第26話
「……あなた達は、 誰? 」
「…… 」
眼前の少女が今回の救出対象、 ハンナ――デヴォリとフォンタナの家族――に違い無い。
たったそれだけの事……だった筈なのに、 リュートは言葉が出なかった。
鉄の扉の向こう側に広がった世界は、 質素……と表現する他にないくらい、 何も無い部屋だった。
埃とカビ臭さの混ざった様な匂いのする、 僅か二畳程の狭い空間。 硬い事しか伝わってこない、 木箱を並べた上に薄い板が置かれただけのベッドにはシーツすら敷かれておらず。 それ以外でリュートの視界に入るのは、 部屋の隅に設置された
一体、 彼女が何をしたのと言うのだろうか……。
「……ここは、 懲罰房ですから 」
リュートの視線の先を追い掛けたハンナが、 か細い声を更に絞るようにして告げる。 その顔には、 彼女に僅かに残った
「……懲罰? 」
ただでさえ穏やかならぬ状況で耳にした、 看過出来ない言葉に
「おい、 リュート 」
――辛うじて、 先程の声と体のラインから、 女性と分かる程度にしか
「ちょっ、 ハっちゃん! 」
明らかに
「マジで急ぐぞ……ちょっと想定外
――反論はおろか、 一切の猶予すら与えない正に猛禽類の凝視を返されてしまい、 事態を察する。
「……ハンナさん、 悪いけど俺達に着いてきてもらうから! 」
「えっ? あの……きゃっ!! 」
意を決したリュートはハンナへと一方的な宣言を下し、 狭い室内では不必要な程に身体を加速させ、 ハンナに対して両足タックルの要領で足元へと滑り込み……誘拐犯や
「ちょっと、 あの! 」
背中越しに聴こえるか細い声を伴った抵抗を、 両腕でしっかりと太ももの辺りを抑え込む事で封じたリュート。 手早く周囲を見回してから、 室内にはハンナの私物らしきが一切無い事を確認するや否や、 侵入した際とは二つの意味で百八十度の変化をつけて部屋を飛び出した。
床板が
風に
ただし、 道中で何者かに遭遇した際は
幸いにして、 行きしなに立ち止まった鉄格子のある空間に来るまでは、 誰にも見つからずに辿り着く事が出来た。
「……ふぅ、 後はここだけか 」
少女とは言え、 人一人を抱えた上での逃走劇はリュートの体力をかなり消耗させていた。 意識に反して跳ねる右肩に言い聞かせるように慎重に息を吸い込んでから……ゆっくりと吐き出した所で、 反対の肩に担いだ相手からお呼びが掛かった。
「あの、 あなたは、その……? 」
「……聡いな、君は 」
リュートは反射的に、 自分でもよく分からない返事をしていた。
きちんと確認した訳では無いが、 出立前に漏れ聞こえた話――フォンタナが“姉”と慕っていた――から見るに、 この少女は自分よりも恐らく年上。 ここが今、
初めて任された大きな仕事といきなりの展開に、 ハンナのみならず自分も緊張、 もしくは困惑していたのかと内心で自問自答するリュートであったが……突如として、 頭の中――或いは胸の内――にて氷塊がごっそりと溶け落ちるような……不思議としか表現しようがない感覚が訪れる。
「……あぁ、 そうか、 そう言う事か 」
あの日の深夜……突然、 トゥールーズを襲った一連の戦闘の最中にて。 何故かデヴォリはアルフレッドを見逃し、 リュートに止めを刺さなかった。 あの時は、 あまりに戦闘そのものに夢中であった為に大して気にしていなかったが……デヴォリがリュートとアルに手心を掛けたのは、 自分の愛する
ここで重要な事は、 リュートがそれを
リュートにとってそれは、
彼は、 リュートに
「ああ、 そうだ……そりゃ怒りも湧くし、 キレもするわ 」
ここへ来て湧いた、 非人道的な扱いを何とも思わないカレスト教国への怒り。 クロクスと言う名の、 身分を振りかざした上での暴言を暴言だとも認識していない騎士への嫌悪感。
“人権”などと大層な物言いをするつもりも無かったが、 現代社会で生きた
「全部
「……あのぉ? 」
余りにもリュートの自問自答が長かったのか、 又は自分を背負った人間がブツブツ言い始めたのが恐ろしくなったのか。 どちらにせよ、
「あぁ、 ごめんごめん……何でも無いよ 」
危うく、 突飛な内容を口走りそうになった口元を手で抑え……反対の手を振るう事でそれを打ち消す。
「……そう、 ですか 」
ハンナの口調や先ほどとは異なる体の動きからは不安が
「それじゃあ、 行くよ? 」
「……はい 」
もっとも、 当のハンナとしては何の説明も無いまま連れ出された以上、
この修道院へと踏み込んだ時点で――感覚的にはそれ以前から――気付いていたリュートであったが。 前世を合わせても恐らく初めてであったであろう、 敵対勢力下にある施設への侵入かつ人質の救出と言うミッションは、 言葉にすれば実にあっさりと終わりを迎えた。
酔っぱらって泥酔したままの守衛は
「お、 来たか……ん? 何か
「まぁね……よく見てんなぁ 」
