ろうとはしなかった。《魔人》がどういった存在か。

 《魔人》へと堕ちた召喚者の苦しみを。


 ただ、そこにいるだけで人を無差別に殺す。

 だから、ぶっ倒してその力を奪い取る。


 凛音にとって《魔人》とはその程度の認識。

 人としてすら見ていなかった。

 だからだろう。

 初めて見た《魔人》化に身の毛もよだつ程の恐怖を抱いたのは。


 これほどの苦痛が、これほどの絶望が、彼らにあるとは露とも思わなかった。

 だから、これは逃げ。


 こんな現実を知ってしまった事に対する逃げだ。

 これから先、イノリと同じ特派の人間と戦う時、この感情は足かせになる。


 この一撃で、決別しなければならない感情だ。

 だからこそ、彼女の口を突いてその言葉が漏れる。


「――ごめんな」


 その直後、



 一発の銃声が鳴り響いた。



 ◆



「あ……あぁ……」


 一ノ瀬一騎から漏れる苦悶の吐息。

 それは、イノリのキスがもたらしたものだった。


 霧散していた意識を一つに繋ぎ止め、覚醒させたイノリのキス。

 それは一騎の砕けた心を呼び起こし、人としての自我を回復させる程に衝撃的だった。


 だが、それでも心は未だ、鎖に囚われたまま。


 一騎は震える体を抱きしめ、未だに現実から目を逸らしていた。

 だが、それもイノリの悲鳴によって遮られる事になる。


 一騎の視線に映ったイノリの姿。

 それは《魔人》の魔力に悶え苦しむ姿だった。


「いや……だ」


 体が震える。

 それはイノリが《魔人》へと堕ちる未来を想像してしまったが故の怯えだ。


 イノリが《魔人》へと堕ちれば、誰が戦う?

 特派にはもうイノリの他に適合者はいない。

 なら、イノリに銃口を向けている彼女が?


 だが、彼女が倒されるような事があれば?

 次に戦うのは誰だ?


(……僕しかいないじゃないか)


 いやだ。

 戦いたくない。

 戦うのが怖い。

 この手でもう一度誰かを殺してしまうのがたまらなく怖かった。


 一騎の心が鎖でがんじがらめに縛られる。

 それこそが一騎の恐怖の表れ。


 戦いたくないと心に蓋をする彼の弱さの表れだった。


 だが――


『それでいいのかよ?』


 不意に一騎の脳裏に言葉が過ぎる。

 それはひどく聞き覚えのある声。

 

 一騎がギアを纏った時にも、そして戦っている最中にも聞こえた声だ。


 今、彼女は声だけでなく、その輪郭までをも一騎の心に刻み込んできた。

 それは――イノリだった。


 見間違うはずがない。

 夜空に輝く白銀の輝き。

 そして、何度も見惚れた顔だ。

 今さら見間違えるはずがない。


 心の中に現れたイノリは鎖に囚われた一騎を見て、鼻を鳴らす。


『……まったく情けねえ。それが男がみせる顔かよ』

「僕は、もう……」

『何も出来ませんってか? 笑わせるなよ』


 一騎の思考を先読みしたかのか、イノリは続く言葉を遮り、深紅の双眸を鋭くさせる。


『お前が戦わないのは勝手だ。けど、その責任をあの女に押しつけるなよ』

「押しつけているわけじゃない。ただ、僕にはもう戦えないだけで……」

『皆を守る、イノリを守る――そう言ったお前の言葉全て嘘か? 違ぇだろ?』


 そうだ。あれは紛れもない僕の本心。

 だけど、その心はもう鎖で縛られた。


『なら、どうするんだよ? あの女に全てを押しつけて、お前はそこで一生そうやっているつもりか? その手で守りたかったもの全てを捨てて?』

「そうするしか……そうするしかないじゃないか! 僕には出来ない! 誰かを傷つける為に拳を握る事なんて――」

『甘えんなッ!』


 イノリの恫喝が一騎の言葉を二度遮る。

 そして詰め寄ると一騎の胸ぐらを力いっぱい掴み上げたのだ。


『男なら守ってみせろよ。大切な女くらいその手で守り抜け。お前が戦わなければ、イノリはあの女に殺されるんだぜ? それでいいのかよ?』

「よくないよ……」

『なら戦え。イノリを殺したら次は特派の連中にあの女は銃口を向けるぜ? お前が怯えて戦えない間に一体何人の連中が殺されるんだろうな?

 全てはお前のせいだ、一騎。

 お前が戦わないから、アイツらは死ぬ。そうなった時、お前はその罪に耐えられるのか? 耐えられるはずねえよな?

 俺はお前だ。だからこそよくわかるぜ。屍の上で泣き叫ぶお前の姿が目に浮かぶ!』

「う……あぁ……」

『だから嫌でも、苦しくても、死にたくても戦え。それだけがお前を絶望から救う唯一の手段だ。

 だから、叫べよ――』


 万感の思いを込めて。


 思い描いた最悪の未来を回避する為に。


 イノリを守る為に――


 一騎は鎖に囚われたまま、右腕を掲げる。

 そこには鈍く輝く白銀のブレスがその起動を待ちわびていた。

 

 もう誰も傷つけさせない。

 その思いを胸に一騎は――そして心の中に現れたイノリは叫んだ。


「『イクスギア――フルドライブッ!!』」

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