第12話 春間マリーとテルの邂逅

 家からいなくなった春間マリーを探して、外へと飛び出した。


 そうして表を走りながら僕は、彼女の向かいそうな場所を考える。


 おそらくだけれども、彼女はコンビニエンスストアや、ファミリーレストランなんかには、いない気がする。


 彼女がいるとするなら、例えば公園、路地裏。


 他にもあるかも知れないけれど、多分そういう目立たない場所なのではないかな、と思う。


 思いついた場所を、片っ端から探して回る。


 焦りに心が逸る。


「はぁ……、はぁ……」


 夕暮れどきの街を、叫びだしたくなる気持ちを抑えて走り回る。


 白猫マリーとの思い出の路地裏。


 ……ここにはいない。


 近所の公園のベンチ。


 スーパーの駐車場。


 車の物影。


 ……どこにも、彼女の姿は見つからない。


「はぁっ、はぁ……」


 諦めきれず、彼女を探して街を駆けずり回る。


 そうしている内に、次第に僕の胸を強烈な不安が焦がし始めた。


 もう彼女には会えないのではないか。


 僕はもうすっかり、愛想を尽かされてしまったのではないか。


 後悔に胸を締め付けられる。


 ◇


 次は河川敷へと脚を向けた。


 普段、運動らしい運動をしていない僕の脚は、無茶に走り回り過ぎた所為で筋肉が痙攣してしまって、もう思うままに動かなくなっている。


 けれども僕は、脚をもつれさせながらも前に進む。


 そして河川敷に到着し、彼女はいないかと辺りを見回した。


 だけどやはり、ここにも彼女は見当たらなかった。


 落胆し、疲れた脚を引き摺りながら、河川敷を後にしようと背を向ける。


 そのとき僕の目に、河を跨いで河川敷に架かる大きな橋が映った。


 ここを立ち去る前に、あそこを少しだけ確認していこう。


 そう思い立って橋へと近づいていく。


 橋の袂へ辿り着いて、その下を覗きこんだ。


 ――いた!


 彼女は橋脚の陰に身を隠すようにして座り込み、背を丸めていた。


 三角座りをして、両腕で抱え込んだ膝に顔をうずめている。


 彼女は地面に視線を落としまま、グスリとひとつ鼻を啜りあげた。


 乱れた息を整える。


 声を噛み殺しながら泣いている彼女のもとに近づいていく。


「……ねぇ、きみ」


 彼女がピクリと体を震わせた。


「こんな所にいたんだね。

 探したんだよ」


 俯かせていた顔をゆっくりと上げ、僕を真っ直ぐに見つめてくる。


「……テルゥ」


 端正な顔がくしゃりと歪んだ。


 涙で頬を濡らしながら、弱々しい声で僕の名前を呼んでくる。


 しゃくり上げながら泣く彼女の隣に腰を下ろした。


 彼女は何度も声を詰まらせては、泣きながら僕に謝ろうとする。


「ご、ごめ、ごめんなさい。

 テルッ。

 わ、私のこと、嫌いにならないで」


 僕はそんな的外れなことを言う彼女の頬をそっと撫でた。


 流した涙が頬から手のひらを伝っていく。


「嫌いになんてならないよ。

 ……それにね。

 謝るのは僕のほうなんだ」


 涙に潤んだ彼女の瞳を真っ直ぐに見据える。


 彼女もまた僕の瞳をみつめ返してきた。


「マリーの遺骨を軽々しく扱うなんて、それはたしかにいけないことだけど、あのとき、きみはちゃんと僕に謝っていた。

 なのに、僕はきみの言い分も聞かずに、怒鳴り散らして……。

 きみを部屋から追い出したりして……」


 こうして思い返すと、本当に自分のことが情けなくなる。


 彼女は肩を震わせてしゃくりあげながらも、僕の言葉に耳を傾けている。


 怒りに支配されて、ひとの話を聞こうとしない僕なんかとは大違いだ。


 頬に当てた手を離して、今度は彼女の頭を、安心させるように優しく撫ぜる。


「本当にごめん!