「うっし、 ハンナちゃんをこっちに 」
「あぁ、 うん 」
即座に自分の変化――恐らくは心境の類――に言及して見せた、 眼前へと降り立つ
「そう言えば…… 」
懲罰房の中ではハチに妨害されたので、 誘拐などしておいてその相手の顔をちゃんと見てなかった事を思い出すリュート。 そこで、 改めて彼女と目を合わせようとしたのだが。
「あぁ、 うぅぅ…… 」
「……あれ? え、 何かヤバい事した、俺?? 」
そこには、 今度は自分で自分の顔を
一瞬、 そんなに恥ずかしかったのかと言った馬鹿な考えが浮かぶも、 彼女の両の掌が徐々に上へと移り、 まるで眼底全体を……目の働き自体を抑え込むかのようにして苦しむ様子を目にして、 その思いをすぐに捨て去る。
誘拐自体を拒否される事はあるかもしれない。 事前の想定で頭の中にあったのは、 せいぜいがその辺りだったので流石に狼狽えるリュートだったが、
「落ち着け、 リュート。 お前のマントを羽織らせてから、 しっかりフードを下すんだ 」
「お、 おう 」
言われた通りに胸元できつく結ばれた革紐をほどけば、 外套はまだ十歳の未成熟なリュートの肩を流れるように、 構えた腕の中へと滑り込む。 後は、 今の手順を巻き戻すだけでハンナの両肩に漆黒の外套がふわりと乗せられて……フードをしっかりと被せてあげると、 彼女の両手どころか体全体に込められていた力が幾分か和らいだ様子が見て取れた。
「
「は、 はい。 ありがとうございます 」
ハチの先を含んだ言葉の選択が良かったのか、 それともリュートの取った行動で痛みが和らいだからなのか。 恐る恐るではあるが、 ハンナの口から感謝を示す言葉が聞けたので、 同時に――揃えた訳ではなかったが――
ハンナを勝手に連れ去った上に何も説明していないのだから、 理解してもらおう等と思う事が間違いなのだが……それでも、 だ。 二人は彼女を
「さて、 こんな所はさっさとおさらばだ。 リュート、 ハンナちゃんをしっかり支えとけよ? 」
「ああ、 分かってるよ 」
「よ、 よろしくお願いします 」
お互いの距離が少しだけ、 ほんの少しかもしれないが近づいた所で。 いよいよトゥールーズへ飛び立とうと上手く
「それにしても、 外に出たのがまずかったのか…… 」
「ええと、 その…… 」
「……アホっ!! 」
「痛てっ!? 」
リュートからすれば、 純粋にハンナの症状を心配して出たものだったのだが……彼女を外へと連れ出したのは紛れもなくリュートとハチなのだし、 そもそもその為に二人は遥々カレスト教国まで来たのだから、 いくら言っても
今更そんな事を言い出した所で、 ハンナが気まずい思いをするだけなのだから……失言の代償、 口に栓をする意味も含めた拳骨を受けたとしても、 それもまた。
「おら! まだ応急処置も終わってねぇんだ、 さっさと行くぞ!! 」
「あぁもう、 俺が悪かったって……んじゃハンナさん、 失礼して 」
「はい……きゃっ!? えっ、 ええっ!? 」
自分の間の悪さを理解したリュートは痛む頭頂部を軽く
自身の体に伝わる感触から、 何をされているかにすぐに思い至り、 反射的に声が出たハンナだったが……その時にはもう、 抱き合ったままの二人の体は、 宙に浮いていた。
「一旦、 あの村に降りるからな? 」
「了解っておい、 これ獲物の運び方じゃねぇかよ!? 」
いつのまにか
かの偉大な魔王軍の軍団長が長距離を移動する際には、 配下の魔鳥にこうやって運ばせていた事を。
「ったく、 これで見納めなんだ。 もう来ねぇからしっかり見とけよ? 」
「あぁ、 そうだな…… 」
カレスト教国の田舎町・デレーヴ。
グランディニア大陸の西の端――つまりは海――に近いとは言え、 海そのものとは徒歩はおろか、 馬でさえも結構な距離がある。 そのため、 古く
馬車の性能や魚の加工法を含めた各種技術の向上により、 次第にその必要性が薄れてしまい……昨今では新たに敷かれた街道からも外れてしまった、 近隣住民以外からは名前すら浮かばない町である。
ある意味では、 その
リュートがこのような、 歴史的な観点を備えていた訳では無いが……この修道院を悲しいと感じた点は、 まま妥当だと言える。
この寂れた田舎町がこれより数日後、
それは勿論、 危険な存在へとつけていた首輪のリードの先が千切れていたと言った悪い評判であり。
結局は、 その不都合な真実を嘘で覆い隠す為に
ただ、 そんな悲しい町だったとしても。
長年引っかかっていた、 喉の奥の小骨という訳ではないが。 自覚の有り無しはともかく、 異世界であるグランディニア大陸に生れ落ちて以来、 ずっと抱えていた“人格の乖離”と言える問題が解決したばかりのリュートにとっては
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