第14話 春間マリーと甘い生活

「うむむむ……」


 リビングで預金通帳をテーブルに広げて、残高と睨めっこをする。


 さて、どうしたものか。


「おはよう、テル。

 朝から難しい顔をして、どうしたの?」


 彼女は後ろから僕の肩に手を乗せてきた。


 背中に密着し、豊かな胸の膨らみを押し当てながら、肩越しに僕の手元を覗き込んでくる。


「んっと……。

 お通帳?」


 春間マリー。


 この愛らしい少女は、僕の大切な恋人で、元飼い猫だ。


 背に押し当てられる柔らかい感触に、ドギマギして顔を赤くする。


「お、おはよう、マリー。

 えっとね。

 もうすぐゴールデンウィークでしょ?」


「うん。

 そうだね」


 マリーは肩に置いた手を僕の胸板にスライドさせて、背中に引っ付いてきた。


 自分の頬と僕の頬を擦り合わせながら頷く。


 どきどきしながらも、僕はなにも言わずにじゃれつく彼女を受け入れる。


「それでせっかくだし、どこかふたりで、旅行にでも行けないかなって思って」


「んにゃ?

 旅行?」


 彼女が唇でほっぺをついばんできた。


 ちゅっちゅっと音を鳴らす可憐なその唇は、少し濡れている。


「うん、旅行。

 前にね、テレビを観ながら、旅行に行きたいなって言ってたでしょ?」


 少し首を捻って、彼女と顔を見合わせた。


 先ほどから僕の頬をついばむマリーの、ぷっくりと膨らんだ蠱惑的な唇をついばみ返す。


 お返しだ。


「にゃんっ。

 テルってばぁ」


 甘いスキンシップにやっぱり恥ずかしくなった僕は、もう耳まで真っ赤だ。


 けれども彼女はますます体を密着させてくる。背中越しに伝わってくる体温が暖かい。


「……でも、テル。

 旅行って無理をしていないの?

 私はね、こうしてテルと一緒にいられるだけで、とっても、幸せなのよ?」


「無理なんてしてないさ!

 僕はね、いまからふたりの思い出をいっぱい作っておきたいんだよ」


 明るく応えた。


 心配なんて吹き飛ばすような声色で。


 彼女は僕を見つめて嬉しそうに微笑み、肩にしな垂れかかってきた。


「うん。

 私もテルと、たくさん思い出を作りたいな」


 しばらく無言でお互いの体温を感じ合う。


 けれども、そんな穏やかな朝の触れ合いを、無粋な置き時計のアラームが、ピピピッと音を鳴らして邪魔をする。


 マリーが僕から体を離した。


 背中の温もりが失われる。ちょっと名残惜しい。


「旅行、楽しみなの!

 でもその前に今日は、遅刻しないように学校に行こ!」


 彼女は朝に似つかわしい、元気な笑顔を僕に向けた。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 教壇では4時限目担当の古典の教師が、億劫そうな仕草で修了のチャイムが鳴るのを待っている。


 硬質なチャイムの音が教室に鳴り響いた。


 昼休憩の到来である。


「では、授業はここまで」


 教師は教材を畳み、そそくさと教室を後にする。

 すると辺りは途端に、生徒たちのガヤガヤとした喧騒に包まれはじめた。


 教室が活気付いていく。


「マリー!

 お昼にしようか。

 こっちの席においで!」


 席に座ったままマリーを手招く。


 その声に、教室が瞬間ひと際ざわついたあと、しんと静まり返った。


 クラスの男女の視線が一点に集中する。


 僕を凝視してくる。


 きっと彼らは『なに言ってんだコイツ? 気でも違ったのか?』なんて、そんなことを思っているに違いない。


 僕を見つめる視線のうちのひとつが、あきれた口調で口を開いた。


「はあ?

 なんだ、春間?

 お前はいつもみたいにひとりで飯食ってりゃ――」


「はーい!

 テルー。

 いまいくー」


 僕を揶揄やゆしようとする彼の言葉を遮って、教室に声が響いた。


 鈴を鳴らすような透き通った声。


 僕のマリーだ。


 彼女は今朝僕が持たせたお弁当を手に、トテテと小走りでやってきた。


 そして対面ではなく隣に椅子を引っ付けて「うんしょ」と座り、お弁当を広げた。


「はいこれ。

 飲み物。

 こっちがマリーのだよ」


 紙パックのフルーツ牛乳を手渡す。


 僕のぶんは同じくパックのコーヒーだ。


 ストローを突き刺して、コーヒーを吸い上げる。


「ね、ね、テルー。

 私、テルのも飲んでみたいなぁ」


「えっと、いいけど……。

 これ、無糖のコーヒーだけど、大丈夫?」


 ストローから口を離して、彼女にパックを手渡した。


「きっと平気だよ。

 ……んにゃ」


 僕が渡したコーヒーの紙パック。


 そこに刺さったストローに、薄桃色をした可憐な唇が添えられた。


 ちゅーと小さく音をならして、コーヒーが吸い上げられる。


「どう?

