第六十三話 関東名族を考察する

 八介(はちすけ)という言葉がある。

 例えば、千葉介ちばのすけ。例えば、三浦介みうらのすけ

 代々に亘って、その国又は地方の在庁官人の介職(国司の副官)に任官されてきた、「苗字(本貫地の地名)+介」という特別な名乗りを行っている八つの家の当主をそう呼ぶ。

 

 大内介、富樫介、井伊介、狩野介、三浦介、千葉介、上総介、秋田城介で、八介である。秋田は少々特殊で、もともとは陸奥国安達郡を本貫とした、安達氏が出羽介に任じられ、出羽秋田城に赴任しないまま出羽秋田城介を名乗り、出羽城介が元来陸奥の鎮守府将軍に準ずる格の令外官であることから、出羽城介転じて秋田城介は他の七介と並び称された。関東の家が四家あるのは武士は板東ということなのだろう。


 八介の中でも、上総氏は、上総国が親王任国の一つであり、実質の国司が上総介であることから、上総氏が上総権介を世襲することは、他の七介に較べ特に高い権威を意味し、関東平氏総領と目されていた。ところが、上総氏は、源頼朝に滅ぼされてしまっており、分家の千葉家が、戦国時代にあっても存続し、上総氏の後継と見做され八介筆頭としての家格を保持している。千葉の家名は関東統治に高い価値を有しているのだ。だからこそ、古河公方と関東管領家で千葉家中の主導権争いがあったのである。なお蛇足だが、千葉家は、奥羽や九州にも分家があり、夫々の当主を千葉介と称していたようである。無論、千葉介に任官されるのは当然下総の本家のみである。


 つまり、長々と関東の名家の家格について述べたが、要は、少なくとも千葉家が存続する間は、下総国の守護御輿は千葉家でなくてはならないのである。何度となく、同族間で相争い、評判を落としに落としている千葉家ではあるが、まだまだその名前には価値がある。だからこそ、馬加や岩橋が乗っ取りを図っているのだし。とはいえ、千葉自胤は千葉という大家の当主としてはもの足りない。それに、黙って御輿として担がれているような性格でもない。従ってこのまま下総守護職を自胤に与えてはおけないであろう。


 下総では千葉宗家を自称する岩橋孝胤が、佐倉城(本佐倉は江戸期以降の呼び名)に拠っている。下総国人達は、岩橋を千葉家として受け入れているように見える。かといって、岩橋孝胤は古河公方の被官の色が濃すぎるから関東公方家が推すわけにはいかない。もっとも、今三十歳だそうだから、武将として脂の乗り切った時期であり、何をするにしても鎌倉の圧力に易々と屈するとも思えない。古河公方の意に染まない行動もあるようではあるが。


 そこでの、東家とうのけである。元々は、下総の東庄とうのしょう一帯を治めていたのがとうの氏である。初代東六郎大夫胤頼とうのろくろうたゆうたねよりは文武両道に秀で、源頼朝に親交を得、挙兵の折には、父千葉介常胤を説得し、一族をして頼朝陣営に味方せしめた。千葉一族にとっては、頼朝という勝ち馬に乗ることを決定づけたのが東氏初代であり、千葉家の分家の中でも家格は高く、千葉家を名乗る係累ならば一目置かざる負えない存在なのだ。足利幕府開府時に美濃国郡上一帯に領地を得て、足利尊氏に仕え奉公衆となったのが、この東氏の分家で東常縁の一族である。この一族は、武力もさることながら、和歌に長じる者が多く、東常縁は二条流歌人の大成者として、高名であった。なにかと有名な古今伝授を始めたのもこの東常縁である。

 

 血筋はともかく、鎌倉入部した関東公方の後ろ盾があれば、権威も実績も申し分ないといえる。東常和を自胤の養子に入れるにあたっては、本来なら下総東庄とうのしょう東氏とうのし総領家にも気を遣わねばならない。しかし、常縁の系統が高名であること、幕府奉公衆として任官し、正式な官位も得ていること(大抵の武士は自称)、何より、馬加・原の謀反人を討ったのが常和の父の常縁であること、また東家総領家の当主の父親が千葉一族とはいえども原氏出身であり東氏本流からやや血が遠いこと。婿が継いでその子胤久が現在の当主であるが、原一族の本流が馬加家と共に下克上した謀反人一族という面を押せば、強く反対はしないだろう。


