第3話「過ぎ去る日々の片隅で」
「はあ、今日もつかれた」
部室に戻った荻原の横で、野口が大きな伸びをしている。
「にしても、今日は楽だったな」
野口は使い捨ての制汗タオルで脇の下を拭きながら、そういった。メンソール特有のつんとした刺激臭が空間を満たす。が、汗をかいた後はその清涼感がたまらない。
「鬼マネが黙ってたからな」
後ろで着替えたシャツでパタパタと体を扇ぐ高坂がにやりと笑った。
「そうそう。今日は荻原もその被害を免れた」
「あいつでも体調崩す時があるんだな」
荻原はそう言いながら、野口の制汗タオルを一枚取り出した。あ、俺の。そういいながらも、野口に一枚だけ、と言って荻原は顔の前で手を合わせる。
「そりゃあ、女子だからじゃないか?」
高坂はにやりとしながら、おなかのあたりをさするように手を動かした。
「それって、ふつうイライラするんじゃないん?」
「いや、俺の姉ちゃん、この世の終わりみたいな顔して死んでる」
「お前の姉貴の事情なんて聴きたくねえよ」
ねっとりとした熱気を感じて、荻原は赤くなったほほを隠すように制汗タオルで顔を拭いた。
「荻原、これからどうする」
野口はもうネクタイをゆるく結んで、鞄の中に体操着を突っ込んでいる最中だった。
「練習、してこっかなー」
荻原は少し大きめのスラックスをだらだらと履いた。
「さすがだねー。俺らのエースは」
高坂が冷やかすように言う。
「お前らやんねえのか」
「わりい。今日から塾なんだ」
高坂は顔の前で手を合わせた。
「えー。まじかよ」
荻原は落胆しながら、すでにロッカーのカギに手をかけている野口に救いの目を向けた。
「いやあ、やりたいのはやまやまなんだけどな」
野口はそう言いながら、少し顔を緩ませながら頭をかいた。つんつんと立てられた髪が無造作に整えられていく。
「明日の数学、河合のせいで問題多く出題されただろ?早く帰りてえ」
本当か?荻原はそう思いながらも、あきらめるようにため息をついた。
ドアを誰かがノックをして、女子の高い声が聞こえた。
「入っていい?」
どうぞ、という男子一同の合図で入ってきたのは、七川だった。
「あんたら、まだ着替えてたの?」
そういいながら七川は洗濯かごにぐしゃぐしゃに投げ込まれた大量のウェアに目を落とした。
今日の紅白戦で使われた赤とオレンジのウェアたちは、選手たちの汗を吸って男子特有のにおいを出していた。
「あのさあ、もう少し丁寧にいれるってことしないわけ」
七川は大きなため息をつきながら、眉間にしわを刻み付けた。ぶつぶつと愚痴を漏らしながら、かごを持ち上げる。ふと、荻原は違和感を覚えた。
「あれ、早瀬は?」
部屋を出ようとした七川を止めるように、荻原は声をかけた。
「ああ、ちょっと元気なくって」
「これか?」
野口がにやにやしながら、自分の下腹部をなでるように手を動かしている。
「隼斗サイテー」
七川はさげすむような白い眼を向けると、大きな音を立てて扉を閉めた。
「隼斗、さいてー」
高坂が七川のマネをして、高い声を出した。それが妙に面白く、荻原は声を出して笑った。なに笑ってんだよ、という野口は顔を赤くして荻原の肩をどついた。
暗がりに消える二人に別れを告げて、荻原はバスケットの前に立った。フリースローラインの中心で開いた両足は、きれいにモップをかけられたフローリングをけりたくてうずうずしている。荻原はもう一度シューズの履き心地を確認した。一人しかいない体育館はしんと静まって、荻原の足元から聞こえるゴムの擦れる音が天井まで響く。
バスケはいい。荻原は静かに息を整えた。部活でほってった体は十分に柔らかくなっている。ボールを追っているときは勉強なんてどうでもよかった。バスケをやっている今を感じられる。手からやさしく放たれたボールはきれいな放物線を描いてバスケットへと吸収されていった。
ふう、と荻原は息を吐いた。自主練の際の占いみたいなもので、この一本目が入るか入らないかでその日の練習のよしあしを決めていた。よし、次はレイアップ。ちょうどいいサイズのコーンを探しに、更衣室横にある倉庫に足を向けたその時だった。
ガラガラと、体育館の入り口があいた。少しうつむいた様子の早瀬が、大きなため息をついてフローリングに足を置いていく。
「どうした?」