 大丈夫そう?」


 マリーが固まった。


 真顔だ。


 僕はその様子がおかしくて「ぷっ」と吹き出してしまう。


 すると彼女は泣きそうな顔になって、紙パックを突き返してきた。


「うなぁ……。

 にがいー」


「あはは、

 やっぱりそうでしょ?

 ほら、マリーはこっちのフルーツ牛乳にしておきなよ」


「……そうするー」


 マリーはフルーツ牛乳を口に含み直した。


 泣きそうだった彼女の顔が、みるみる笑顔に変わっていく。


 彼女は「あまいー。うまーあまー」なんて、変な言葉を呟きながら、上機嫌だ。


 やっぱりマリーはとても可愛らしい。


 思わず優しい笑顔になってしまう。


 微笑みながら彼女を眺めて、僕もお弁当箱を机に広げた。


 すると机には、全く同じ中身のお弁当が、ふたつ並んだ。


 中身が同じなのは当然だ。


 だってこのお弁当は、どっちも僕が作ったものなのだから。


「おいしそうなの!

 いただきまぁす」


「はい、どうぞ。

 召し上がれ」


 マリーはお弁当箱から出し巻き玉子を取り出して、ぱくっと食べた。


 小動物が食べ物を食むように、あむあむと口を動かしている。


「にゃあ、おいしい。

 テルもどうぞ、あーん」


 頬を押さえて幸せ顔の彼女は、半分齧った出し巻き玉子を差し出してきた。


 僕は小首を傾げる。


「……えっと。

 これはどっちも同じお弁当だから、僕のほうにも出し巻き玉子はちゃんと入ってるよ?」


「うん、そうだね!

 でも、食べさせあったほうがおいしいのよ?

 あーん」


 そういえば前にも同じようなことを話していたな。


 あれはキッシュだったっけ?


 たしかマリーに食べさせてもらったキッシュはおいしかった。


 ならきっとこのお弁当も、食べさせあったほうがおいしい。


「そうだね。

 マリーはやっぱり、いいことを言うなぁ」


 口をあーんと開いた。


 彼女がその口に、出し巻き玉子をポンと放り込む。


 むぐむぐと出し巻き玉子を咀嚼してしっかりと味わう。


 やっぱりおいしい。


 お弁当だから冷めてしまってはいるけど、ぷるんとした食感は損なわれておらず、噛み締めると出汁が口いっぱいに染み出してくる。


 マリーが食べさせてくれた点も良い。


 やはりどうしてか、おいしさが増している。


「テルー。

 私も、私も」


 出し巻き玉子と一緒に幸せを噛み締めていると、彼女がそんな風に言い出した。


 あーんと口を開けている。


「あっと。

 ごめん、ごめん。

 じゃあこれ。お返しだよ。あーん」


 僕のほうのお弁当箱から赤ウィンナーを摘み上げて、彼女の口に放り込んだ。


 彼女は「あむあむ」とウィンナーを食みながら、ご満悦だ。


「……えっと、あなたたち。

 ……なにをしているの?」


 声を掛けてきたのはクラスの女子だ。


 僕とマリーのお昼ご飯に、クラスメイトの女子生徒が割って入ってきた。


 なにか用だろうか。


 僕たちの団らんを邪魔するなんて、ちょっと無粋だと思う。


「……んと。

 なにって、お昼を食べてるだけだけど」


 マリーの顔をみた。


 そして「そうだよね?」と確認する。


 すると彼女も「うんうん」と肯いた。


「お、お昼を食べてるだけって……。

 というか、春間くんってそんなキャラだっけ?

 もっとこう根暗というか。

 ……あっ、ごめんなさい」


「いや、別にそんなこと、気にしないけど」


 そもそも根暗は本当のことだしね。


 なんとなく気になって教室を見回した。


 女子生徒たちは驚いた顔をしたままこちらを見ている。


 男子生徒たちはまるで、親の仇でも見つけたかのようなきつい目で、僕のことを睨んでいた。


 でも彼らのことは、正直どうでもいい。


 僕の目には、彼らなんて灰色にしか映らない。


「どうしたの、こっち見て。

 みんなも昼ごはんにしたら?」


 それ以上クラスメイトたちのことは気にせずに、マリーとふたり、お昼の時間を楽しんだ。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 午後の選択授業。


 数クラスの合同で行われる、特殊な授業である。


 僕はこの授業では、書道を選択している。


 因みにこの授業、男女で選択できる授業が異なっていて、マリーは華道を選択していた。


 華道って何をする授業なんだろう?


 生け花とかだろうか?


 でもマリーにそんなことが出来るんだろうか?