 僕はどうも、猫のマリーのことになると、すぐに癇癪を起こしてしまうみたいで、とても、反省しているんだ」


 しっかりと頭を下げる。


 彼女は少しだけ間を置いて息を整えてから、恐る恐る口を開いた。


「だったら……。

 だったらテルは、私のこと嫌いになってない?」


「なってない」


 即答する。


「私のこと、捨てたりしない?」


「しない」


 またも即答した。


 それでも彼女はまだためらいがちだ。


「なら……。

 なら、私、まだ、テルと一緒に暮らしていていいの?」


「もちろんだよ。

 ……一緒に家に帰ろう」


 彼女が両手を猫の足のようにして涙を拭う。


 まだぎこちない。


 けれどようやくいつもの笑顔を、僕に向けてくれた。


 ……よかった。


 また彼女と一緒にいられる。


 胸を撫で下ろしながら立ち上がり、彼女に手を差し伸べる。


 彼女がその手を掴んで立ち上がった。


「……テルに嫌われなくて、よかったぁ」


 彼女は心底安堵したという風に呟いた。


 それを聞いて思う。


 ……嫌うだなんて、そんなはすがない。


 むしろ僕は……。


 形にならない想いが胸に渦巻いている。


 判然としない気持ちを抱えながら、でもこれだけははっきりと言える。


 ――僕は、春間マリーのことを大切に想っている。


 ◇


 彼女はさっきまでの重苦しい雰囲気とは打って変わって、軽い足取りで河川敷の土手を駆け上がっていく。


 そして、土手を登りきった先の小路へ飛び出して、くるりと僕を振り返った。


 声を上げながら大きく手を振ってくる。


「テルー!

 テルも、早く登っておいでよ!」


 小走りで土手をあがり、僕を待つ彼女のもとへと向かう。


「うん!

 いま行――!?」


 目に飛び込んできた光景に、息を呑んだ。


 ライトバンだ。


 心臓が止まりそうになる。


 彼女の後方から、ライトバンが速度を緩めずに迫ってきている。


 運転席を見れば、軽薄そうな男性が、ハンドルを片手で握って、手もとのスマートフォンへと視線を落としている。


 男性は前方にはまったく注意を向けていない。


「きッ、きみ!

 後ろ!

 車ーっ!」


 とっさに叫んだ。


 彼女が背後を振り向く。


 迫りくる車に気付いて、大きく目を見開いた。


 けれども彼女は体を硬直させてしまって、なにも回避行動を取れないでいる。


「――!!」


 声にならない叫びを上げた。


 大地を蹴り、全力で土手を駆けだす。


 途端に心臓が早鐘を打ちはじめる。


(……駄目だ!)


 このタイミングでは、もう間に合わない。


 それでも僕は、全力で坂を駆けあがる。


 脳裏にマリーが車に轢かれたときの光景が過ぎった。


 瞼に焼き付いた、あの一瞬が。


 ――嫌だ。


 あんなことで大切なものを奪われるのは、もう嫌だ。


 あんな……。


 あんな、あっけない幕切れはもう嫌だ。


 もう二度と――


 もう二度と僕は、理不尽な出来事で、大切なものを唐突に奪われたくはない!


「うわあああああああーーーー!!!!」


 声帯が千切れるほどに叫んだ。


 全身全霊の力を脚に込めて、彼女のもとへと駆け抜ける。


 途端に脚の筋肉がぶちぶちと断裂するような痛みが走った。


 そんなの構いやしない。


(――神様ッ!)


 風を切って一直線に彼女のもとに駆け寄る。


 そのままの勢いで彼女に飛びついた。


 細い体を胸に抱えこみ、体を盾にして庇う。


 背中にどんっと衝撃が走った。


(――が、はッ!?)