声をかけられてやっと人がいることに気が付いたのか、早瀬は驚いたように顔を上げた。一瞬荻原と目があい、誰かと間違えたのか、つまらなさそうに目をそむけた。
「ああ、荻原か」
彼女は小さなため息をついて荻原の目の前を通り過ぎていく。
「近藤にでも怒られたのか」
荻原はそのまま彼女の背中を見送った。
「ああ、そう。もう最悪。いろいろ抜けてたの自分だけど」
ドンマイ、という前に、早瀬は更衣室に入ってしまった。
いつも明るいわけではないが、こんなにも落ち込んでいる早瀬を、荻原は初めて見る気がした。少し気にはなったが、腹をさする野口や高坂の顔を思い出してそんな気も失せた。
荻原は倉庫の中から適当な数のコーンを探した。体育館はバスケ部だけが使っているわけではない。バレー部やバトミントン部のネット。使用する人のいない体操部の木馬。人が出入りするたびに多少物の位置が変わるため、コーンのように簡単に動かせるものはどこに行ったか全くわからなくなる。荻原はなんとなくありそうなところを探し始めた。なければ今日もバト部の羽を借りるか。ぼろぼろになった羽は、近くのスーパーの銘柄の入った買い物かごに山のように放り込まれている。ここから一つ取ったところで、ばれる心配なんてなかった。
「ねえ」
突然かけられた声に驚いて、荻原は周りのボールかごをひっかけながら振り返った。ガチャガチャと金属のぶつかり合う音が倉庫中に響く。倉庫の入り口の隅によりかかる早瀬の姿が、逆行を浴びて荻原の足元まで大きな影を作っていた。九月も後半になれば、六時を過ぎた外は暗くなる。逆行で暗くなった早瀬の顔の上で、目だけが冷たい光を放ってこちらを向いている。
その瞳はどこか揺れているように、荻原は感じられた。
「あのさ……話があるんだけど」
早瀬は目をそらせながら、少し戸惑うように言った。荻原の心臓から、強い圧力で血液が押し出された。告白?いや、ないない。もし告白だったらどうしよう。そんな期待をしている自分を否定しようとする思いが、いっそう荻原に自分の脈の大きさを実感させた。
「どうした」
荻原は裏返りそうになる声を必死に抑えて言った。ほほに熱が帯びていく。もし、早瀬と付き合ったりして、自分は部活をしっかりとやっていけるのだろうか。淡い期待が、荻原の心を踊らした。
「昨日……見た?」
そんな期待を、早瀬はきれいに裏切った。
え?言葉にならない言葉が、荻原の気持ちを急速に覚ましていく。期待したことなどまるでなかったようにするようだ。
「なにを?」
荻原は動揺しながら、揺れる目で早瀬を見つめた。おちつけ。そんな言葉とは裏腹に、荻原の頭の中で謎が廻った。何を見た。何が言いたい。早瀬は、何を聞きたい。
「いや、昨日の帰りなんだけど……」
そのあとの言葉に気付いてか、早瀬はそこから口をつぐんだ。
「ごめん。何もない」
逃げるように立ち去ろうとする早瀬の背中が、昨日見たメタセコイア下の女子の背中と重なって、荻原は早瀬を呼び止めた。
「ちょっと待て、お前の言ってることって……」
呼び止められたことに驚いて硬直する背中を、荻原はなんとなく否定したかった。まさか、な――。
「啓吾の――」
振り返った早瀬の目に涙の膜が張って、揺れている。ああ、そういうことか。荻原は妙に納得をして、言えなくなった言葉を探した。
「……見てたんじゃん」
早瀬はぼそりと呟いた。そらされた顔に、妙な罪悪感を植え付けられたような気がして、荻原は頭をかいた。
「いや、たまたま目に入ったっていうか……」
「笑ってたんでしょ」
荻原の苦しい言い訳をさえぎる様に、早瀬は強く言った。
「いやいや、俺はさあ……」
荻原はいうのをやめた。ひどい振られ方をしたのは十分想像できる。それを見られたことがみじめで、しょうがないんだろうな。荻原はため息を漏らした。啓吾を知らない早瀬に同情せざるを得なかった。
啓吾の言ったセリフはだいたい想像できた。
「じゃあ、どうすりゃいいんだよ」
「別に、確認しただけだから」
そういって、早瀬は足早に出口へ向かった。
「おい、ちょっと」
「……誰かに言ったら殺すから」
呼び止めた萩原に、早瀬はそう言い残して、体育館をあとにした。
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