書評集
火野佑亮
長谷川三千子「からごころ」
日本人の多くは、そもそも「日本人とはなんぞや」という問いにぶつからずに一生を終えてきた、あるいは終えていくのだろう。
私はそんな無自覚な人間たちに一種の「おぞましさ」を覚える。だがそれは向こうからしても同じことで、同じように私のことを見て「おぞましさ」を感じるであろうことは容易に想像がつく。
長谷川三千子氏の「からごころ」は、そんな如何ともし難い日本人への「おぞましさ」と真正面から向き合った思索の記録だ。氏の明晰な論理展開が、「おぞましさ」の正体、宣長が警戒した「からごころ」の正体、そして「からごころ」と「いにしへごころ」の関係性を次々に解き明かしていく。
日本人は情緒の民族である。「無知の悟り」とでも言おうか、現在の「漢字かな交り文」はその得体の知れぬ能力の産物だ。争わず、受け容れること。ごく自然に洗練させていき、気付けば自分たちのものになっている。危うささえ感じさせる手際のよさだ。だがその能力は、海によって外つ国との交易が制限されていた時代だったからこそ、有効だったのではあるまいか?
私は日本の未来に対して、ほぼほぼ諦めがついている(経済も軍事ももうお終いだ)。だが外つ国に骨を埋めようなどという意思は毛頭ない(そんなことが出来る財力もない)。
日本人はそもそも「無知の悟り」から抜け出せるのか。私はその精神の夕焼けと、せめて歯噛みしながら対峙していこうと思うのだ。
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