下っ端妃は逃げ出したい

都茉莉

下っ端妃と謎の少女

 この清寧国せいねいこくの後宮には、千人を超える妾妃と、その倍以上の女官が住んでいる。

 この馬鹿らしいほど多い人数は、後宮の規模により国の威勢を示すためであり、実際に皇帝陛下と相見える機会があるのはほんの一握り。そのため後宮にいるのは、上流貴族のお嬢様か数合わせの庶民ばかりだ。

 皇帝陛下に見える可能性の薄い中流貴族のお嬢様は、金でもって妃狩りを逃れている。だからこうも極端なのだ。

 そして私は大変不本意ながら、そんな数合わせ妃の一人なのである。


 貧しくはないけれど、決して豊かとは言えない商家に生まれた私は、家業を手伝いながら暮らしていた。

 年が離れた弟が家業を助けられるくらい大きくなったら、どこか適当なところへ嫁にやられるのだ、という漠然とした認識はある。けれども、それに現実味は微塵もなく、結婚はどこか遠い世界の話のように感じていた。

 が、新たな皇帝陛下が即位したことで、一気に近くに感じざるを得なくなってしまった。物の流れには強くとも、都のことはサッパリな地方の商家には、それが意味することなどわかるはずもない。気付いたのは妃狩りが始まってからだった。それではもう遅い。

 同じように逃げ遅れた者と共に、なす術もなく都へと連行され、宮城へと詰め込まれた。

 私が十五の頃の話だ。



 国を動かす官吏たちが集う皇城の背後に、皇族の住まう宮城が存在する。宮城の中には、皇族それぞれがもつ宮の他に、後宮である、妾妃に与えられる四つの宮殿がある。

 紫宮が最上位で、順に藍宮、紅宮、黄宮と位が下がっていき、もちろん室の広さや俸給も下がる。

 私のような血筋も財も持たない地方の庶民は、当然黄宮が割り当てられる。お付きの侍女など当然いるはずもないので、室は最低限生活に必要なものを置ける程度の一間。それがずらりと四百、五百と並んでいる。

 室に備え付けられた調度は文机と寝台のみ。後は出入り商人から買えということなのだろう。

 けれども私たちのほとんどは、そんな元気など残っていない。家族や友人と理不尽に引き離され憔悴しきっているのだ。

 かくいう私も一ヶ月は泣き暮らした。己の身の上を散々嘆いていると次第にわけがわからなくなってきて、何もする気が起きなくなった。

 その後何をするでもなく無為に時を過ごすこと、さらに一ヶ月。

 そんな状態でも生きて行けたのは、後宮が衣食住を保証している場所だからだろう。時間になれば食事が運ばれて来るし、脱いだ衣服も置いておけば洗濯される。実家にいたときでは考えられない体たらくだ。


 それが変わったのは、先人の置き土産に気が付いたのは、偶然だった。

 ある時、妾妃の身分を示す黄の佩玉を文机の方へ落としてしまった。これを無くしたら惨事だと、慌てて這いつくばって文机の下を覗き、無事佩玉は手元に戻ってきた。

 安堵からふっと息を吐いたとき、何やら壁に書いてあるのを見つけた。不思議に思ってよく見てみると、『逃げ出したいなら、府庫へ』とたどたどしい字で書いてあるではないか。

「逃げ、出す……」

 文字に指を這わせて呟いた。じわじわ現実が帰ってくる。生きているのか死んでいるのかわかったもんじゃない状態だったこの二ヶ月。惰性で生きてきただけの期間。

 今ようやく、故郷を離れたときから止まっていた時が動き出した。


 まともに室から出るのは初めてで何もかもが目新しく感じた。

 廊下にある調度も、宮城だけあって一目でいいものだとわかる。

 ただ、どこか重苦しい空気が拭いきれない。光は差しているはずなのに、どうも薄暗く感じられる。すすり泣く声がどこからか聞こえてくる。ずっとここにいると引きずられてしまいそうだ。

