第六十四話 花見川遡上作戦

 下総国検見川けみかわ。房総往還の結節にあたり、花見川はなみがわの河口に位置する、この時代特に栄えた商都の一つである。

 この商都に、鎌倉公方そして関東管領の大軍が集結していた。

 大船はここで荷を下ろし、平底船に荷を移す。おびただしい数の平底船は、花見川の河口から上流に遡るため、馬に繋がれ、順序良く列をなして川を遡って行く。日ノ本の川という川は交易路として利用されているから、見慣れた風景といえるかもしれないが、舟の数が膨大に過ぎた。おかげで川の水位が上がり、溢れて洪水になるのではないかと、心配になったほどだ。

 武蔵や相模から馬や徒歩かちで集まった軍は、編成し直して、花見川沿いの道は大軍の運用が難しいため、一旦千葉城へ行き佐倉街道を北上して佐倉城へ向かわせた。


 下総国にある花見川という川は現代日本では、増水時の印旛沼の水を東京湾に逃がす、印旛放水路(新川)として知られている。印旛放水路が戦後高度経済成長期に整備されるまでは、江戸幕府が行った利根川東遷事業によって印旛沼周辺に頻発することになった水害対策のため、江戸期には何度となく工事が試みられた。しかし、その試みはすべて失敗に終わり、少なくない人命が失われたという。失敗の原因ははっきりしていた、印旛沼から自然流下によって放水するためには最高点から高さにして5メートル以上掘り下げ、川を堀り直さねばならないのだ。つまり、花見川に接続させる川の流れを逆行させようという難工事であり、膨大な量の土砂の処理を人の手で、もっこや鍬で、扱おうというのである。難工事という言葉が軽く見えるほどの不可能事であったとも言える。


 とにかく、川でも谷でもなかった部分を、大凡(おおよそ)2kmに渡って掘削しなければならず、さらに従来河床であった部分では、化土けどといわれる過去何万年もの間に堆積した腐食した植物質の軟弱な地盤を、安定した岸を維持しながらどうやって掘り下げるかが問題だった。土木作業機械やコンクリートのない時代には不可能な工事であったといえる。当時の工事責任者に名を連ねた、かの悪名高き勘定奉行の鳥居耀蔵がいかに辣腕であろうと工事を完遂することはできなかったのである。


 閑話休題それはさておき、俺と左京ら鎌倉府遠征軍は佐倉街道を行く関東管領軍と分かれ、検見川湊から、花見川を遡上することにした。川の両岸に道を広げながら上流へ向かう。両岸から渡した馬に曳かせて上って行き、花見川の源流に近い東岸の比較的地盤の良いところにひとまずの集積地を作る。そこは犢橋こてはしと呼ばれる土地である。特に急峻な崖地を選んで、石で階段を作り坂を上って、一帯の木を伐採して、それらを組み合わせ造ったクレーンを据え付けた。滑車を利用した、人力でも扱いやすいものである。もともと、西伊豆の伊豆石の切り出し場で試験運用をさせていた具連クレーンである。据え付けてからすぐに稼働が始まった。ロープ? 綿糸で作った。藁縄わらなわではすぐ切れるから。


 千葉領であり、佐倉城にもほど近いにもかかわらず、この一帯の領主、豪族は首を連ねて鎌倉公方の陣に挨拶に訪れた。花見川の流域には2kmに一つは城がある。川関を設け、通行料を取るためである。どれもどうということのない小城ではあるが。あまりの大軍に怯えたのであろうか。駆けつけた付近の領主だが悉く千葉の支族であった。自らを千葉宗家と称する岩橋輔胤は来なかった。関東管領上杉兵庫頭憲房が意外に事務能力を発揮して、俺への面会者を抑え、俺はやりたいことを邪魔されずに過ごすことができた。戦時故に川路は皆開け放し、関は閉じさせた。喜んだのは商人である。


 集まった商人は関が閉じているこの機に花見川を上りたがった。しかし、我々がほとんどの船を徴発しており、彼らが使える舟はない。そこで、舟に積んだ荷の隙間に、兵士に心付けを出して載せてくれるよう依頼するのである。どうせ、いくら禁じても必ず密かに受けるものが出るだろうという訳で、商人用の舟をしつらえ、荷のかさ・・か重さで料金を取って運ばせることにした。


