うっかり犯人をヤッてしまいまして。【初稿と推敲後を比較検討する】

一花カナウ・ただふみ

第1話 初稿

 宙を舞っていた小柄な男が、伯爵邸を守る先端がとがった柵に串刺しになった瞬間、あたし――タマラは思い出した。


 あ。やばい。これ、確実にやっちゃったな。


 殺してしまった――という罪を感じての感想ではない。だって、襲ってきたのは男のほうだ。殺意を抱いて狙ってきたのは相手なのだから、過剰防衛だと指さされようがあたしは悪くない。


 うん。あたしは、絶対に悪くない。


 胸に抱えた荷物をぎゅっと抱きしめる。平静を保つために。


 いや、しかし……やっぱりまずいよね?


 ここはとりあえず現場を離れて無関係を装っておこうと決める。【話】がよじれると、取り返しがつかないから。

 遠回りになるとわかっていても、タマラは来た道を戻ることにした。どうせこの霧の中では目撃者はいないだろう。かなりの早足で、すたすたと進む。


 いやいやいや、でもどうするよ、これ……


 次から次へと【前世の記憶】と【この世界の情報】が【タマラの記憶】に追加されていく。

 鼓動がどんどんとはやくなり、汗がふきだしてくるのは駆け足気味に歩いているからだけではない。

 この世界でのタマラがどんな運命をたどるはずだったのか、思い出してしまったからだ。


 ねえ、神様。あたし、ここで死ぬはずだったんでしょ?



 *****



 ――話は遡ること数分前。


 ひと気のないこの細い抜け道に入る前から、背後をつけられている気配はあった。

 同じ方向に用事があるだけなのだろうとはじめこそ考えていたが、それにしては怪しい。こんな寂れた抜け道を使う人間はこの先にある伯爵邸に用事がある使用人くらいであり、つまりはほとんどいないのだ。

 なのに、後ろには誰かがいるような気がしてならないし、その間隔は短くなっている感じすらする。


 きっと例の事件が頭に残っているから、ただの偶然を、さも今の現状に似ているだなんて結びつけてしまうのよね。あたしのよくない癖だわ。


 例の事件というのは、新聞記事にもなった【切り裂き魔の事件】のことだ。霧の街とも呼ばれているこの都市で、おそらくもっとも熱い話題だろう。すでに三人が惨たらしく殺害されている。

 こんな夕暮れで霧が紅く染まる頃のひと気のない通りに犯人は現れる。犯人に出会ってしまった被害者はみな腹を裂かれ、そこら中におびただしい血液をばら撒くようにされて亡くなっている。

 ゴシップ誌も食いついて派手に書き連ねているからか、あらゆる階級の市民の間で【切り裂き魔】について囁かれている。


 気にしすぎちゃいけないわ、タマラ。あたしはお嬢様のおつかいを済ませなくては。この小説を取り寄せるためにどれほど苦労したことか。必ずやお嬢様に、家の者に見つからないようにお届けしないと。


 伯爵家のメイドとしてふだんから所作は気をつかっているつもりだったが、少々手違いがあって時間がおしていることを思うと小走りにならざるを得ない。人目がないのをいいことに、今だけこの通りを走り抜けてしまおう――そう決めたときだった。


「……へ?」


 思わぬところから手が伸びてきた。

 自分の顔の左右から、手袋をした手がすっと出てきたのだ。

 びっくりしすぎて腰を低く落としたあたしは、咄嗟に肘を背後の人物の腹に一発喰らわせた。


「ぐふっ⁉︎」


 あたしの流れるような動作に背後の人物は対応できなかったらしかった。見事にみぞおちに肘鉄砲を食わせることに成功したあたしは、うめく何者かを確認することなく前進する。


 待って待って⁉︎ 一体何がおきたの⁉︎


 布の袋に入った小説をしっかりと抱きしめて、あたしは走る。

 相手は何らかの危害を与えるつもりで接触しようとしてきた。それを払いのけるのは当然の行動だろう。

 だが、ひとつだけ問題があった。


 あたしの今の動き……どういうこと⁉︎


 軽く混乱しているが、真剣に考えている暇はない。なぜなら、みぞおちに肘鉄を喰らったはずの謎の人物はあたしを追いかけてきているからだ。


 とにかく、この場は逃げ切らないと! お嬢様の大切な本を汚すわけにはいきませんし!