 どかんと大きな音が一帯に木霊する。


 こうして僕は、暴走する車に跳ね飛ばされた。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 ……ここは、どこだろう。


 気がつくと、僕は不思議な空間に立っていた。


 だだっ広くて、空と地面以外には何もない、そんな空間だ。


 首を回して辺りを見渡す。


 けれどもやはりそこには、なにもない風景が広がっているだけだ。


 戸惑いながらもどうしようもなくて、その空間にひとり立ち尽くす。


 はて?


 ここは一体どこなのだろう、と首を捻る。


「ニャー」


 途方に暮れていると、足元から猫の鳴き声が聞こえた。


 あごを引き、足もとに目を落とす。


 するとそこには、ずっと前に死んだはずの、僕の大切な存在。


 ――白猫のマリーが座っていた。


 マリーが脚に纏わりついて、体を擦りつけてきた。


 そんな様子を眺めながら、茫然とする。


 頭の中がしっちゃかめっちゃかで、現状に認識がついていかない。


 どうしてマリーがいるのだろう。


「……マ、……リー?」


 掠れた声を絞り出して、名前を呼んだ。


「ンニャー」


 マリーは呼びかけに応じて、ますます体を擦りつけてくる。


 もう一度、マリーに呼びかけた。


「……マ、……リー?」


「ニャーン」


 マリーは僕の足の間をクネクネと歩き回ってじゃれついてくる。


 まるで昔みたいに。


 今度はしっかりと声を張り上げて、マリーの名前を呼んだ。


 夢中になって抱き上げる。


「マリー!

 マリー!

 マリーッ!」


 ようやく頭がマリーを認識する。


 抱き上げた白い猫の身体から暖かな体温が伝わってきた。


 たしかにいま、僕のマリーがここにいる。


 抱きしめた腕に力を込める。


 腕のなかの可愛いマリーが「ギャッ」と抗議の鳴き声を上げた。


 でも力一杯抱きしめてしまう。


 僕の瞳からは、次から次へと、とめどなく大粒の涙がこぼれた。


 ◇


「ニャー。

 ニャー」


 遠くから、猫の鳴き声が聞こえてきた。


 マリーを抱きしめたまま、その声のする方を振り返る。


 するとそこには3匹の猫がいて、マリーと僕とをジッと見つめていた。


 どうやらその3匹は親猫が1匹と、その子どもらしき猫が2匹みたいだ。


 僕はマリーを抱き抱えながら、少し離れた場所のその猫たちを見遣る。


 どうにもどこかで見た覚えのある猫たちだ。


 3匹の猫たちをじっと見つめていると、親猫が空に顔を上げて、もう一度小さく鳴いた。


 その親猫につられて、僕も空を見上げる。


「…………なに。

 ……あれ」


 そこには強烈な存在感を撒き散らし、見るもの全てを畏怖させるような強大ななにかが、途方もなく大きな渦を巻いて存在していた。


 いつか写真で見たことのあるスーパーセルとかいう巨大な雲に近い姿だろうか。


 でもこの存在は、そんな雲なんかより遥かに恐ろしく、そして厳かだ。


 その圧倒的な存在を前にした僕の唇から、勝手に言葉が零れ落ちた。


「……神、さま?」


 呟く僕に、その存在が意識を向けた。


 無意識に、胸に掻き抱いたマリーを庇う。


 電撃みたいな強烈な衝撃が全身を貫いた。


 そして僕は、その神々しく荘厳な存在の意思を全身に浴びて、暗闇を落ちていくようにして意識の手綱を手放した。


 ◇


「……ん?