 運良く見つけた女官に府庫への道を尋ねると、快く教えてくれた。

 後宮に仕える女官は、中流貴族の幼子で花嫁修業に来ている者か、もしくは、先帝の妾妃がそのまま残った者が多い。

 この女官もその類で、かつては黄宮に居を構えていたそうだ。本人は先帝と見えることなどなかったけれど、彼女の友人が、なんと今上帝のご母堂、つまり国母だと言うのだ。

 そう、あん清秀せいしゅう皇帝陛下は平民の母−−それも元は黄宮の妃だ−−を持つがゆえに、貴族との縁が薄い。まだ御年十というのだから政事などできるはずもなく、現在、国は二人の宰相によって動かされている。

 まずは敵を知らねばと聞き出してみたが、いろいろと複雑なようだ。私のような庶民には気が遠くなる話である。

 それにしても、そんな年から後宮を持たねばならないなんて皇帝陛下も大変なものだ。


 皇城と宮城のちょうど中間に位置する府庫は三つに区切られている。もちろん官吏は全区域に入ることができるが、妾妃は試験を受けて許可を貰わない限り、宮城側の区域しか入れない。とはいえ、妾妃の利用が認められている区域だけでも膨大な書がある。

 前の住人の書き残しを見て衝動的にここまで来てしまったわけだから、何かあてがあるわけではない。

 でも、書き残すくらいなのだから見つけられる場所にあるのだろう。

 黄宮の妃が読みそうな種類から探していくべきか。裏をかくべきか。……結局、礼儀作法や宮中行事の書から調べることにした。

 前住人の残した何かを探すため府庫に通うこと二週間。私以外の妾妃は一度も目にしていない。時々侍童が忙しそうにかけてゆくのが見える。

 書の中にあるのか、書と書の間にあるのか手がかりはないから、見落とさないように丁寧に探す。府庫の隅で一枚一枚頁を繰っている音が静かな空気を震わす。

 『宮廷女官の役割』という書を調べていると、カサリ、と僅かな音を立てて二つ折りにされた紙が現れた。震える手でそれを開くと、宮城の地図。それも、地下経路が記されているもの。

「あった…………!」

 思わず漏れた歓喜が小さく響く。やっと上がった成果に高揚しているのがわかる。

 だから、だろうか。地図に影が落ちるまでその存在に気づかなかったのは。声をかけられるまで反応できなかったのは。

「おまえ、外に出たいのか?」

 子ども特有の甲高い声にハッと顔を上げると、可愛らしく小首を傾げた幼い少女がいた。

 咄嗟に立ち上がり、逃げられないように腕を掴む。

 私の肩ほどしか背丈がない彼女は必然見上げる形になる。睨みつけるわけでもなく、恐怖するわけでもなく、表情一つ変えずに彼女は言い放つ。

「そんなことしなくても逃げたりしないし、誰にも言わない」

「信じられる理由がないわ」

「別に信じてくれなくても構わない。私は事実を言っただけ」

 不遜な態度は貴族か豪商のお嬢様に思われて、今更ながら佩玉を確認する。……黄色だ。私と同じ黄宮の妃。にしては、それらしくない。他の妃に会ったことなどないのだけど、黄宮にいるのは地方の庶民だということは知っている。