 運がないのか、ほかの人とすれ違うことはない。屋敷までの近道だからと選んだこの細い通りは、主に大通りの混雑で荷台を通せないときに使われる迂回路で、そもそもこの通りに面した建物の出入口さえほとんどないのだ。

 通りの突き当たりにある伯爵家のお屋敷が見えそうなところまで来て、ついに背後の人物に追いつかれた。


「逃すかっ‼︎」

「いやっ!」


 低い声は男性のものだ。そして少なくともあたしの知り合いのものでもない。悪戯ではないのだと確信した。


「悪く思うなよ!」


 肩越しに見やった背後の男は思ったよりも小柄だった。成人男性であれば背は低いほう。身体つきも華奢だと思う。そんな彼の手には肉切り包丁が握られている。ひどく場に不釣り合いだ。


 まずい、この距離だと刃が届く⁉︎


 濃い霧で遠くが見えない程度には視界は悪いが、あたしの目でははっきりとわかった。危険だと判断するなり、身体が自然と――いや、タマラとしてはかなり不自然な動作なのだが――動いた。


「ひっ」


 無駄なく横に移動させ、その腕が見えたところで自分が持っていた荷物を使ってからめとるようにする。

 すると、想定外の動きで腕を封じられて、包丁はあっさりと落下した。


「お前⁉︎」


 獲物は手放したが、男はまだ諦めていないらしかった。あたしを鋭く睨むと、体当たりをするように身体を傾けてくる。


「や、いやっ‼︎」


 しつこいと思いつつも、あたしの身体はなにかを覚えているかのように滑らかに動く。気づけば男から巻きつけていたはずの荷物を回収し、その上で男を軽々と放っていた。

 ふわりと空中を舞う小柄な男の姿は、スローモーションではっきりと目に映る。そして直感していた。この男が絶命する様を。


 あれ? 待って。この男って、もしかして。


 なにかが頭の中で噛み合っていく。


 霧の街で相次ぐ【切り裂き魔】による事件。

 伯爵令嬢エレアノールの滞在する屋敷の裏で起こる事件。

 エレアノールのメイドに【タマラ】という名の少女がいること。


 あたしは【知っている】の?


 まもなく男は、伯爵邸を守る柵の先端に貫かれて痙攣し、動かなくなった。


 これが、霧の街で恐れられていた【切り裂き魔】の最期だと判明するのは、もっと先の未来のことである――



 *****



「――本当にタマラが無事でよかったわ」


 いつもどおりに訪れる穏やかな紅茶の時間。

 それこそいつもどおりに紅茶とお菓子を用意したメイドのあたしに、主人であるエレアノールは優雅に微笑みながら声をかけてくれた。


 いつ見ても麗しいです、お嬢様。


 エレアノールこそが本来の物語の主人公。ふわふわの金髪に宝石みたいにキラキラとした青い瞳、磁器のように白くれなめらかな肌を持つ、人形みたいな美少女。外見も身分も申し分ない十七歳の伯爵令嬢だ。

 一方、あたしことタマラは孤児院出身で親の顔は知らない。慈善活動で孤児院に訪れたエレアノールに住み込みのメイドとして雇われた身である。

 縮れぎみの赤毛が特徴で、白い肌ではあるがそばかすが散っている。緑色の瞳は大きくて童顔なのだが、年齢は十七か十八くらいなので立派な大人だ。その証拠に、華奢ですらっとした長身でありながら胸は大きい。


「ありがとうございます。まさか、あたしが出かけている間にあのような凄惨な事件が起きているだなんて想像していませんでした」


 あたしは澄ました顔をして嘘をつく。


 夜間の警備で死体が見つかり、明け方に警察が訪ねてきたのだ。

 変な音や声はなかったか、この屋敷で妙なことは起きていなかったか、亡くなった人は知人や友人ではなかったか、などなど、いろいろ情報を収集して去っていったらしい。あたしは寝ていて知らなかったので、お嬢様が後から教えてくれた。


「ねえねえ、タマラ? やっぱりあの【切り裂き魔】に関係しているのかしら?」


 エレアノールの瞳がキラキラと輝いた。

 このお嬢様、推理小説の探偵役なのである。タマラが死ぬことで【切り裂き魔】と接点ができ、事件の真相に近づいていくという役どころ――だった。


 だって、あたしは生き延びちゃったし、肝心の【切り裂き魔】は絶命しちゃったし、もう事件は起きないものね……どうするのよ、これ。


 あたしは必死に思い出す。

 この物語はエレアノールを主役に、【切り裂き魔】と対峙しながら彼女自身の恋も進行していくラブミステリーだ。物語の終盤、エレアノール自身も身を狙われて、ヒーローが間一髪のところで救い出し、一緒に犯人を追い詰めて捕まえるという筋書き。

 【切り裂き魔】への興味はまだ継続中であるが、これ以上事件が起きないとなればエレアノール自身の恋は発展しないし、そもそも出会いのシーンがなくなってしまう。どうしたものか。


 いやー、あたし的にはあのヒーローはナシだから、いなくてもよくね?


「まあ、そうですね……手口が違うようですし、無関係ではないでしょうか?」

「これまでとおんなじように血がブシャーって感じだったって聞いてるけど?」

「そうですね……それでも、違う気がします。ただのカンですけど」


 とりあえず、【切り裂き魔】のことは忘れて欲しい。時間が経てば、【切り裂き魔】の事件は風化されて忘れ去られていくはずだ。

 それに、このお嬢様に血なまぐさい事件をひもとく探偵なんて似合わない。彼女にはもっと、素敵な恋物語の主人公がふさわしいだろう。


 否定されてつまらないのか、彼女は頬をふきらませていた。

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