 ここは?」


 次に気付いたとき、僕は真っ暗闇の中にいた。


 上も下も分からないような暗闇だ。


 けれども僕は、胸に抱いた小さな存在に確かなぬくもりを感じている。


「マリー、聞こえる?」


「ニャー」


 呼ぶとマリーが応える。


 それだけで僕はこの冷たい暗闇の中でさえ、安堵を感じられた。


 しばらくじゃれあっていると、暗闇の中にぼんやりと明かりが灯った。


 マリーを胸に抱きながら、その明かりへと近づき、目を凝らしてみる。


 すると明かりのなかには、死んだマリーの遺体と、その遺体を前にして、抜け殻になったかのように佇む、僕の姿が浮かんでいた。


 明かりのなかの僕は、なにかを遺体に話しかけて、泣き崩れていた。


 ◇


 次にまた、別の場所に明かりが灯った。


 今度の明かりには、クラスメイトたちの誘いを断り、邪険にし、彼らと険悪になっていく僕の姿が浮かんでいた。


 また他の明かりが灯され、その明かりのなかでは、広く冷たい家にひとり佇み、表情を暗くする僕が浮かんでいる。


 その後も、次から次へと暗闇の中に明かりが灯され、次第に感情を失い、笑わなくなっていく僕の姿が映し出された。


 ふと気付く。


 どうやらこれらはすべて、誰かが眺めていた僕の姿らしい。


 その明かりを眺めながら、腕のなかのマリーをぎゅっと抱きしめた。


「これは……。

 もしかして、マリーの記憶なの?」


 マリーは問いに応えない。


 つぶらなその瞳を開いて、真っ直ぐに僕を見つめるだけだ。


 だけどわかる。


 これはマリーの記憶だ。


 マリーは死んでからも、ずっと側で、僕を見守っていてくれたのだ。


 そのことに気付いたとき、世界を覆っていた暗闇が消え去った。


 辺りをまばゆい光が包み込む。


(――ッ!?)


 眩しさに目を細めた。


 マリーを抱いていた自分の腕をみる。


 そこにはもうなにもいない。


 けれども代わりに。


 僕の目の前に。


 手を伸ばせば直ぐに届きそうなそこに――


 彼女が。


 春間マリーが立っていた。


「……きみは、マリーだったんだね?」


 世界が崩れ始める。


 彼女が笑った。


 それは春の木漏れ日のような、優しい微笑みだった。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


「馬鹿野郎、気をつけろ!」


 わずかばかり意識を失っていた僕の耳に、そんな罵声が飛び込んでくる。


 僕は目を開けて、声のするほうを見遣った。


 目に映ったのは、スマートフォンを操作しながら、ライトバンを暴走させていた男性だ。


 彼は前を見もせずにバンの窓から顔をだして、僕らを怒鳴りつけながら、走り去っていった。


「……あいたたた」


 腰を抑えながら、体を起こす。


 怪我はないか全身を眺めてから、はっと思い出して、すぐそばで倒れ伏している彼女をみた。


「だ、大丈夫だった?!」


 彼女ににじり寄ってその細い体を隈なく確認する。


 どうやら派手に転倒こそしているものの、僕たちふたりとも怪我のひとつも負ってはいない。


 はて?


 おかしいぞ?


 たしかに僕は、彼女を庇って、先ほどのバンに大きく跳ね飛ばされたはずなのだけど。


「……う、うぅん」


 ひとり首を傾げていると、そばで倒れていた彼女が起き上がって、頭を振った。


 そして彼女はきょろきょろと首を回して僕を見つけると、大慌てで擦り寄ってきた。


「テル!

 大丈夫だった!?」


 しっかりと肯いて、彼女を安心させる。


「うん。

 大丈夫だったよ」


 彼女は胸を押さえて安堵の息をひとつ吐いてから、両目を吊り上げてぷんぷんと怒りだした。


「もう!

 本当に酷い運転手なの!

 テルになにかあったら、許さないんだから!」


 遠くの車に気勢を上げる彼女を、「まあまあ」といって宥める。


「ふたりとも無事だったんだから、もういいよ。

 それより……。

 それより、ね」


 腕を伸ばして、可憐な頰に手のひらを添えた。


 まっすぐに言葉を伝える。


「おかえりなさい。

 …………マリー」


 僕の言葉に、彼女が一瞬硬直した。


 けれども直ぐに硬さをほぐして抱き着いてきた。


「うん、ただいま……。

 ただいま、テル!」


 彼女は笑い泣きのような表情を浮かべている。


 そして指で涙を拭ったあと、これ以上ないほど幸せそうな顔で笑った。


 僕はそんなマリーの笑顔に負けないくらいの、心からの微笑みを返した。

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