 ぼうっと考える。


 マリーは運動センスは抜群だけど、そういった芸術方面のセンスは壊滅的な気がする。


 そんな風に彼女のことに想いを馳せていると、ひとりの男子生徒が近寄ってきた。


「よっ、テル。

 話すのは久しぶりだな」


「あ、うん。

 どうしたの?」


 声をかけてきたのは、1年生と2年生だったときに、同じクラスだった男子生徒だ。


 彼とは3年進級時のクラス変えで、別々のクラスになっている。


 この男子は僕が捻くれてしまう前に、何度か一緒に遊んだこともある相手だ。


 たしか結構いい奴だったと記憶している。


「いや、別にどうしたって訳じゃねーんだけど、ちょっと噂を聞いてな」


「うわさ?」


 なんの噂だろうか。


 その男子は僕の反応を予見していたのだろう。


 肩に大きく腕を回して僕を引き寄せ、「ニシシ」と快活な笑顔を見せた。


「転入生の、春間マリーのことだよ!

 テル、お前。

 あんな美人と上手くやってんだって?」


「マリーのこと?」


 思わず問い返すと、彼は肩から腕を離し、両手で目を覆いながら大仰に天を仰いだ。


「かぁー!

 もう名前を呼び捨てる仲なのかよ!

 お熱いねえ!」


「ちょ、ちょっと!?

 声が大きいよ。

 授業中だよ?」


 書道の教師が、僕たちのことをジロリと睨んだ。


 けれど彼はそんな教師のことなんて気にする風でもなく、僕の顔をじっと見つめてきた。


 さっきとは打って変わった神妙な態度だ。


「……なあ、テル。

 お前なんだか、雰囲気が前に戻ったよな」


「……そうかな?」


 そんなことを言われても、自分ではよく分からない。


「ああ、そうだよ。

 絶対いまのほうが良いよ、お前は。

 たしかあれ、なんだっけ?

 笑うと可愛いだっけ?

 そんな風に、女子に言われてたしな!」


 背中をばんばんと叩かれながら、からかわれる。


 彼はもう一度「キシシ」と快活に笑った。


 なんだかよく笑う楽しいヤツだ。


 僕も笑顔を返して、少しの間笑いあった。


「うし!

 なんか安心したわ」


 男子生徒は僕から離れて行く。


 その背中は灰色ではなく、なんだか色づいて見える。


「春間マリーとのことで、色々やっかむ奴らもいるみたいだけどよ。

 なんかあったら俺んとこ、相談しにこいよな!」


 うん、やっぱり良いヤツだ。


 去り際の言葉に心がこもっているのを感じた。


 そうして僕は、マリーが死んでから塞ぎ込み、今の今まで友人だったはずの彼すら無碍にしていた自分自身を、反省した。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 放課後、学校からの帰り道。


 僕はマリーと肩を並べて、家路を歩いていた。


 彼女は隣で今日の出来事を楽しそうに話している。


「ね、ね、聞いて、テル!

 華道の授業でね。

 剣山にお花をさそうとしたらね。

 勢いあまって、剣山が飛んでいっちゃったのよ!」


「え!?

 それ、大丈夫だったの?」


 聞き返すと彼女は、「それがねー」なんて楽しげに続きを話しを続ける。


 マリーが楽しそうだと嬉しい。


 なんだか僕も、つられて楽しくなる。


 ……もっと。


 もっとたくさん、思い出が欲しい。


 そんな風に思った。


 少し寄り道をして帰りたい。


 彼女を誘ってみる。


「ね、マリー。

 少しだけ、遊んで帰らない?」


 彼女は僕の提案に、両手を広げて、体いっぱいで嬉しさを表す。


「うん、遊んで帰る!

 なにして遊ぶの?」


「んっと。

 マリーは体を動かして遊ぶのが好きだから……。

 ボウリングとか」


 考えたけどそれしか思い付かない。


 あんまり遊べるスポットを知らないことを残念に思う。


 でも彼女は、僕のそんな提案を喜んでくれた。


「ボウリング?

 やったことないけど、楽しそうなの!」


「なら、決まりだね。

 ボウリング場は、すぐ近くにあるんだ」


 彼女と手を繋ぐ。


 僕たちはボウリング場へと足を運び、遅くなるまで一緒に遊んだ。


 彼女はボウリングの玉を投げるときに足を滑らせてしまって、「あいたッ!」と声を上げて尻餅をついた。


 おかしな様子に思わず吹き出してしまう。


 そのまま我慢できずに笑い声を上げてしまったものだから、彼女はぷくーっと頰を膨らませて、少しむくれた。


 でも慌てて宥める僕に、結局最後には微笑みかけてくれて、また一緒に笑いあった。


 ボウリング場を出るとき、彼女にねだられて、ソフトクリームをひとつ買った。


 沈む夕日に赤く染まった帰り道。


 ふたりで食べるひとつのソフトクリームは、思ったよりもおいしくて、なんだかとても甘く思えた。 

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