 考えを巡らす私は随分隙だらけだったらしい。少女は私の腕−−彼女を掴んでいる方だ−−を軽く引いてくるりと身体ごと捻り、拘束から抜け出した。

「そんなに心配なら見張りでもすればいい。−−明日もまたここに来よう」

 少し駆けて距離をとってから、頭だけ振り返りこれだけ言うと、足早に去って行った。

 私が我に返り外を確認したときにはすでに誰の姿もなかった。


 その日の夜はどうやって過ごしていたか記憶が曖昧だ。気付いたら室に戻っていて、あの少女が誰かにバラしやしないかとただただ怯えていた。

 そして翌日、開放時間になるとすぐに府庫へ向かった。にも関わらず、彼女は私を待ち構えていた。

「あなた、本当に来てたのね……」

「ああ、わたしが言い出したことだからな」

 さも当然というように彼女は言う。流石自分から監視を言い出しただけはある。

 星綺せいきと名乗った彼女と私は、それから何日も共に過ごした。

 朝は府庫の開放時間から、夜は夕餉刻まで。

 始めは二言三言言葉を交わす程度であとは並んでいるだけだった。

 ある時は府庫。またある時は宮殿に付設された談話室。

 様々な場所で過ごしていくうちに、会話も少しずつ増えていき、包む空気も次第に穏やかになっていった。

 無論、油断したわけではない。

 私の脱出計画を知ってしまった彼女を野放しにはできないというのは本当。

 でも、私と共にいない時間があるのに誰にも知らせていないから、信じていいのではないかと思い始めているのも本当だった。


 その日は珍しく庭園に行くことになった。牡丹の花が綺麗だと、星綺に連れ出されたのだ。

 なるほど確かに、雅なことなど欠片もわからない私にも美しいと感嘆させるほどだ。いいとこのお嬢様であろう彼女のお目に適うだけある。

 私たちは庭園に面している四阿に陣取った。女官−−府庫への道を教えてくれた人だ−−が持って来てくれたお茶を飲みつつ、牡丹を眺める。

 星綺がこちらに首をもたげ、ふと切り出した。

「おまえは、なんで外に出たいんだ? ここにいれば衣食住は少なくとも保証されているのに」

 これまで一度も触れられなかったことを唐突に話題に挙げられて、どうにも戸惑う。星綺の目は真剣で、私を射抜きそうなほどだ。ならば私もそれに応えなければいけない。

「確かにここにいれば楽に生きていけるわ。本当に、体が動いているだけだけど」

 妃としての私には、意義も意味も何もない。毎日毎日働いていたときよりずっといいものを食べているとは思う。私のような下っ端妃は数合わせにすぎなくて、いること自体が仕事だ。私でなければいけない必要は欠片もなく、代わりはたぶん、いくらでもいる。

「紫宮か、せめて藍宮に住んでいたのなら、陛下に寵愛され、御子をなすという役目がある。でも、私たちにはそんな機会すらない。愛でられることが役目の籠の鳥にすらなれないんじゃ、閉じ込められている意味なんてないじゃない」

「陛下の寵愛を受けたら、ここに留まることを選ぶのか?」

 ありえない仮定だ、本当に。陛下が黄宮まで降りてくることは滅多にない。降りてきたとしても、私のようなとりわけ目立つところのない十人並みの娘が目に留まるわけがない。

「非現実的だけど、まあ、それが仮定か。……そうね、万が一そんなことがあっても、私じゃ寵姫になれないわ」

「なぜだ? 確かに後宮のしきたりや礼儀作法には疎いだろうが、それは勉強すればいいじゃないか」

「簡単に言ってくれるわね。万が一御子でも産んだあかつきには、使節の接待なんかも仕事になると聞いているわ。有事の際に陛下の代わりに執政するのも皇后様の仕事なのでしょう? どう考えても私にはできない。分不相応だわ」

「ふふ、そうか」

 星綺は笑っていた。小さく声をもらして、頬を緩めて。外見相応に幼く可憐な姿に目を奪われる。星綺の視線が私を絡め取り、そして彼女はにこりと笑みを深めた。

「なら女官はどうだ? 妃より給金は劣るが、彼女たちにはそれぞれ仕事があるぞ」

「陛下の寵姫になるより、よっぽど現実的ね。その方がいいわ」

 私は笑い返してそう言った。



「礼儀作法を教えてやろう」

 星綺が唐突にそう言い放った。

「流れるだけの時を共に過ごすのも悪くはないが、時間は有限。意味のあるものにしたいだろう?」

「いきなりどうしたのよ」

「いや、なに。以前から考えてはいたんだ。ここを出て、どうやって生きていこうと考えているかは知らんが、芸は身を助けるぞ? 貴族流の礼儀作法ができれば短期の賃仕事も得やすいだろう」

