燕窩

かがち史

燕窩


 ミャオの男は崖を登る。


 高さ百メートルを越える、大洞穴の岩壁だ。



 その洞穴は、遥かな太古からそこにあった。

 滔々と流れる深緑の河をさかのぼった先、舟でしかたどり着けない険しい岩山に、ぽっかりと空いた巨大な穴。

 龍が眠るのにも大きすぎるだろうその穴の主は、遠目には羽虫の群れにしか見えない、素早く飛び回る小さなもの――断崖に巣を作る穴燕あなつばめだ。


 産卵の時期、何百何千という穴燕がこの洞穴にやってくる。崖の窪みに営巣し、卵を産んで育てるためだ。それ以外の生のほとんどを、この鳥は空中で過ごすという。睡眠も交接も飛びながら行うこの生粋の空の民が、唯一地に足をつけるのが、次代を育てるその時だった。


 今も飛び交う矢尻のような小鳥を見上げ、男は崖を登っていく。



 右手、右足。

 左手、左足。



 断崖絶壁に命綱などない。あるのは自然に生まれた岩壁の亀裂、僅かな手掛かり足掛かりだけで、それを捉え損ねれば、真っ逆さまに下へと落ちる。洞窟の底には深々と流れが満ちているものの、同時に、舟が乗り付けるだけの岩場もある。


 落ちてしまえば、そこまでだ。



 右手、右足。

 左手、左足。



 遥か地上に置き去りにしてきた、確かな足場からは目を逸らし、男はただ、頭上の目標だけを見据えて全身を動かす。



 右手、右足。

 左手、左足。



 堅固で無慈悲な絶壁に見えて、その実、そこには確かな『道』があった。

 指先がようやく届く亀裂の並び。爪先がなんとか置ける出っ張りの数。しがみつくようにして僅かの休息をとれる狭い岩棚。それらはすべて、何十年、何百年の月日をかけて、先人たちが刻みつけてきた足跡だ。


 この断崖の登り方を、男は父から受け継いだ。父は祖父から。祖父はまたその父親から。遠い遠い昔から、男たちはこの洞穴の壁を登ってきた。

 足元にぽっかりと口を開く、死の恐怖。

 それをねじ伏せ、危険を冒すだけの価値が、ここにはあった。


 ――それこそまさに、燕窩つばめのす

 穴燕が断崖に設えたそのねぐらこそ、彼らにとって、最も重要な宝物だった。


 それが高級食材としてもてはやされ始めたのは、いつの時代だったのだろう。男が知る限り昔から、それは村一番の収入源だった。

 藁屑や枝切れ、泥などの不要物を水洗いしながら丁寧に取り除き、飴色に透き通った部分だけを残して乾燥させれば、驚くほどの高値で売れる。滋養が高く、珍しく、なおかつ縁起の良い食材として、都市の好事家たちが買い求めるのだ。


 燕は縁起のいい鳥だ。

 多産ゆえに子宝を運ぶとも言われるし、稲田の虫を喰らうことから、豊穣と金運の象徴ともされる。遥かな昔、天下を制した男の母親が、燕の卵を食してその男を産み落とした、などという話もある。


 今、断崖を登る男の長女も、それらにあやかり名前をつけた。昭燕、と呼ぶと、赤子は自分の父親を見上げて嬉しげに笑う。

 その小さな命のために、男は、この過酷な岩壁に挑んでいる。



 右手、右足。

 左手、左足。



 ――穴燕の恩恵に、翳りが見え始めたのはいつからだろう。


 街の商人たちはその『食材』に、以前ほどの高値をつけなくなった。

 売れなくなったのかと聞けばそうではない。むしろ需要は伸びる一方だという話で、それならどうしてと尋ねれば、南の国から遥かに大量の燕窩が出荷されるようになったのだと答えが返った。


 数が増えれば、値が下がる。

 その値が危険に挑む価値を下回った時、苗の人々は、燕窩採りから手を引いた。

 安定した大地に両足をつけ、日々の糧を得るほうを選んだ。米を作り、野菜を育て、若者たちは遥か遠くへと出稼ぎに行った。


 伝統などより、今日の空腹を満たすほうが大事だった。



 右手、右足。

 左手、左足。


 右手、右足。

 左手、左足。


 右手、右足。

 左手、左足。



 燕窩を見限った人々の中で、男の家族だけはそれを続けてきた。


 高値で外に売れなくとも、村の中だけでも消費はある。あるいは祝いの宴席で、あるいは病人に精をつけさせるために、縁起物の薬食として求められる。そのために男は、決まった季節には断崖を登り、危険を冒して燕窩を集めてきた。

 父親の代には、村の代表として大洞穴への祭り役も引き継いだ。

 そんな自分たちを、体よく皆のお荷物を押し付けられ、時代に取り残されていくだけの存在だと男は思っていた。


 あの日、都会のテレビカメラが村にやって来るまでは。



 右手、右足。

 左手、左足。



 苗の村にも電気は通り、小金持ちの家にはテレビもあった。

 きらびやかな都会の生活を映すその電化製品は、多くの若者を出稼ぎへと駆り立てた。男自身、妻子を連れて都会に出ようと思ったこともある。母が病弱でさえなければ、きっとそうしていただろう。


 ――そんな『憧れ』を映す存在だったテレビのカメラが、ある時、村を訪れた。


 小綺麗な衣服に身を包み、たくさんの機械を抱えた彼らの目的は、古くから燕窩を採取してきた苗族の伝統――男の家だけが継いできたその技だった。

 命綱ひとつなく断崖を登って穴燕の巣を採る、それがどれだけスリリングなことか、その絵面でどれだけ多くの視聴率が稼げるか。そんなことを熱く語られ、最初は不審がっていた村長も、じきに撮影に許可を出した。


 そして、老いた父親に代わって男がいつも通りに絶壁を登ってみせ――

 その映像で、苗の村への観光客は、爆発的に増加したのだ。



 右手、右足。

 左手、左足。


 右手、右足……



 淡々と手足を動かし続け、やがて大洞穴の天井付近まで登り詰める。

 男はひと息ついた後、狭い足場で振り返り、下へと向かって手を振り上げた。


 湧き上がったのは大歓声。

 それを上げるのは、大都会や、遥か彼方の国々からの観光客だ。


 驚く数の人々が、足元の河に浮かべたボートの上で、驚異的な偉業を成し遂げた苗の男を称賛していた。彼らが手に手に掲げるスマートホンが、この雄姿を世界に広げ、村にさらなる富をもたらすことを男は知っていた。


 ぎりぎりのバランスを保ったまま手を伸ばし、窪みに用意してあった深紅の旗を大きく振ると、さらなる歓声が洞穴を揺らす。

 その反響に驚いて、巣立ちはじめの穴燕たちが、群れになって飛び回る。



 黒い翼を目に見据え、心の中、男は深く頭を下げた。






*****

【参考】

NHKBSプレミアム『秘境中国 謎の民 山頂に響く魂の歌』

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