 交易路に使われていた道はクレーンを効果的に利用するには勾配が足りず、クレーンを設置する場所を見つけるのに時間がかかった。こういう調査などは風魔衆は実に役に立つ。犢橋こてはしとは、牛を連れて登る坂を指していたらしく、九十九折つづらおりの危なっかしい道を商隊が牛に荷物を積んで上がっていく。牛は近在で飼われているもののようだ。急斜面を階段状に削り、石を嵌め込んでの階段を作る。


 木材は、俺が縦引きの大鋸を流行らせてから、関東、特に内海東京湾周辺では非常に潤沢に使えるようになっていた。板材は元々は、斧で割れ目を作り、楔を打ち込んで割り、ちょうな槍鉋やりがんなで仕上げて板材にするのである。柱など木をほぼ丸ごと使える場合は良いが、板は分厚く重いものばかりで、厚みが不揃いで鉋で厚みを揃えなければならず、一枚一枚無駄が多かったので、高価であった。そこへ行くと縦引き鋸は非常に効率が良かった。うん、鉋も作った。二枚刃の台鉋だいかんなだ。勝子に寺を建てるのに他にもいろいろやっちまった感はあるが、それが役に立ったかな。木材の流通が大きく変わっていた。原木を現場に運び込み、現場で材木にしていたのが、木材の形で流通するようになった。現場で処理に困るほど出ていた端材、鉋屑は少量になり近在の住人が焚付けとして喜んで引き取ってくれるようになった。


 クレーンを据え付けた場所の傍に物資の集積地が出来上がるのは当然だ。高床式の倉庫が幾つも作られた。花見川は幅があまりなく、蛇行も少ないので、川の両側を切り開き踏み固めた道を広げて、両側からロープを渡し、船を曳いた。船には何本もの材木を引かせた。もちろん、兵士や作業員が住む小屋も作られ、いつの間にか娼家や酒売りが集まる様になり、その後町をなしていった。そこから、印旛沼に繋がる勝田川の支流が1kmほどのところにあり、森を切り開いて道を通せば花見川、勝田川を利用した交易路が出来上がったのである。


 花見川から犢橋こてはしを登ると、その向こうに勝田川(の支流)が北方向に流れている。勝田川は、さらに北上し神崎川と合流し印旛沼に注ぐ。犢橋こてはしを登った辺りは横戸と呼ばれる土地であった。そこは犢橋こてはしの崖地から概ね勝田川へ概ねゆるやかな斜面になる。そこを、コロに乗せて舟をゆっくりと運び下ろし、勝田川に浮かべる。


 勝田川に船を浮かべ、同時に舳先へさきの喫水線あたりに衝角を取り付けた。物質を積んで花見川を上った船はことごとく、引き上げられ、臼井城と佐倉城攻略の水軍船となった。当座は臼井の水賊殲滅である。外海の荒れ狂う波に鍛えられた、三浦、伊豆の海賊衆が静かな湖面しか知らぬ印旛衆に後れを取ることはなかろう。


 佐倉城は印旛沼の中ほど大きく蛇行したほぼ南端に位置し、沼に突き出た半島を形作る山に築かれている。千葉から佐倉に向かう関東管領軍だが、輜重隊が伴っていないため、千葉を発して二日目には佐倉に着くことになる。

「飯は総代様が用意してくれる。安心して進め」


 花見川沿いに構築した物資の集積地からは、東へ10キロほどのところに、陣を張った管領軍に、温かい粥と炙った干物等の糧食を供給した俺は、兵庫頭憲房殿と打ち合わせを終えた。万事順調。今季二度目の戦ということもあり、兵も兵糧も集まらない、佐倉千葉家岩橋家は籠城して耐えるようだが、果たして古河公方が救援に来ることができるだろうか。結城家頼みの古河公方だが、宇都宮辺りが呼応したりすると厄介なことになる。しかし、宇都宮は古河の更に向こう、軍勢を動かすまでに一月はかかるはずだ。それまでに何とかしてしまえば良い。以前佐倉会を攻められた時は、西方の臼井城に逃げそこで籠城したらしい。臼井城も籠城の構えだ。

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