幸福

清水優輝

第1話

 歩く青年の肩にぶつかり、少年の小さな体は飛ばされた。尻餅をつき、腰をさする。青年は少年の足を何度か蹴った。少年は表情を変えず、時が過ぎるのをじっと待っている。青年は無反応の少年に不満で、少年が背負うリュックに手を伸ばした。少年は血相を変えて相手の腕を振り解き、リュックを離さぬように胸元に抱きかかえ、その場から逃げ出した。人目のつかない路地裏で座り込んで、リュックの中身を確認する。ナイフ、小銭入れ、食料、キーホルダー、下着、ハンカチ、そして中身が詰まった革袋を取り出した。少年は革袋を開ける。人差し指と親指で割れないように静かに中身を取り出す。それは2,3センチほどの大きさの硝子の破片であった。角が取れて柔らかな橙色をしている。地面に広げたハンカチの上に硝子をひとつずつ並べて状態を確認する。どれも傷ひとつなく、つるりと輝いている。少年は胸を撫で下ろすと革袋の中に閉まった。今夜食べるつもりのパンは圧し潰されて変形していたが、食べるには問題なかった。


 少年は橙色の硝子の破片を集めて各地を放浪していた。旅のはじまりは忘れた。ゴールも分からない。父からもらった方位磁石は山賊に奪われ、祖父からもらった名前は捨てた。15歳ほどの背丈をした少年が街を歩く姿を見かけて、信仰心の篤い親切な人はうちに泊まらないかと声をかけることもあったが、少年は誰にも頼りにならなかった。ごはんにありつけない日も、三日三晩歩き続けた日も、少年は泣き言ひとつ言わなかった。硝子を集めることだけが少年の生きる道だった。

 少年がまだ温かなベッドの中で母に抱かれて眠っていたとき、少年の母はよく彼に物語を聞かせた。

 世界には隠された宝石がある。何でもない姿に扮しているから普通の人には気付かれない。すべてを拾い集めた者は世界で唯一の幸福を手に入れる。そのうちのひとつが、祖母の形見であるこの橙色の硝子。ネックレスにしてお守りにしている。私はこれを集めようとは思わない。幸福の欠片だけでも手元にあるなら、それで私には十分だわ。あなたという美しい宝石を私は手に入れた。きっとこの硝子のおかげよ。

 母親はそう言って、少年の豊かな頬を撫でた。今、少年の痩せこけた頬を撫でる者はいない。愛されていた記憶が少年を突き動かすのか、母親の記憶さえも忘れ屍のように足を運ぶのか、誰にも分からない。少年は口を噤んだままである。

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