 得意気に説明する星綺をまじまじと見つめる。

 私には利点の大きい話だ。だが、うまい話には裏がある。彼女が何を企んでいるのか見えない。

 なかなか頷かない私を見て星綺は不満気に口を尖らす。

「なんだ、わたしでは不満か? 基礎程度、教えることなど造作ないというに」

 外見相応に拗ねる姿は大変可愛らしい。弟のいる身として、年下には弱いのだ。

 結局、その申し出を受けることにした。


 私たちが会う場所は四阿や談話室が多くなった。

 星綺がして見せた動作を見よう見まねで何度も繰り返す。

 基本だけとは言っていたが、さすがは貴族流。その基本がいように多い。

 星綺いわく、後宮に合わせたらしく、家によってはまた細かなところが異なるらしい。なんと面倒な。

 ようやく教えられたことがたどたどしいながら一人でできるようになった頃、星綺が府庫に行くと言い出した。

 彼女は唐突だが、本人の中では全てが繋がっている。私が理解できる範疇はとうに超えているというだけだ。

 ならばついて行くしかあるまい。今の私は教えを請う立場なのだから。


 府庫に着き、慣れた手つきで書を集めた星綺は、それを数冊束にして私に差し出した。

「わたしたちでは持ち出せないから写本を作るぞ」

「……それ、全部?」

 思わず顔が引き攣る。そんなことはお構いなしに星綺は肯定する。

「無論わたしも手伝う。心配するな」

 彼女は言うが、全然安心できやしない。たかが数冊、されど数冊。算盤は得意だが読み書きは最低限しか学んでいないのだ。

 不安しかないまま始まった写し作業は、私ばかりが手間取った。

 私が二頁写すうちに、彼女は五頁を写し終えている。どう考えても文字を書き慣れた人間の速度だ。

 母が庶民だとは聞いているが、富裕層だったのだろうか? 考えてもせんなきことだが。

 当然今日中に終わるはずはなく、持ち出した書は全て元に戻しに行く。纏めた書を私が持ち、星綺が棚に収める。

 そうして最後の一冊をしまい終えたとき、戸を引く音が聞こえた。足音は皇城側から聞こえる。

 私のいる場所からは何も見えないが、星綺のいる場所からは見えたのだろう。大きく目を見開いた彼女は、私の腕を強く引いた。星綺と目線が揃う。私に詰め寄り、手で口を塞いだ。

 突然のことにもがいていると、彼女は口だけで静かにと伝えてきた。そしてゆっくりと陰へ身を潜める。

 足音が次第に大きくなってゆく。口に触れている星綺の手が強張っているのがわかる。お嬢様のようだと思っていたが、しかし、彼女の手はお嬢様のそれとは程遠い。滑らかではあるが、マメがあって硬い。

 そんなどうでもいいことを考えていた私の視界遠くに、人の姿が映り込んだ。知らない人だが、位は高そうだ。なんでこんなところに足を伸ばしているかはわからないが。

 そのまま何事もなく足音は遠のき、再び戸を引く音が聞こえ、ようやく星綺の拘束が解けた。

 へたり込んだ私は、久々の新鮮な空気に咳き込んだ。咳のせいで涙目になりつつ、星綺をなじる。

「いきなり何するのよ」

「さっきの人が誰だかわかるか?」

 話の脈絡がわからないままに首を横に振る。

「宰相だ」

 思わぬ答えに思考が停止した。

「陛下の、側近の、宰相だ」

 区切りながら繰り返した星綺は私が聞き逃したとでも思ったのだろうか?

 衝撃的すぎて受け入れがたかっただけだ。なんだってそんな人がこんなところに……。

「でも、隠れる必要はなかったんじゃないの?」

「何を言ってるんだ脱走計画者」

 真顔で言われた。私も真顔になった。

 宰相様が手ずから処罰するようなことではないが処罰対象には変わりない。命拾いした、のか……?

