第2話 遥の手料理

「うまっ」


 葉物野菜と鶏肉の煮物を口に入れ、思わず言葉が出てしまう。


「えへへ」


 嬉しそうな声が聞こえたほうへと視線を向けると、そこには破壊力抜群の笑顔をたたえた彼女がテーブルの向かい側に座っていた。

 直視することができずにテーブルへと視線を逸らすと、美味しそうなおかずが湯気を立てている。どう見ても俺の好物しか置いていない。カバンの置き場所といい、やっぱり彼女は遥なんだろうか。


 そもそもスマホアプリから人間が出てくるなんてあるわけないんだが、そうでも思わないと説明がつかない。『遥』という名前の人物は他に心当たりがない。それに見ず知らずの人間が不法侵入しているにしては、俺に親密な雰囲気すぎて意味がわからない。

 戸惑いながらもぽつぽつと彼女と会話を続けるが、やはり遥だという確信が深まるだけだ。


「こっちも美味い」


 だけどご飯が美味い。疲れてるし余計なことを考えるのは今はやめようか。


「でしょー?」


 俺の言葉にひとしきり満足したのか、エプロンを外して椅子の背もたれに引っ掛ける。その下に着ていた服は、デフォルメされたクマが描かれた長袖のTシャツに、グレーの綿パンといった部屋着だ。


「お風呂沸かしてくるね」


 一言告げると部屋の外へと出ていく。


「……なんかよくわからんが、悪くはないな」


 今まで一人暮らしと思ってたけど気のせいだったんだろうか。頬をつねってみるが痛い。どうやら夢ではないようだ。


「ごちそうさまでした」


「はい、お粗末様でした」


 食べ終わると同時に彼女が部屋に戻ってくる。その手には俺のパジャマとバスタオルがあった。


「お風呂も湧いたからどうぞ」


「あ、うん」


 促されるままに脱衣所へと向かうと、服を脱いで風呂へと入る。かけ湯をして湯舟に浸かるが、思わずあくびが漏れる。それにしても自分以外が入れたお風呂に入るとか何年振りだろうか。

 おなかが膨れてお風呂の気持ちよさで寝そうになり、さっさと風呂から上がることにした。


「今日はお疲れ様でした」


 リビングに戻ると洗い物をしている彼女が目に入った。

 いたわる彼女の言葉に、今日あったことをあくび交じりで愚痴ってしまう。


「うふふ、明日もお仕事ですし、今日はもう寝てください」


「あぁ、そうするよ」


「私もお風呂に入ったら寝ますから」


 彼女の言葉に心臓が跳ね上がる。気づかれないように頷いて寝室へと移動すると、そこにはいつも通りシングルのベッドが置かれているだけだ。

 嫁という設定の彼女はやっぱりここで寝るんだろうか。期待と疑問を抱きながらベッドへと潜り込む。しかし相当疲れていたのか、彼女が部屋へと入ってくる気配を感じることなく眠りに落ちた。




 翌朝になって目が覚める。ぼんやりとしていた意識がはっきりするにつれ、昨日何があったかを思い出した。


「やっぱり夢だったんだろうか」


 布団の中を確認するが、自分一人しかいない。だけど何か、自分以外のぬくもりが残っているような気がする。それを確かめるためにも布団から抜け出してリビングへと向かうと。


「おはようございます、拓海さん」


 そこにはブレザーの制服の下にエプロンを付けた彼女がいた。俺が起きたことに気が付くと、柔らかい笑顔と共に朝の挨拶が飛んでくる。


「あ……、おはよう」


 なんてこったい。やっぱり夢じゃなかった。ダイニングテーブルには二つのお茶碗が載っている。


「もうすぐできるから、ちょっと待っててね」


「あぁ」


 思わずにやけてしまう顔を見られないように、洗面台へと向かうと顔を洗う。リビングへ戻ってくると、テーブルにはみそ汁と焼き魚が追加されていた。


「できましたよ」


「今日の朝ごはんも美味そうだな」


「でしょー」


 最後にお浸しの小鉢をテーブルに置くと、彼女はエプロンを外して俺の向かいに座る。


「「いただきます」」


 まずはみそ汁を一口含むと、次は小鉢に手を付ける。どっちも出汁が効いていて美味い。朝は食べずに仕事に行くことが多かったが、ちゃんとしたご飯を食えるのはいいもんだ。


「あー、幸せ……」


「あはは、大げさですよ」


「いやいや、そんなことはないさ。朝ごはんも美味しいし、最高じゃないか」


「えへへ」


 否定する彼女を褒めると、うっすらと頬に朱が差したように色づく。


「あの……、拓海さん」


 朝ごはんを食べ終わったころ、彼女が急に眉を寄せて不安げに声をかけてきた。


「うん?」


「今日は、早く帰ってこれますか……?」


 こちらを伺うように上目づかいで見つめてくる。さらりとこぼれる前髪が左目に重なり、非常に破壊力が高い。


「うーん、そうだねぇ……」


 だけど俺はそれに応えることができない。……いや、はっきりと早く帰ると断言ができないでいた。


「あ、ごめんなさい。……忙しいのにわがまま言ってしまって」


 しゅんとする彼女に、耳と尻尾を畳んで小さくなる小動物を重ねてしまう。


「いやいや、気にしないでいいよ。そう言ってくれると俺も嬉しい」


 まったくもって男冥利に尽きるっていうのはこういう事を指すのか。仕事にやる気がみなぎるというものである。

 そうして朝の支度をして、玄関へと向かう。


「いってらっしゃい」


 制服姿の彼女自身の声が俺の耳に届く。


「いってきます」


 スマホアプリではない、遥という嫁に見送られて、俺は職場へと向かうのだった。

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