燃えない蛇にサヨナラ
日出詩歌
第1話 彼女は死んだ
カナザキさんは死んだ。
知らない人が聞いたらちょっとびっくりするに違いない。まさか僕の隣で一心不乱にクレープを食べ続ける彼女が、9ヶ月前に死んだだなんて。そんな彼女は口の周りに赤いソースが付いているのに気がついて、子供っぽくぺろりと舐める。それから、僕にすっと差し出す。
「食べる?」
「食べないよ!」
即答した。誰がそんなもの食べられるだろうか。クレープ屋のメニューの前でさんざん悩んだ彼女は、「これにする」と言ってチリトマト味を選んだ。そこまでならよかった。だが続けてこう注文した。
「トッピング、デスソース追加で」
僕は目を丸くし、クレープ屋のお兄さんも「はい?」と聞き返した。しかしカナザキさんが冗談を言っているようではなかったので、大人しくトッピングを追加した。彼女もそうだが、トッピング欄にデスソースなんか書くクレープ屋も大概にしてほしい。
6月の午後5時はまだ明るかった。赤いワゴンの前には男女入り混じった学校帰りの高校生が列をなし、中のお兄さんは忙しなく客を捌いている。向かいのベンチには親子連れが座っていて、4歳くらいの女の子が口をクリームでいっぱいにする。それを、隣の母親がウェットティッシュで拭いてやった。
「賭けがあった方がいいって言ったの副部長だからね」
カナザキさんは僕が奢ったクレープをまたがぶりと齧った。
僕はほぞを噛んで勝敗が決した瞬間を思い出す。
太陽が傾き始め、甘い黄昏が訪れた時間。あの時部室にはゆったりとした蜜柑色の日が射し込んでいた。しかしその部屋の一角だけは空気が違った。透明な結界が貼られ、のんびりとした空間とは無縁の世界が築かれていた。しんと静まり返った中で繰り広げられるは己のプライドを賭けた戦い。僕が思考をフルに回して30秒が経ち、黒いテーブルの横に備え付けられた蛇口から、水が一雫落ちる。
ええい、構うものか。後はもう運を天に任せるしかない。僕は手を伸ばし、右を選んでそれを引き抜く。
僕の手の中で、道化師が笑っていた。カナザキさんも意地の悪い笑みを浮かべる。道化師そっくりだった。
「畜生!」僕は手札を思い切り叩きつけて叫んだ。
そんな訳で、駅前のクレープ屋でクレープを奢る事になったのだった。
「ご馳走さまでした」彼女はクレープの包み紙で口を拭いて、くしゃくしゃと丸める。おもむろに立ち上がると、足元でカナザキさんがこぼしていった滓をついばんでいた鳩が、一斉に飛び立っていく。そして彼女は包み紙を近くのゴミ箱に捨てていった。
「じゃ、帰ろ」
言われて僕はクレープ屋の前にあるベンチから立ち上がり、並んで歩く。ゲームの手強い敵の倒し方の話、今度発売されるライトノベルの話、おすすめのアニメの話…
歩いている間、僕達はとめどなく他愛の無い話をした。心をほんの少し豊かにする、そんな話を。
電車が来た。カナザキさんのほうが先だった。彼女は乗り込む間際に言った。
「楽しかったよ」
「それはよかった」
今日も安堵した。今まで何度も聞いてきた、彼女が生きたい証明だ。
「また明日、部活でね」
扉が閉まり、カナザキさんは左に流れていく。僕はそれを最後まで見送らなかった。
カナザキさんは特別な人間では無かった。特殊能力者でも、魔法使いでも無く、ごく普通の何処にでもいる女子高生だった。今なら分かる。きっと普通だったから、自殺するしか無かったのだ。
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