 いや違う。私の運命は全て星綺が握っていた。

 解放時刻ギリギリまで粘ったあと、見つからないようにこそこそ室に戻った。

 この時の私は、何故星綺が宰相様を特定できたのかなど欠片も気にしていなかった。


 翌日府庫に行くと珍しいことに星綺の姿はなかった。いつもは私より早く来て待ち構えているというのに。

 不審に思いつつ待っていたが、来ない。待てども待てども来ない。

 仕方なく一人で作業を始める。書名は書き留めてあるし、だいたいの場所は片付けたときに記憶している。彼女が来るまでくらいなら大丈夫だろう。

 しばらくして、あの時の女官に話しかけられた。星綺から文を預かっているという。

 女官に礼を言い、中を確認すると、急用ができたのでしばらく会えないことへの謝罪と昨日指定した書を写して全て記憶するようにという指導だった。

 一妾妃でしかないはずの彼女にできる急用って何だとか突っ込みどころはあったが、それより何より、あの量の書を暗記しろという方に意識を奪われた。

 なんという無茶を言ってくれるものだ。

 写本の使用目的がわかり、私が読めればいいのだろうと写す速度を早める。

 期限は書いていないけど、つまりは急用とやらが終わり星綺が戻るまでになんとかしろってことだろう。

 三日で写本を終え、暗記作業に突入する。覚えるのはあまり得意ではないのだ。

 苦戦するなか、やっと半分ほどをなんとかぼんやりたぶん記憶した頃、あの時の女官がやってきた。

 星綺からの新たな文かと身構えていたが、彼女は確信を口にしない。

 煌びやかな衣をお古で悪いがと私に差し出し、着替えるように言われた。言われるがままに服を変え、されるがままに化粧を施される。

 そして連れられた先は皇帝陛下の住まう宮。嫌な予感に冷や汗が伝う。

「あの……私はいったい、何をさせられるのでしょうか……?」

「陛下からのご指名ですわ」

 にっこりと笑われて、今度は違う意味で冷や汗が止まらない。

 陛下からのお呼びだし!? しかも指名!?

 脱走計画くらいしかお偉方に呼びつけられる理由など心当たりがない。まして陛下だなんて。何かの間違いに違いない、絶対。

「さあ、陛下がお待ちです。早くなさい」

 渋る私を女官が急かす。何より「陛下がお待ち」だと。頭を抱えて逃げ出したい衝動に駆られる。

 もちろん、そんなことできるはずもなく……ついに陛下の待つという庭園についてしまった。女官は既に下がっている。

 四阿に人影が覗き、あわてて首を垂れた。

「面をあげよ」

 どこか聞き覚えのあるような子どもの声だ。

 恐る恐る顔を上げ、視線の先には陛下の姿。遠目からさえ拝謁したことなどないはずなのに、どこか見覚えのあるような気がする。

「待っていたぞ。よく似合っているな」

 陛下はそう言って笑った。

 ああ、星綺に似ているのか。既視感の正体がすとんと腑に落ちた。その笑い方は星綺によく似ていて、最悪の事態が脳内を巡る。

 まさか、星綺は皇女様だったとでも言うのだろうか? 不敬罪で投獄!? いやいや、まさか、ね。

「わたしが、星綺が、妾妃に身をやつした皇帝だと知ってさぞ驚いているだろうが、まあ落ち着いてくれ」

 今度こそ卒倒するかと思った。悲鳴を上げなかったのを褒めてほしいくらいだ。

 ご兄妹どころではなく、ご本人、と……。

「ちょ、ま、え……?」

 混乱が酷すぎて漏れ出る音もひどく震えて言葉にならない。ああどうしよう。不敬罪が確定した。

「私を捕まえるために、わざわざ、こんなことをしたのですか?」

「まあ、そうだな。許せ」

「許せ、って……。そんな、牢獄に入れようとしてる人の台詞じゃあ……」

「ん? 何か勘違いしているようだが、牢には入れないぞ」

 ここでようやく、認識の齟齬が生まれていることがわかった。

 彼女−−いや、彼が言うには、私を宿下がりすることになった側付き女官の後釜に据えたかったらしいのだ。あの、私に府庫への道を教えてくれた人が、実は陛下付きの女官だったという。確かに星綺の文を預かってきたのもあの女官だった。