 まあ、未来の絵図はともかく、現在千葉の地に自胤が行ってしまったのは事実。千葉家の守護神でもある妙見菩薩を本尊とする千葉妙見宮(北斗山 金剛授寺 尊光院)は妙見信仰の中心である。千葉の当主はここで元服することになっている。また、かっては、鎌倉鶴岡八幡宮から八幡神を勧請し弓箭神(戦神)として共に祀られていたこともあるため、源氏の総領たる足利の名で守り神の八幡が祀られる千葉の地を攻めるわけにはいかない。自胤の説得には時間がかかりそうだ。俺は、溜息を零した。千葉は方向性が決まっている。だが、それから他はどうする。


 関東八屋形という言葉がある。鎌倉府創設時に定められた、鎌倉公方を補佐すべき八家のことである。屋形号とは、『お屋形様』という尊称の、あれである。屋形号は幕府の免許制であった。更に権威が上の尊称になると、『御所』というものがある。御所は、皇族や摂家、源氏、足利氏、北畠氏の屋敷をいうが、皇族と、最上級貴族、『将軍』に任官した家ということになる。俺も、最近は堀越御所ひいては伊豆一国の差配を親父から譲られたせいで『御所様』とか『若御所様』とか呼ばれることがある。他に御所号は、関東では世田谷と蒔田を領する吉良氏が有している。


「八屋形か」

 宇都宮氏、小田氏、小山氏、佐竹氏、千葉氏、長沼氏、那須氏、結城氏の八家を指す。見てわかる通り、下野、常陸、下総と古河公方側の家がほとんどである。いずれも守護を出す家柄ということだ。八家のうち現在小田、佐竹は家臣を鎌倉に使いに寄越している。千葉はともかく、結城はあの少年当主だが、形式上出仕はしているが、旗幟を鮮明にしてしているとまでは言えない。


 問題は、強力な家が多いことである。佐竹家しかり、結城家しかり。そして、中でも……

「宇都宮か。奇跡の武人などよくも恥ずかしくもなく言えるもんだ」

 『奇跡の武人』とは後世で評された、現宇都宮家当主下野守成綱のことである。下野国守護のこの男はこの時代の関東での、疑いもなく知勇兼備の最強クラスの武将チート野郎の一人である。


「佐竹は、山入に後背を脅かされているのに、よくぞ出仕してくれたもんだ。あ、いや、だからこそか」

 現当主佐竹義舜は宇都宮成綱のライバルといえる。佐竹氏は、北に山入佐竹氏という分家の京都扶持衆がおり、その動向に常に神経をとがらせていた。だからこそ敵は増やしたくないということなのだろう。


「小田は、ジリ貧だな」

 八屋形の一翼を担った小田家も、今は昔。昔日の面影は見る影もない。中興の祖といわれる小田政治が生まれるのはまだ先である。実はこの小田政治は、俺のまだ生まれていない弟のはずである。史実では親父が死んでから生まれたということだ。どういう経緯で養子になったのかは詳しくは知らぬ。


 俺が物思いに沈んでいると、庭にツツ丸が立った。

「何があった」

「千葉自胤殿、下総は生谷おぶがいなるところで、岩橋勢に破れ、敗走いたしました」

「負けたか。どこまで逃げた? 千葉か?」

「武蔵国石垣城にて」


 思わず天を仰ぐ。元の木阿弥かよ。まあ、良い。これで、シナリオは廻るだろう。

「そうか、父上と関東管領殿に話さねばならん。岩橋は、一度叩いておく必要がある。左京!」

「は」

 ずっと控えていた左京に命じた。

「下総、東武蔵、上総に動員をかける。対陣中の兵糧は、鎌倉で持つと云え。俺は父上に御教書を願いに行く。それに、結城、佐竹、那須、宇都宮からも兵を出すよう、公方様に文を出してもらおう」

「畏まりました。兵を出すよう命じても何のかんのと理由をつけて兵は出さぬでしょうが、古河の援軍の牽制にはなりますな」


 左京が部屋を出ていく。さて、関東では初の戦になる。自ら主導するという意味でも初めてだ。

「ツツ丸。お前にも頼みがある」

「何でしょうか、若御所様」

 下総で戦をするにあたっては、面白い悪戯を用意しているのだ。


 

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