那美子の誤算
紫 李鳥
第1話
那美子は前髪で瞼ギリギリまでを隠し、マスクをすると、借家から20分ほどを歩いて紡績工場まで行く。
「ブスちゃん、おはよう」
嘲笑の混じった皆の挨拶。16から勤めて5年。もう慣れっこだった。
紺色の作業着に着替えて、タイムカードを押す。
ブーゥーゥー……
作業開始のベルと共に、9時~17時まで黙々とボビンの糸を紡ぐ。
マスクを外すのは昼食の時だけ。食堂の隅が那美子の指定席。目の前は絵も飾ってない、脂で煤けた壁。そこが、誰にも顔を見られずに寛げる那美子のお気に入りの場所。
雪を被った山並みが見える景色のいい窓際は、いつだって他の皆が占領してしまう。
けど、贅沢は言わない。誰からも顔を見られずに済むことが那美子は幸せだった。
「早く貯金して整形すりゃいいのに」
「あんた、ここの給料じゃ無理よ。無職のおっ母さんがいるんだろ? 家賃払って、食費やなんやで貯金どころじゃないさ」
「あの顔じゃ結婚も無理だろうし。この先どうすんだろうね」
「ずっとこの工場にいるだろうね。他に生きる道はないっしょ」
女工たちの無責任な会話が背後で飛び交っている。
……いつものことだ。
食事を済ますと、顎に引っ掛けていたマスクを分厚い唇に戻し、トレイを手に平然と皆の横を過ぎる。
そして、また
ブーゥーゥー……
作業終了のベル。
ロッカーに作業着を掛けると、毛玉が付いた伸び切ったカーディガンを着て、手編みのマフラーを巻いて帰り支度。
打刻。
「お疲れさーん」
「また、明日」
声を掛け合う皆。
だが、那美子に声を掛ける者は誰一人いない。
そして、ぬかるんだ雪解け道を帰宅。
こたつで編み物をしている母親の稜子は、上目遣いで那美子を一瞥。
那美子は一人分の食事を作ると、自分の部屋に入り、マスクを外してテレビを点ける。そして、テレビを観ながら食事を摂る。この時が那美子の
那美子にはもう一つ楽しみがあった。それは、宝くじだった。
その日も、5枚買ったクジを1枚1枚、新聞の当選番号と照らし合わせていた。
「そんなもん当たるわけないだろ。どうせゴミになるだけじゃないか。その分蓄えて整形代に充てたらどうだい」
毎度の宝くじの購入に稜子は呆れていた。
……ハズレ、……ハズレ。――そして最後の1枚。
アッ!
その、心の叫びが聞こえたのではないかと、ハッとして稜子を視た。稜子は編み棒に視線を落としていた。那美子は、その1枚を素早くカーディガンのポケットに入れると、他の4枚を大袈裟にクシャクシャにしてみせた。
「ほら、ご覧な。言わんこっちゃない。また整形が遠退いたね。クックッ……」
嘲笑った。
……フッフッフ……笑うのはア・タ・シよ、母さん。
――工場から那美子の姿が消えた。そして、借家からも……。
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