「あれがおまえを推薦したんだぞ。それで、こう、わたしがくっついて確認をしていたのだ」

「じゃああの人、あのときも後任を探していたってことですか?」

「ああ。そこにおまえが転がり込んできた」

 なんということだろう。最初から最後まで、手のひらの上ではないか。

「地位も権力も興味がなさそうという優良物件。後ろに控える厄介な親族もいない。見逃すわけないだろう? それに、おまえのことは嫌いじゃない」

「……そうですか」

 なんと返していいのかわからず、曖昧に同意をするだけの私を見て、陛下はニヤニヤと意地悪い笑みを浮かべた。星綺のときとは違う、初めて見る表情だ。

「仕事はたっぷりあるぞ。ちゃんと後宮での役割がある。断る理由はないだろう? もちろん、そんなことは許さないがな」

 まだ子どもとは思えない威圧だ。さすが幼くても皇帝陛下。

 じりじりとにじり寄る陛下に、私も後退する。背後はもはや壁だ。

「逃げ場はないぞ、ほれ早く是と言わんか。……それとも、わたしでは不満か?」

 押してダメなら引いてみな。私が年下に弱いのがバレている。

 身長差のせいで上目遣いになっている陛下は、子どもらしくこてんと首を傾げた。

 思わず首が動きそうになったが、続く陛下の言葉でそれどころではなくなった。

「金はないが後宮内の地位程度ならわたしが好きに動かせる。どうだ、紫宮に住むか?」

「それはない」

 思わず素で否定してしまった。不敬待ったなしである。

「おまえはいったい何が不満なんだ。わたしにやれるものといえば、地位とこの身体くらいなものだぞ」

「どちらもいりませんし、身体を候補に入れるのはいかがなものかと存じます」

「仕方ないだろう。わたしが持つ最も価値があるものはこの身体なのだから。まったく、みな欲しがるというのに無欲な奴だな」

 みなが陛下の身体を欲しがっているというのもぞっとしない話だ。やはり私が住む世界ではない。

 陛下はしばしば思案していたようだが、綺麗な笑顔で私に言った。

「選ばせてやろう。紫宮に住まうか、わたし付きの女官となるか。わたしと夜を共にした妃はまだいないからな。真実がどうであれ、一夜を共に過ごしたという事実があれば勝手に周りが勘違いしてくれるであろうよ」

「……第三の選択肢はありますか?」

「あるわけないだろう」

 背後は壁。目の前は陛下。

 寵姫か、陛下付きの女官か。こんなもの選択肢として比べようがない。

 そういうわけで、腹を括って女官になりますと申し出たのだった。



 あれから五年。陛下はあの時の私と同じ十五歳。皇族ならば子どもの一人や二人いてもおかしくはない年齢だ。

 だというのに、まったく妃に手をつけていない。一部では男色かなどと噂が出るほど。

「宰相様が嘆いていましたよ。さっさと紫宮にでもどこでも通ってくださいな」

 などと進言しても、

「面倒だ。わたしはまだ独り身でいい」

 の一点張り。

 私はそこまで気にしていないのだが、黙っていないのが高官たち。何度も進言に行くが、そのつどすげない返事をしているという。

 ついに、例のお気に入りの女官、つまり私でもいいからさっさとお世継ぎをなどと言い出す者まで現れる始末。

 すると陛下は意地悪く笑って言うのだ。

「あのときの話はまだ有効だぞ? 紫宮を選ぶか?」

 まさかそんなとんでもない選択ができるわけがない。寵姫などありえないというのは今も変わらない。

 だが、たまには戯れに乗るのもやぶさかではない。


「星綺のような可愛らしい娘を嫁にもらってくださいな」

 星綺に教わった通りに優雅に礼をしてみせると、陛下は渋い顔をしたのだった。

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